蓋はひとまず外したままにした。
木鷽は北北西を向いて、観測台の上に据わっている。
異紀は筆を置いた。
「茶ぁ飲む?」
「もらう」
戸口から爪の音がした。
三福だった。口元から、灰色の羽が垂れている。
その陰に、鳥の紅い頬が覗いた。
「……鷽」
思わず席を立った。
近寄ると、三福は鳥を床へ置き、腰を落とした。
しゃがみ込んで取り上げる。
丸みのある胴。青灰の羽。紅色の頬。短く、厚い嘴。
鷽で間違いない。
嘴から翼へ指を移す。羽は整っていた。尾羽にも目立った擦れはなく、汚れも少ない。
蝉の声が一際大きくなって、窓から入ってきた。
理一郎の指が止まった。
今は夏の盛りだった。
冬なら、この辺りでも鷽は見られる。
だが、この時期に市中へいる鳥ではない。
もう一度、手の中の鷽を見る。
長く野を飛び回っていたものにしては、状態がいい。
襟元に、嫌な汗が滲んだ。
異紀が脇から覗き込んだ。
「あれ、志岐さん、鷽は今頃北の山や言いよらんかった?」
「……言ったな」
「気の早いのが迷ってきたんかね」
「そうだといいが」
翼の端から脚の先まで、目で追い直す。
どこかで迷い込んだものかもしれない。
たまたま野へ出ていたものかもしれない。
脳裏をよぎったものを、裏づける材料はない。
「ほんなら、飼い鳥か」
異紀が何でもないことのように言った。
理一郎は思わず鷽から目を逸らした。
それでも、掌の上にあるものは確かだった。
「……分からん。近辺で鷽を飼っている家がないか――」
「何て聞く?」
異紀が遮った。
「おまんが探し始めたら、鳥より先に、猫の話が立つで」
三福は、前足を揃えて座っている。
「探している者がいるかもしれん」
「そうやね」
異紀はそこは退けなかった。
「けど、飼い主が見つかったら、ふくは『人の鳥を獲った猫』になる」
理一郎は顔を上げた。
「出所を辿るだけだ」
「どこで見つけたか聞かれたら?猫が咥えてきたいうたら、人は勝手に先をつなぐやろ」
足元で、何も知らぬ顔で三福がこちらを見ている。
「それで、ふくがえらい目に遭うたら?」
異紀は三福へ目をやった。
「猫が鳥獲るがは、猫の道理やろ。そこへ人の話を足すがは、わしらの方や」
三福から戻った目が、理一郎の顔で止まった。
「それ、観記掛がやることなが?」
飼い鳥だった確証はない。三福が獲った確証もない。どこから来たかも分からない。
ただ確かめるつもりでも、官署が踏み込めば、話の筋を作るのはこちらになる。
しばらくして、理一郎は息を吐いた。
「この先は、追わない」
手の中の鷽を持ち直す。
「――だが、これは見る」
それを聞いて、異紀の肩が下がった。
「そこは別ながやね」
「実物があるのに比較しない手はない」
そう言って、観測台に戻った。
木鷽は、ただそこにある。その脇へ、鷽を置いた。
木の胴と、羽毛の胴。その先には、よく似た二つの嘴がある。
先日取った寸法と照らし、拡大鏡越しに形を見比べる。
やがて、拡大鏡を置いた。
「嘴は、鷽でいい」
異紀が筆を取り上げた。
「ふくは?」
「書くな」
「この鷽は?」
「書くな」
「見比べたことは?」
理一郎は一拍置いた。
「俺が見た」
台の上には、二つの鷽の嘴が並んでいた。
「便利やねえ、標本医」
「責任は持つと言っている」
筆が紙へ下りた。
理一郎は鷽を持ち上げ、三福の前へ戻した。
「もういい」
三福が鼻先を寄せる。
「助かった」
三福は動かなかった。
理一郎をじっと見上げている。
「……どうした」
動かない。
「返したぞ」
まだ見る。
異紀は三福と理一郎を見比べた。
「鰹節やない?」
三福の目は、理一郎から外れない。
(分かった。やるから見るな)
袖口から紙包みを取り出す。包みを開くと、削り節の香りが立った。
異紀の眉が上がる。
「それ、いつも持っちゅうが?」
「猫なんて、いつ現れるかわからんだろう」
「置いといたらえいのに」
「いちいち取りに戻る方が面倒だ」
鰹節を手に取ると、三福は掌に直接口を寄せてきた。
すぐに食べ終え、丁寧に前足を舐める。
それから何事もなかったように、鷽の胴を咥え直すと、軽い足取りで戸口を抜けた。
「持って行くのか」
「返したがやろ」
理一郎は後ろ姿を見送った。
「何しに来たんだ、あいつは」
「好かれちゅうねえ」
立てた尾が、廊下の向こうへ消えていった。