分館へ戻った頃には、とっくに昼は回っていた。
理一郎は鞄を机の脇へ置いた。中を開けるでもなく、観測室へ足を向ける。
「お茶くらい飲めば?」
異紀も荷物を下ろしながら言った。
「あとでいい」
「まあ、わしは慣れちゅうき。そんなら先に筆を――」
理一郎は踵を返した。
「食堂に行く」
異紀の手が止まった。
「……食う気になった?」
「なった」
「ほいたら、わしは竈に火ぃ入れて、茶ぁ淹れちょくき」
「おまえもだ」
異紀が振り返った。
「……わしも?」
「昼やろ」
「腹、減ってないけど」
「この暑さで食を抜くな。余計に食えなくなるぞ」
窓の外では、白く焼けた庭先に蝉の声が落ちている。鳴海屋からここまで歩いてきただけでも、襟元にはまだ熱が残っていた。
「一食くらい、どうということないで」
「無理やり口に詰めろとは言っていない。食べられそうなものがあれば、それでいい。汁でも何でも、少しは腹に入れろ」
「……太らせて食う気?」
理一郎は異紀を見た。
「食いでがあるようになるまでには、まだ時間がいるな」
異紀が瞬いた。
「ほんまに食う気なが?」
異紀はしばらく理一郎を見ていた。
「ほんなら、食うか」
食堂で異紀が口にしたのは、西瓜一切れだった。
◇
観測室で、理一郎は本館から借りてきた京洛の市街図を台へ広げた。
紙の端が浮く。
文鎮で押さえると、異紀が向かいから覗き込んだ。
理一郎は地図の上で分館を確かめた。そこから北西へ指を滑らせ、鳴海屋の辺りで止める。
道筋は追えるが、屋敷一軒ごとの形までは載っていない。
「この辺りだ」
異紀も地図に目を走らせた。
理一郎は、鳴海屋の次の間を頭の中へ置き直した。
東側の壁にある地袋。部屋の線から緩く外れていた天板の縁。異紀が箱を沿わせた、その向き。
その先に、庭の離れ跡があった。
「あの板に沿わせて置けば、木鷽は離れ跡を向く」
異紀の指が、地図上の一点を押さえた。
「地袋から見たら……南西、やね」
「そして佐和さんは、西の方へ木鷽を向けて置いていた」
理一郎は指を鳴海屋から分館へ滑らせた。
「だが、ここから離れ跡を向くなら、南西ではない」
異紀の目が二点を行き来した。
「北西より、ちっくと北か」
「そのくらいだな」
板に沿う向きと、離れ跡を向く方角は、ここでは重ならない。
棚から方位磁針を取り、地図の脇へ置いた。
針が揺れる。細かな振れが収まるのを待ちながら、観測台へ目を移した。
観測室の北側には、高窓がある。直射が入りにくく、観測台の上には一日を通して均された光が落ちる。
理一郎は、自分の利き手が対象へ影を落とさぬよう、いつも北窓を左手にして座っていた。
木鷽も、ほかの観測物と変わらない。正面を自分へ向けて据えていた。
磁針の北を基準に、観測台の向きを取った。
木鷽の正面は、西を向いていたことになる。
図らずも、佐和が置いていた向きと同じだった。
分館で観測していた二日間、木鷽はほぼその向きのままだった。
箱を開けるたび、作用は出ている。
地図と磁針を見比べた。
西。佐和と、これまでの理一郎が置いていた方角。
南西。鳴海屋で、天板に沿わせれば離れ跡を向いた方角。
北北西。分館から、離れ跡そのものを向く方角。
三つは重ならない。
「試してみるか」
「南西と、離れ跡の方角を?」
異紀が木箱へ目をやる。
理一郎は地図を観測台の端へ寄せた。
方位磁針を確かめながら、木鷽の正面が南西を向くよう箱を回す。
木箱の蓋へ手を掛け、手を止めた。
「――判定はどうするか」
これまでのように、何かが口をつくのを待つのでは時間がかかる。
「それなら、わしが見られる」
異紀が、こともなげに言った。
理一郎は蓋に手を置いたまま、異紀を見た。
「どういうことだ?」
「そのままの意味や。入っちゅうか、抜けちゅうか、分けられる」
「何を見てる」
「それはまだ言わん」
「なぜ」
「言うたら、志岐さん、そこ気にするやろ」
鳴海屋へ出向く前の観測が浮かんだ。
脈絡もなく読み上げられた、あの一節。
時刻に添えられた印。
問い返しても、異紀は「検証」としか答えなかった。
「……あの時のは、そのためか」
異紀が頷く。
「使えるか、見たかった」
理一郎は木箱へ目を戻した。
「どの程度、確かだ」
「見た限りでは、外しちょらん」
「それなら、判定は任せる」
異紀が筆と帳面を手元へ寄せた。
方位磁針を確かめる。
「南西からだ」
「分かった」
蓋を開けた。
◇
異紀は、理一郎の胸元を見ていた。
蓋が上がりきるころ、胸が動く。
浅く、息が入った。
筆を紙へ落とす。
理一郎は木鷽を見ながら待っていた。蓋へ添えた手も動かさなかった。
「閉じてえいよ」
蓋が下り、木と木が重なる。その直後、短く息が抜けた。
帳面へ書き足す。
理一郎は方位磁針を確かめ、箱を閉じたまま回した。
「次、北北西」
分館から、鳴海屋の離れ跡へ向かう方角だった。
理一郎が箱を止めた。
「開ける」
蓋が上がる。
異紀は同じところを見る。
理一郎の胸は、先ほどのようには動かなかった。
「えいよ」
蓋が下りる。閉じたあとにも、先ほどのような呼気は出ない。
「差は出たか」
「あった」
理一郎の視線が、方位磁針へ落ちた。
「もう一度」
「順、変える?」
「次は、北北西から」
今度は順を逆にした。
北北西へ向けたまま開く。閉じても、息は変わらない。
理一郎は箱を南西へ回した。
「次」
蓋が上がる。
胸が動いた。浅く、ひとつ。
閉じれば、短く息が抜ける。
結果を書き加えた。
「同じや」
「どちらが出た」
「南西。北北西、離れ跡の方は出んかった」
順を入れ替えても、結果は動かなかった。
「次は、向きを伏せる。俺が向きを知っていると、開ける前から構えるかもしれん」
「ほいたら、目ぇ塞ぐか」
「そうだな」
理一郎は箱を上から見た。
蓋も底も正方形だ。
回転させても、箱の形は変わらない。
「離れ跡の方を一つにして、そこから四半回転ずつ四つ見る。順は知らせるな」
「途中でも回しちょく」
「頼む。どこで止めたか分からないように」
異紀は、引き出しを開けた。取り出した手袋を、理一郎の前へ置く。
「これも」
「木鷽には触らない」
「箱には触るやろ」
「形は同じだ」
「欠けのひとつでも覚えたら、次から分かるろ」
異紀は手袋を理一郎の方へ押した。
「そういうとこ、目敏いき」
理一郎は木箱を見た。それから、手袋を取った。
両手にはめてから、手拭いを折って目元へ当てる。
異紀は後ろへ回り、結び目を締めた。
理一郎は椅子に座ったまま、両手を膝へ置いた。
異紀は、箱をゆっくりと回した。止め、短く戻し、また動かす。向きは告げない。
「開けてえいよ」
理一郎は蓋の縁を探り、真上へ抜いた。
異紀は理一郎の胸元を見た。蓋が外れて間もなく、胸が浅く動く。
「閉じて」
理一郎が蓋を戻した。短く息が抜ける。
「待ってて」
再び、木が台を擦った。一度ではない。
止まって、動く。また止まる。
「開けて」
蓋が上がる。呼吸は変わらなかった。
「戻して」
蓋が戻る。異紀は帳面へ書き足していった。
同じ手順を、あと二度繰り返した。
箱が閉じるたび、台の上で木の擦れる音だけがする。
どこまで回したのかも、どちらへ戻したのかも告げない。
四度目を終えると、異紀は帳面を見直した。
「もう一遍やる」
理一郎は目隠しをしたまま頷いた。
順を変え、同じ四つを繰り返す。
蓋を上げる。待つ。閉じる。箱が回る。次を開ける。
二巡目を終えて、異紀の筆が止まった。
「外してえいよ」
理一郎は手拭いをほどいた。
何度か瞬いて、異紀を見る。
「どうだった」
「同じ」
異紀は帳面を理一郎の方へ向けた。
「出んかったんは、一つだけ。二巡とも」
「どこだ」
異紀の指が、地図の上へ移った。
分館から、鳴海屋の離れ跡へ伸びる方を示す。
「ここ」
残る三つには、いずれも作用が出ていた。
理一郎は帳面と地図を見比べた。離れ跡へ伸びる線の上で、指が止まる。
「向きを伏せても同じか」
頷くと、理一郎は手袋をしたまま、木箱へ手を伸ばした。
「次は、境を見る」
「境?」
「どこまで振れば出るか」
異紀は再び理一郎の目に手拭いを当てた。
離れ跡へ取った向きから西寄りへ箱を回し、箱を開けてもらう。
理一郎の胸元を見る。変わらない。
「閉じて」
さらに西へ振る。再び蓋が上がる。
今度は、胸が浅く動いた。
「もうえいよ」
蓋が下りる。短く息が抜けた。
反対側も同じように確かめた。
離れ跡へ取った向きから多少振った程度では、変化は出ない。そこからさらに外すと、作用が戻った。
最後に北北西へ戻した。
蓋を上げても、変化は出なかった。
理一郎は、蓋から手を離し、手拭いを外した。
帳面に書き留めた結果を地図へ移す。
離れ跡へ引いた線の両側に、作用の出なかった範囲が残った。
「一点だけではないな」
「この辺りまでは出んね」
理一郎の指が、その範囲をなぞった。
「方角そのものか、その先に離れ跡があるからか。ここでは分けられん」
「場所を変える?」
理一郎の指が、分館から鳴海屋へ移った。
「鳴海屋で、もう一度南西を試す」
「こっちでは作用があった向きやね」
「向こうで出なければ、南西そのものではない」
理一郎は、地図の上から指を離した。