理一郎と異紀。
——理(ことわり)と異(ことわざ)が未だ並び立つ時代。
大雪が降った朝。 ただ、それだけ。
観記室の戸の前で、志岐理一郎(しき りいちろう)はいったん足を止めた。
草履の裏に張りついた雪を、柱の角で静かにこそげ落とす。
白い粒が、ぱらぱらと敷居の外に散った。音はほとんど立たないのに、白さだけが目に残る。
廊下の空気は、夜の名残をそのまま抱え込んでいる。
吐く息が、細く揺れた。
その揺れを見送ることなく、理一郎は癖のように一歩を進めた。
雪の朝の歩き方を、身体のどこかが覚えているようだった。
戸を開けて中に入ると、畳の匂いと冷えた紙の匂いが、薄く混ざり合っていた。
部屋の真ん中に置かれた火鉢には、灰の底に埋もれた炭が、かすかに朱を残しているだけだ。
夜を引き継いだ小さな灯が、そこだけに残っているように見えた。
理一郎は羽織を脱ぎ、柱の衣紋掛けにかける。
肩に残った雪を、手の甲で軽く払った。慣れた所作だが、その指先はほんの少しだけ冷たい。
火鉢のそばに膝をつき、火箸で灰をそっと崩す。
灰の奥で、まだ生きていた火が、細い筋になって顔を出した。
赤がわずかに揺れ、こちらの様子をうかがうように、息をひとつ吸い込む。
「……まだ、いけるな」
小さく呟き、炭を二つ三つ足す。
崩した灰をかぶせ、息を含ませるように少しだけ扇ぐ。
じり、と音がした。
新しい炭の縁から、ゆっくり赤みが広がっていく。
火鉢のまわりだけ、冷たさが薄くやわらぐ。
そのとき、廊下の向こう、庭に面した方角で、雪を踏み抜く鈍い音がした。
静まり返った分館に、その一音だけがくっきりと響く。
ひと息おいて、ざく、ざく、と二、三歩。
やがてそれは、板の廊下を駆ける軽い足音に変わった。
理一郎は火箸を置き、顔だけ戸のほうへ向けた。
戸が、勢いよく開く。
「……おはようございますやき」
久遠異紀(くおん いき)が、白い息を吐きながら顔を出した。
髪には、まだ細かな雪が残っている。
頬はうっすらと赤く、袴の裾は、膝あたりまで濃く濡れていた。
一拍置いてから、理一郎は口を開く。
「その濡れ方は……途中で、転んだな」
問いではなく、言い切りに近い。
言い切ったあとで、胸のどこかが、そっと力を抜いた。
異紀は戸を閉め、苦笑とも照れともつかない顔で肩をすくめた。
「ちょっとだけ、足を滑らしただけやき。
ようけ降っちょったきね」
畳に足を踏み入れた瞬間、裾から小さな雫が落ちる。
冷たい点が、畳の色を濃くした。その輪郭を、理一郎の視線が短くなぞる。
理一郎は立ち上がり、部屋の隅の棚から古い手ぬぐいを一枚取り、火鉢のそばを顎で示す。
「まず、そこに座れ。
歩き回るな。濡れる」
「畳の心配からやね」
口ではそう言いながら、異紀は素直に火鉢の横に腰を下ろした。
膝を少し抱えるようにして座り、差し出された手ぬぐいで裾を押さえる。
「冷た……」
「冷たいに決まっちゅう」
理一郎は短く返し、視線を異紀の膝に落とす。
布の下で、目に見えるほどの腫れはない。指先が、ほっとしたようにわずかに緩む。
「打ったところ、あとで見る。
歩けんほどじゃないか」
「歩けるき。ここまで来ちゅうし」
「そういう言い方は、当てにならん」
火鉢の炭が、ぱち、と小さくはぜる。
その音に紛れるように、理一郎は息をひとつ吐いた。
吐く息が火の赤に溶けていく。
「十年に一度の雪で、しばらく寝込まれたら困る。
……医者がおりながら放っといた、となるのも面倒や」
異紀は火に手をかざしながら、目だけで理一郎を見上げた。
指の節に、ゆっくりと血の色が戻っていく。
「心配しゆうくせに、言い方がそれやきね」
「事実を言いゆうだけだ」
そう言って、理一郎は机の上の書類に手を伸ばす。
雪の日用に取り分けておいた束を、火鉢の近くへ引き寄せた。
紙の端が擦れる音が、外の白さと切り離された、部屋の時間をつくる。
外では、まだ子どもらの声が聞こえる。
遠くで、雪を踏む音が混ざる。
異紀はしばらく、その気配に耳を傾けていた。
指先には、少しずつ火の温度が戻ってくる。
膝にかけた手ぬぐいの上で、布がゆっくりと暖まっていった。
「……子どもら、鎌倉作りよった」
視線は火の中に落ちている。
「小さいけんど、中、ちゃんと空いちゅう。
頭だけ突っ込んで、すぐ引きずり出された」
「途中で済んだなら、まだえい」
理一郎は書類を開きながら、視線だけを横に流した。
火の赤が、異紀の濡れた裾をかすかに照らす。
「膝が痛み出したら、すぐ言え。
我慢して拗らせたら、そのほうが手間だ」
理一郎は、めくりかけた頁の端を、指先で一度だけ揃える。 火鉢越しに、その束へ向けられた異紀の視線が、そっとなぞった。
「ようけ言うねえ。
ほんなら、十年に一度の雪は、十年分の帳簿と一緒に、ここで溶かしてしまわんといかんね」
異紀は苦笑し、火鉢の縁に肘を軽く預けた。
頬はまだ赤く、目の奥だけが落ち着いている。
そこに、外の白さとは別の温度が、静かに沈んでいた。
炭の赤が少し強くなり、
濡れた裾から、細い湯気が立ちのぼった。
その細い筋が、観記室の冷えた空気に、ゆっくり溶けていった。
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