第3話も折り返し。第5章には、別色・別調子のOPをもうひとつ。
いつだって、本気で遊んでます。
見本を頼んだあとも、観測は続けた。
ただ、その頃から、ふたりの視線が少し変わった。
この布が何か、ではなく。
どんな手触りがいくつあって、どのくらい続き、どんな順番で巡ってくるのか――
朝、昼、夕と。
決めた刻限ごとに布へ触れ、指に残った感触を、淡々と帳面に落としていく。
腹の下で、細かい粒が一度転がる。
粉をまぶしたあとのように、触り心地がふっと軽く崩れる。
蝋を引いた板みたいに、冷たく滑る。
皺の向きひとつで、指先の戻り方が変わる。
手のひらごと吸い込まれそうな厚みが、ゆっくり残る。
そして、ときどき現れては、離れ際に指を追い縋る、「遅れ」の長いもの。
初めのうちは、ただ一つずつ書き足していくだけだった。
日付と刻限と、『粉』『粒』『滑り』『返り』『湿り』といった、味気ない言葉の並び。
それを何日か続けるうちに、帳面が変わり始めた。
似たような語が同じところに溜まり、行ごとに、同じ順番で並ぶようになっていく。
(……また、ここで粉のやつや)
(それなら、次は――)
理一郎の中で、指先より「順番」のほうが反応する日が増えていった。
この粉を払ったような崩れ方が来たら、その次は、指が沈むやわい層になる。
それが薄れてくる頃には、乾いた繊維のきしみが指先に残る層が前に出る。
そこからさらに、さらりと冷たく滑る面へ移っていく。
持続する時間も、おおよその幅が見えてくる。
短いものは半刻もたたずに抜け落ちる。
長いものは、一刻どころか、それ以上に居座る。
それでも順番は、乱れることはなかった。
帳面を繰ると、数日のあいだに似た並びの行がいくつも重なっている。
異紀の字は変わらないのに、紙束の厚みが増えていた。
「……よう来ゆうね、この順」
紙面を眺めながら、異紀がぽつりとこぼす。
(順は見えている。だが、中身は、まだ揃わん)
理一郎は、そう胸のうちで線を引いた。
布がどこの何かは、見本が来てからでいい。
いまは、ここに現れては消える層の「巡り癖」を、指に馴染ませておく。
◇
一度、一晩かけて観測した日があった。
層の入れ替わり方が、夜も崩れず続くかどうかを見張るためだった。
分館の窓の外は、とっくに暗い。
壁際に掛けた油ランプと、机の端に置いた小さなランプが、異紀の手元のあたりを、黄いろく浮かせていた。
部屋の隅はもう見えない。
それでも、指先で織りの癖を追うには、じゅうぶんな明るさがあった。
(……これくらいでいい)
理一郎は、薄暗闇に沈む、布へ目を落とした。
今夜知りたいのは、手触りの正体ではない。
ここで現れては消える層が、夜のどこで顔を変え、どの刻まで留まるか、その境目のほうだ。
なら、目より指に任せたほうがいい。
「十分ごとに触る。……ずれんように、声かけてくれ」
「わかった」
十分ごとに告げる異紀の声を合図に、理一郎は椅子から身を起こした。
布の端に、指の腹を落とす。
力も速さも、昼の手順から動かさない。
「変化なし」
「変化なし、やね」
理一郎が短く告げ、異紀が同じ言葉をなぞる。
紙の上で、細い線が一本増えた。
次の十分までは、待つだけだ。
理一郎は椅子にもたれ、目を閉じる。
余計な光を遮るためだった。
やがて、異紀の声が落ちる。
「……次」
「ん」
指を置く。撫でる。離す。
まだ、変わらない。
そんな十分ごとの同じ動作が、夜半まで、律儀に積み重なっていった。
◇
そのあとも、同じ手順で布を撫でる時間が続いた。
指の腹で送って、離して、結果を口にする。
そのたび、短い行が帳面に足されていく。
日が跨ぐ頃、観測室の空気は、昼より一段冷えていた。
高窓の向こうは完全な闇だ。星も見えない。
(……ん?)
先の十分より、抜け際に半拍ぶん、布のほうが指を追ってきた。
「ここ、離れんようになっちゅう。さっきまでと、抜け方が違う」
「ほんなら、そこは印つけちょこかね」
異紀の筆先が、紙の端で小さくうなずいた。
欄外に点がひとつ増える。夜の途中の変わり目に、小さな目印が付いていく。
◇
寅の刻に差しかかるころには、指の乾き方のほうが先に気になり始めていた。
それでも理一郎は立たない。
歩けば血は巡るが、感覚が揺れる。
異紀も席を外さなかった。
夜半を過ぎても、肩が落ちる気配はない。
あくびも出ない。
眼が、灯りの反射でときどき細く光る。
(……よう保つ)
一晩まるごと観る必要はない。
何夜かに分けてもいい。
夜半の観測にあたり、理一郎は、そう一度は考えた。
身体も、集中力も、持ち時間は有限だ。
医者として、他人に寝ずの番を強いるのも、本来は好まない。
理一郎がそう告げると、異紀は、こともなげに言った。
「一晩分一周、きっちり取っといたら、昼の整えが楽になるき」
「……それは、分かっている」
結局、異紀に後押しされる形で、今、ここにいる。
◇
時を刻む音が、乾いた空気の中にぱらぱらと落ちてくる。
布に現れる層は、淡く薄いものから、ざらつきの強いものまで、順番を崩さずに巡っていった。
「志岐さん、夜通しの番は、ようあった?」
次の刻を待つあいだに、異紀がぽつりと言った。
帳面は開いたまま、筆は硯のふちに寝かせてある。
「……江都にいたころはな。解剖が伸びたり、標本が片付かんかったりで、気づいたら朝だった」
理一郎は膝の上の指を組んだまま答えた。
言葉のあと、親指が、もう片方の指をなぞる。
「……わしも、夜はよう起きちょった」
異紀は、軽く息を吐いた。
視線は帳面ではなく、机の端のほうへ流れている。
「起き番の晩も、ちょくちょくあった」
異紀は、喉の奥で笑いをひとつ飲み込んだ。
「途中で肩揺すられて……起きんといかん夜も、ようけあってね」
異紀はそれ以上は継がなかった。
先ほど足した墨の行が、紙の目に沈んでいく。
(……揺すられて、起きる、か)
理一郎は、その言葉を拾い直すと、膝の上で組んだ指をほどいた。
「……そろそろやね」
懐中時計を見た異紀が、静かに刻を告げる。
「……ああ」
理一郎はそう返すと、布へ指を戻した。
◇
東がうっすら白み始める少し前、布の層は、昨日の昼間に触れた感触へ戻ってきた。
時計の長針は、一周ぶん進んでいる。
紙面には、夜のあいだに現れた層の顔と、おおよその長さが、十分ごとの記録で揃っていた。
「……一巡分は押さえたか」
「押さえたねえ。きれいに並んじゅう」
理一郎が言い、異紀が紙の列を眺めながら答える。
そこでようやく、ふたりとも背を伸ばした。
障子の向こうが、ぼんやりと明るくなりつつある。
ランプの火が、まだ夜の名残みたいに机の上を照らしていた。
「一回目としては、十分だろう」
「よう取れちゅうと思う」
異紀は帳面の端を整え、墨の蓋を閉める。
眼の下に濃い影はない。声の調子も、日中と大きくは違わない。
(……平然としちゅう)
理一郎は皿の水で指先を湿らせながら、一拍黙った。
「今日は、早く帰れ」
「うーん……様子見てから考えるき」
曖昧な返事が返ってくる。
理一郎の眉間に、浅い筋が寄った。
「帰れ。次に響く」
「ほんなら、昼前まではおる。帳面は、寝かすより書いちょきたいき」
言い種は軽いが、声自体は淡々としている。
徹夜明けの重さが、どこにも滲まない。
(俺より、保つかもしれん)
理一郎は小さく息を吐き、観測室の隅へ視線を送った。
壁際には、簡単な寝台が置いてある。
「……少し横になる。午前の仕事は落とせん」
「そりゃそうや。三時間くらいは寝えや。起こしちゃるき」
自分のことは棚に上げ、異紀は、あっさりと引き取った。
「二時間でいい」
「三。二は足らん」
言い終わる前に、異紀のほうが刻を決めた。
時計の文字盤をちらりと見やる。
理一郎は、それ以上は言わなかった。
寝台に薄布を敷き、仰向けになる。
瞼を閉じても、指先にはまだ、夜通し辿った層の順が残っている。
(数と、おおよその長さと、巡る順はこれでいい……)
そこまで線を引いてから、意識のほうを先に手放した。
◇
目を開けたときには、窓の外はすっかり明るくなっていた。
北窓から入る光は、いつもと変わらぬ顔をしていた。
理一郎は起き上がって、軽く首を振った。後ろで縛ったままの髪が背で揺れる。
「お、起きたか。まだ寝ちょってもええのに」
異紀はまだ観測台に向かっていた。
執務室から持ち込んだらしい本に目を滑らしている。
理一郎は、ゆっくりと異紀の方に歩み寄った。
開いたままの帳面が目に入る。
夜の続きから、さらにいくつか行を増やしている。
その先に置かれた懐中時計の盤面が、ふと目に入った。
——約束した刻を、だいぶ越えていた。
理一郎が言葉を探す気配を感じたのか、異紀は、肩を伸ばすようにゆっくり背を反らした。
「さて、そろそろ帰るかね」
欠伸めいた息をひとつこぼし、その流れのまま、ちらと理一郎を見やる。
理一郎は、出しかけた言葉をすっと飲み込んだ。
喉の奥で、短い息が止まる。
「……明日も、ずらして休め」
かろうじて落とした声に、異紀は「はいはい」と、笑みだけ乗せて返し、紙の束をまとめるような手つきで、さっと観測室を去っていった。
観測室にひとり残された理一郎は、窓の白さと、机の上の布と、紙に並んだ印を淡く見比べた。
飲み込んだ言葉の気配が、残っているようだった。