梅雨は明けきらんくせに、空は先に夏の色をしていた。
分館の障子を通る光は白い。
畳の目へ細く落ち、風とも呼べない動きが、紙と木のあいだに湿りを残している。
この一週間、目立った届けは来ていない。
控えの紙束もまだ低い。観測台の上も片づいたままだ。
人の手が入らない日が続くと、分館は音をなくす。
理一郎は机の上に素描帳を開いていた。
心臓と眼球の標本を写した流れで、部屋の中のものを描くようになった。
硯、文鎮、硝子瓶、台の脚。置かれたままのものが、線になっていく。
硬筆の先が紙を擦る。
傍らでは、異紀が本を読んでいた。
和綴じではない。背を糊で固めた洋装本で、濃い緑の表紙に金の箔押しがある。
「志岐さん」
呼ばれて、硬筆を置く。
「なんだ」
異紀は本から顔を上げた。
「ここ、ちいと引っかかるがやけど。合うちゅう?」
差し出された頁を受け取る。
活字の列はきれいで、語も飛び抜けて難しくはない。
少なくとも、体裁の整った実用書には見えた。
家にあった泰西渡りの医学書の読み方は、父や叔父に幼い頃から仕込まれていた。
学課を詰めていた頃にも、こういう文字列はずいぶん追わされている。
理一郎は頁に目を落とした。
行をひとつ、ふたつ、黙って追う。
その途中で、声がひとこと、低く漏れた。
「……not at once……」
指が、そこで止まる。
文体が妙に湿っている。
理一郎は眉を寄せたまま、続きを目で追った。
——When first he drew near, he did not at once claim the whole of her, but paused, as though reverence itself required delay. His hand remained at her waist, and she, being half-afraid and half-willing, lowered her eyes…
理一郎は黙ったまま、次の行まで視線を走らせた。
頁の端を押さえる指が、紙を深く押した。
沈黙が落ちた。
理一郎の視線が、ゆっくりと本から上がる。
それから、ややあって低く言う。
「……なんだこれは」
異紀が目を瞬いた。
「分からん?」
「だから言っている」
本を持つ手を返し、理一郎は表紙へ目をやる。
金の箔押しが、光を受けてやけに上品に見えた。
「そこには、家庭衛生要録。その下に、婦女子養生論ってあるね」
一拍おいて、異紀は表紙の字面を目でなぞるように言った。
「……けんど、開いてみたら、夫婦の暮らし向きと、夜のことやった」
理一郎は黙った。
窓の外でどこかの木にとまっていた鳥がひと声鳴く。
そのあいだも、異紀は平然としている。
「……おまえな」
ようやくそこまで出すと、異紀が首を傾げた。
「何?」
「それを、ここで読むのか」
異紀は瞬きをひとつした。
「いかんが?」
理一郎の指が本の端で止まる。
「読むなとは言わん。ここで開くな」
言いながら、理一郎は本を異紀に押し返した。
異紀は本を受け取り、ぱら、と前の頁へ戻す。
「前の方はまっこと立派やったで」
図版のあるところを開くと、たしかに最初の方には骨格図らしいものや、月ごとの表のようなものが並んでいた。産の折に備えるための頁らしいものまで、ひと続きに混じっている。
「ほら」
「そういう問題ではない」
理一郎は額に手を当てた。
異紀は、少し首を傾けただけだった。
「読んでみたら、そういう話も入っちょっただけや」
理一郎はしばらく黙った。
「……気づいた時点で閉じろ」
「載っちゅうがやき」
理一郎は返しかけて、やめた。
異紀は気にしたふうもない。
「……意味は、どこまで分かっている」
「さっきのとこまでは、だいたい」
「よくそれで先を開いたな」
「ほいたら、ちゃんと教えてくれる?」
「断る」
即答すると、異紀がふっと笑う。
「けちやねぇ」
「惜しむ惜しまんの話やない」
理一郎はそこで口を閉じた。
視線が、本の上に置かれた異紀の指へ落ちる。
その指先が、異国の金の箔押しをなぞって止まった。金の文字が、窓からの光を受けて鈍く返った。
――Manual of Domestic Hygiene.
A Treatise on the Health of Women.――
理一郎の目が、英字の上をなぞった。
それから、ゆっくりと異紀を見る。
「……おまえ、泰西の文字をどこで覚えた」
異紀はそこで目を泳がせた。
「習うた覚えはないがやけどね。よう分からんまま見よったら、なんとなく、そういうことかって入ってくるがよ」
理一郎の眉が、もう一段寄る。
「なんだそれは」
「わしも知りたい」
あっさり返して、異紀はまた頁を撫でた。
理一郎が次の言葉を探しているところへ、昼の鐘が鳴った。
外から届く湿った音が、分館の中をひとつ撫でていく。
異紀は本を閉じた。金の題が、やけに品よく光って見える。
「じゃ、昼やね」
すっと立ち上がる。
本を抱えたまま、何でもない顔で戸口へ向かう。
理一郎の視線が、その背に引かれた。
「……おい」
異紀が肩越しに振り返る。
「なんや」
「その本は、机に置いて行け」
異紀の目が細くなる。
「いやや」
「なんでだ」
「続き、気になるやろ」
「ならん」
「ほんまに?」
理一郎は答えず、素描帳を閉じた。
異紀はくす、と笑って、そのまま出て行く。
戸が閉まる。
分館に静けさが戻った。
机の上には、描きかけの瓶と、途中で止まった線が残る。
理一郎はそれを見ていたが、やがて机の脇へ手を伸ばした。
いつもならそこにあるはずの包みがなく、そこでようやく、今日は弁当を持ってきていなかったことを思い出す。
先に出た異紀の背が、ふと頭に浮かんだ。
一拍おいて、理一郎も立ち上がった。
足は自然と、食堂のある本館の方へ向いていた。
分館を出る。
本館までは、歩いて五分ほどだった。
砂利を踏む音は乾いていたが、空気にはまだ梅雨の湿りが残っている。
煉瓦の壁に沿って折れ、植え込みの脇を抜けるころには、昼の鐘の余韻もすっかり遠のいていた。
異紀が先に出てから、数分は経っている。
食堂へ向かったなら、先に盆を取っていてもおかしくない頃合いだった。
扉をくぐると、汁の匂いと、湯気を含んだ昼のぬるさが先に触れた。板張りの床に、四人掛けの卓がいくつか置かれている。窓は高く、白い光が卓の縁と盆の漆に細く落ちていた。
理一郎は戸口の内側で足を止めたまま、室内へひととおり目をやった。
盆の並びにも、空いた卓のそばにも、それらしい姿はない。
淡い髪は目につく。見落とすような色でもない。
給仕の女がこちらへ気づき、盆を持ったまま小さく会釈した。
理一郎もそれに頷き返し、近い方の卓へ腰を下ろす。
(……別の場所か。)
胸の内で片づけて、理一郎は湯気の立つ汁椀へ手を伸ばした。
食堂を出て、理一郎は分館へ戻った。
戸を開ける。
執務室の中は、出る前とほとんど変わらない。
ただ、異紀はもう戻っていた。
窓際の席に腰を下ろし、本を開いている。
濃い緑の表紙。金の箔押し。
先ほど持って出たままのそれだった。
理一郎は戸口で一拍止まる。
異紀が顔を上げた。
こちらをちらりと見やり、また頁へ視線を落とす。
「――目を伏せたままでも、それは拒みとは見なされなかった。
ためらいを残していることと、身を引くこととは、どうやら別のことらしい――」
声に起伏はなく、ただ訳文をなぞっているだけ、と言わんばかりの調子だった。
「――腰に置かれた手は、そのまま離れず、
その沈黙ごと抱き寄せるように、
伏せた睫毛の下へ、次の口づけを落とそうとして――」
その先へ続く気配に、理一郎が低く割って入った。
「……おまえな」
異紀はそこでようやく頁から目を上げる。
口元が緩む。
「志岐さんが、教えてくれんかったき」
声は淡々としていて、悪びれたところはなかった。
戸の音が落ちる。理一郎は、すぐには机へ向かわなかった。
窓際では、異紀が再び頁へ目を落としていた。
だが、そのまま続ける気はないらしい。指が紙の端を押さえたまま止まっていた。
「……それを、わざわざ声に出すな」
ようやくそこまで言うと、異紀は肩を揺らしもせずに答えた。
「きれいな訳やったろう」
理一郎は黙って席に着き、素描帳を開き、硬筆を手に取った。
口を開けば、異紀の調子に乗せられる。
そのとき、戸の向こうで足音が止まった。
続けて、板戸を控えめに二つ叩く音がする。
「観記掛さん、お揃いでしょうか」
理一郎が顔を上げる。
窓際では、異紀が本の頁を押さえていた指を離した。
「……おります」
戸が引かれる。
立っていたのは、本館の職員だった。
見覚えのある顔で、今日は普段よりきちんと衣の襟を正している。
男は一礼してから言った。
「調査課の方から、お目通り願いたい品が届いております。品も一緒でして」
理一郎の眉が寄る。
異紀は本の上に手を置いたまま、何も言わない。
「本館の応接でお待ちです。
よろしければ、このままお願いできますやろか」
理一郎は短く頷いた。
「少々お待ちください」
職員はもう一度頭を下げ、戸の外へ下がった。
足音が半歩ぶん遠のいてから、理一郎は机の上の帳面を閉じた。
手に持った硬筆を、そのまま懐へ差す。襟元を軽く正し、袖をひとつ払った。
窓際では、異紀が本へ紙片を挟んでいた。
濃い緑の表紙が閉じられ、金の箔押しが昼の光を細く返した。
本を机の端へ寄せると、脇の帳面を取り、細筆を一本添えて抱え上げる。
「……何やろうねえ」
「さあな」
短く返して、帯の脇を整えた。
***
戸を開ける。
本館の職員は廊下の先で待っていた。
二人が出ると、軽く会釈して歩き出す。
本館の職員は二人の先を歩いた。
分館を出て、本館へ入るまではすぐだった。
昼の湿りはまだ残っていて、石段を上がるころには背に薄く汗がにじんでいる。
理一郎は何も言わない。
歩幅を崩さず、前の背を追う。
異紀も同じ速さでついてくる。
抱えた帳面の角が、歩くたび衣へ細く触れていた。
磨かれた床を渡り、事務方の並びを抜ける。
案内の職員はその奥の一室の前で足を止めた。
「こちらで」
低く告げて、扉を開く。
応接間は、あの時と変わらず、過不足なく整っていた。
磨かれた机。白い壁。
窓から入る昼の明るさも、ここではどこか角を落としていた。
卓上の茶はもう置かれていて、湯気が細くほどけていた。
理一郎は部屋の縁で動きを止め、室内へ目をやった。
久遠異紀と初めて顔を合わせたのも、この白さの中だった。
もっとも、初めてここへ通された折とは、部屋の静まり方が違っていた。
机の向こうに、男が一人座っていた。
年は四十に届くか届かないか。
衣の合わせにも襟元にも崩れがなく、役所の匂いが先に立つ男だった。
卓の脇には、細長い包みが置かれていた。
中に箱があるのか、布越しにも輪郭が崩れない。渋い色の布の上から、平たい組紐が十文字に掛けられていた。
丁重に納められてきた品だと、一目で知れた。
理一郎の目はまずその包みへ行き、それから男の前に揃えられた書類へ移る。
朱の印がいくつか重なっていた。
異紀は、理一郎の半歩後ろで足を止めた。
部屋へ入ったところで、呼吸がひとつ浅くなった。わずかな遅れだった。
顔色は変わらず、視線もすぐには包みへ落ちなかった。
扉口に近い空気が、ひとつ沈んだ。
男が立ち上がる。
礼に入る前、視線が異紀の顔で一拍止まった。
名乗りの間に紛れるほどの遅れだった。
理一郎はそれを見た。
――あの折の自分も、似たような間を置いたのだろうか。
その考えは、男の名乗りで途切れた。
「お急がせしました。調査課の高槻と申します」
礼の角度は正確だった。
理一郎も短く頭を下げる。
「志岐理一郎です。こちらは久遠異紀」
異紀も一礼する。
高槻はそれを受けてから、机の脇の包みへ視線を落とした。
「本日は、京洛のある旧家から持ち込まれた品につき、観記掛へ回付しております」
理一郎は黙って頷いた。
すすめられて席へつく。
異紀もその横へ腰を下ろした。
高槻は二人が落ち着くのを待ってから、脇の書類束を取り上げる。
「まず、来歴から申し上げます」
紙の角が揃えられたまま、卓の上へ移される。
理一郎はそれを受け取った。
厚みはそれほどない。紙の角はぴたりと揃っていて、遊びがない。
表に載った家名は伏せられている。代わりに家格が、書式の端々からこちらへ滲んでいた。
「品の持ち主は華族家で、澄国渡りの二胡と聞いております。弾き手もなく、近年は客間に飾られていたそうです」
理一郎の目が、受け取った紙の上を静かに滑る。
所在、保管状況、移動の有無。
申告欄の追記にも、書き手の慎重さが残っていた。
「先日、その家へ立ち寄った澄国の客人が、少し弾けると申し出たそうです」
高槻はそこで一度言葉を切った。
声は低いままだったが、そこで間が深くなった。
「試しに音を出したところ、その客人にも、同席していた家人にも、女の声で鳴っているように聞こえた、と」
異紀はそこで初めて包みに目をやった。
ごく短い視線だった。布の合わせ目から先へは進まない。
すぐにまた顔を上げる。ただ、そのあいだ、指が帳面の角を深く押さえていた。
理一郎は紙から目を離さない。
「再現は、まだこちらでは」
「ええ。先方も、二度三度と試すことは避けたようです。家人が気味悪がった、と聞いております」
高槻は包みへ手を伸ばした。
「二胡を扱える者が本邦には少なく、先方にも分局にも当てがありません。
そのため、奏者の手配も現時点では立っておりません」
そこで、理一郎を見る。
「それでも、声様の現象として申告が上がった以上、本件はいったん観記掛扱いとしております。調査課としては、それが妥当かと」
理一郎はそこでようやく紙束を机へ置いた。
音は軽かったが、部屋の静けさの中では消え際が耳に残った。
「承知しました。まず一度、現物を拝見してもよろしいですか」
「もちろんです」
高槻は両手で包みを引き寄せる。
組紐を解く手つきは丁寧だった。ほどいた端を脇へ寄せ、布を一枚ずつ折っていく。
渋い色の外布の下から、さらに薄い布が現れる。そこへ包まれるかたちで、黒塗りの箱がひとつ納まっていた。
箱の蓋を持ち上げる。
内側には、白い布が敷かれていた。
二胡は、その上にぴたりと納まっていた。
細い棹。
黒く艶を残した胴。
縁に沿う細工は、近くで見るとさらに細かい。花でもなく、蔓ともつかない曲線が、浅い金で浮いている。
飾り立てるほどではないのに、目を引き留めた。
楽器としての良し悪しは分からない。
けれど、胴の艶と縁の細工が、手を掛けられてきた品だと語っている。
「弓は別です」
高槻が言って、箱の脇からもうひとつ細い包みを取り上げる。
そちらを開く音はさらに小さい。
異紀は動かない。
ただ、箱の蓋が取られたあとの部屋の空気が、少し重い。
まだ鳴ってもいないのに、気配だけが先に持ち込まれたようだった。
高槻は二胡へ直には触れず、箱の内側に沿わせるように手を添えた。
「申告は以上です。観記掛のお手元で、まず一度、実際をお確かめいただければ」
理一郎は包みと書類とを見比べるように、短く視線を往復させた。
「わかりました。こちらで預かります。
再現の有無を含め、一度、観記掛で見ます」
高槻はそこで小さく頷いた。
「お願いいたします」
どこか遠くで車輪のきしむ音がする。
応接間の中には、まだ誰も手を伸ばしていない茶の湯気が、細くほどけていた。
***
分館へ戻るころには、昼の熱が傾きはじめていた。
応接から持ち帰った包みが、卓の上にある。
異紀は窓際の席へ帳面と細筆を戻してから、卓の方へ来て、少し離れたところで足を止めた。
「いわく付きなら、何でもありになりつつあるねえ」
理一郎はそこで目を上げた。
「……俺の専門は動態外であって、こういう品とは別だ」
異紀は包みを見ながら、首を少し傾ける。
「違うのかえ」
理一郎はすぐには答えなかった。
言葉は切れたのに、理屈がまだ口に残っていた。
「俺が読むのは、生きものの名残だ。ただの物を見るわけではない」
異紀の視線が、そこで理一郎へ移る。
「この前の布で味占めたんとちゃう?」
理一郎は眉を寄せた。
「布ならまだ触れて見れば済む。だが二胡だと、まず音を立てる手が要る」
二胡の包みへ、あらためて目が落ちる。
華族からの預かりもの。
しかも、組紐の跡ひとつまで乱れていない。
思いつきで触って、好きなように試してよい類のものではない。
理一郎は短く息をついた。
「……下手なことはできん」
異紀は黙って寄りも退きもせずに立っていた。
さっきまで軽く言葉を挟んでいた口元も、今はもう動かない。
理一郎も、それ以上は言葉を継げなかった。
包みは閉じたまま、卓の上に置かれている。
触れねば始まらない。
だが、触れたところで、その先に進める手がない。
包みは閉じたまま、二人のあいだにあった。
沈黙が部屋に落ちる。
ややあって、異紀が口を開いた。
「……二胡なら、弾ける」
理一郎は、そこで異紀を見た。
異紀は表情を変えなかった。
言ったきり、視線は包みから動かなかった。
「昔、向こうのもんをいくつか触らされたきね。二胡も、そのひとつや」
異紀は淡々と口にした。
低く落ちた声が、耳の底に残った。
「……弾ける、のか」
確かめるように言うと、異紀の顎が、ごく浅く動いた。
「ああ。二胡なら、手は分かる」
理一郎は包みへ視線を戻した。
ぞんざいに扱えない品であることに変わりはない。
だが、音を立てる手があれば、話は変わってくる。
「わかった」
理一郎はそこで、すぐ次を継がなかった。
異紀が弾ける。そこまでは立った。
けれど、それで済む話でもない。
「――二胡いうものは、胡弓とは別物なのか」
「別やね。似たとこはあっても、同じつもりでは持たん方がえい」
理一郎は黙った。
知っている胡弓の輪郭を、頭の中でいったん脇へ退ける。
「今すぐ鳴らせるものか」
異紀は包みを見たまま、ひとつ間を置いた。
「長いこと触ってないき、いきなり曲にはならんろうね」
声は低いままだった。
「けんど、音を立てるくらいなら、どうにかなる」
理一郎は眉を寄せたまま聞いていた。
弾けることと、すぐ観測に足る、というのは別の話だ。
そこを分けておきたかった。
「……最初から深くは追わん」
落とすように言う。
「まず、鳴るかどうかだ。
申告どおりのものが混じるなら、そこから先を考える」
異紀は小さく頷いた。
「そうやね」
袖口のあたりで、指先がひとつずつほどける。
「……少し手を慣らす。
ちくと時間をもろうてえい?」
「なら、観測室へ移すか」
それで話は決まった。
包みはまだ、卓の上で黙している。
――次は、言葉より先に音が立つ。
***
観測室へ入ると、北向きの高窓から落ちた明かりが、作業台の縁と器具の金具を拾っていた。
理一郎は包みを中央へ置いた。
布を解く。外布の下に薄い包み布。その内から黒塗りの箱が現れる。
蓋を上げる。
二胡は白い布の上に、静かに納まっていた。
応接で一度見ているはずのものが、ここでは違って見えた。
輪郭が濃く出ている。
異紀はすぐには手を出さなかった。
卓の脇で立ったまま箱の中へ目を落とし、袖口へ指を入れて手首を返す。
それから、卓へ寄った。
指先が棹へ触れる。
そこで一度、止まる。
「起こして、すぐ機嫌よう鳴る顔ではないねえ」
理一郎は二胡を見たまま訊いた。
「そういうものか」
「眠りが長いものは、最初ちくと拗ねるき」
異紀はそう言って、息をひとつ置いてから持ち上げた。
胴の重みを手の中で受ける。
弓を取る。
毛の張りを指の腹で確かめ、弦のあいだの収まりを探る。
どこへ触れれば収まりがよいのか、手が昔の位置へ戻るまでに、間が要った。
椅子の脚が、床を短く擦る。
異紀は座ってから、膝と胴の位置を合わせた。
棹を立てる角度が一度では決まらない。
戻し、また寄せる。
弓を持つ手も、まだ馴染みきらないまま宙で止まった。
最初の擦れは、音と呼ぶには足りなかった。
毛が弦を滑り、乾いた気配が立つ。
異紀はそのまま弓を持ち直す。
右手の指が深くかかる。
もう一度。
短く鳴って、すぐほどけた。
構えを解かないまま、弓の角度が変わる。
毛の位置を探り、少しだけ長く引く。
細い音が立つ。
途中で揺れ、すぐにほどける。
また引く。
まだ細い。けれど、ひと引き前よりは残る。
左手が棹の上を動くたび、鳴りの芯が定まっていく。
理一郎はその手元を見ていた。
胴の角度。棹の立ち方。弓を返すときの手首。
その配置を、紙に残す気になった。
観測台の脇から紙を一枚抜き、卓の端へ置く。
硬筆を取る。
最初に落ちた線は、胴の輪郭だった。
次に棹の角度。
弓の入り。
線は少しずつ手首の返りへ寄り、肩先へ触れていく。
弦が、もう一度鳴った。
密な音が伸び始める。
それでもまだ、弦の外へは出ていない。
異紀の手首が返る。
同じ筋のまま、鳴りが据わっていく。
その表面に、何かが触れた。
理一郎の手が止まる。
紙の上では、弓の軌道を取ろうとした線が途中で切れている。
音の表へ、湿りが重なる。
弦の乾きでは出ない層が、消え際に残った。
――ただ鳴りが良くなった、ということではなかった。
異紀は止めない。
次の音にも、その湿りは残った。
鳴りの消え際がやわらかい。
弦を離れたあとも、何かが尾を引く。
息の手前を、薄く曳いた。
声とは、まだ置けない。
ただ、二胡の鳴りとしては収まりきらない。
もう一往復。
同じ高さで続いていた音に、わずかな抑揚が混じる。
異紀の手つきに、迷いがなくなってきた。
弓の行きも戻りも、一本の筋を持ちはじめている。
その筋に沿って、細い音の上へ別のものがそのまま乗る。
鳴りの外側へ、やわらかなものが差した。
どこまでが弦の鳴りで、どこからがそうでないのか、境目が耳の中で曖昧になる。
理一郎は顔を上げなかった。
上げれば、音の変化として拾っていたものが、別の名で立ってしまいそうだった。
紙の上で切れた線の先に、黒い溜まりが散った。
異紀の弓が遅れた。
手の内で何かを測り直すような、短い間だった。
だが、そのあとも弓は落ちず、再び、同じくらいの長さで引かれる。
今度は、逃げなかった。
硬筆の先が、紙から浮いた。
近い、遠い。
鳴りの位置が定まらない。
耳の奥へ入ってきて、なおほどけない。
音の上へ重なっていたものが、輪郭を持つ。
その縁が、耳の内側へ落ちてくる。
鳴りが、ひと筋、通った。
息ではない。
湿りだけでもない。
喉を通った響きに変わる。
胸へ落ちず、上の方でひらいて抜ける。
そこまで来て、逃げ場がなくなった。
――女の声だった。
硬筆の先は、まだ紙へ戻らない。
弓が止まる。
音が切れたあとも、観測室はすぐには元へ戻らなかった。
高窓の白さも、作業台の上の紙も、何ひとつ動いていない。
なのに、いまここで鳴っていたものが、置き場もないまま漂っている。
異紀は二胡を抱えたまま、小さく息を吐いた。
それから弓を下ろす。
「……申告どおりやね」
異紀の声に、乱れはなかった。
理一郎は、すぐには返せなかった。
喉の奥で息が引っかかる。
紙の上の切れた線。
まだ乾かない耳の奥。
そのあいだで、黙った。