理玄異聞録 第5話「胡聲」|第6章 白鞘 ――糸、ほどく

理玄異聞録 第5話「胡聲」|第5章 空席 ――息、掴む

午前の控えは、机の端に揃っていた。 

異紀が帳面へ通す前の、理一郎の走り書きだった。
紙を手前へ寄せる。

『複数条件にて、奏者声音へ寄る率高し。』
『女声に収まる例あり。固定とは断じ難し。』
『なお、切り分け未了。』

最後の一行で、視線が止まった。
その先に続く条件は、すぐに浮かんだ。

音型。
保ち。
返り。

奏者。
――同じ手で、もう一度取ること。

理一郎は、しばらく紙の上を見ていた。

その手は、先ほど寝台へ置いてきた。
水を受け取り、三口目で杯を止めた手だった。

理一郎は控えを伏せた。
机の脇から、罫紙を一枚抜く。
筆を取る。
墨を含ませ、硯の縁で余分を払う。
白い紙へ、硬い字が落ちていく。

『調査課御中

先般御回付相成候二胡一挺之儀、
観記掛ニ於テ試鳴観測仕候処、経験者ニ依リ弾奏仕候際、発声様現象之発生、一応相認メ候。

然ル処、右現象之発現が奏者差ニ依ルモノカ、又ハ器物自体之条件ニ起因スルモノカ、尚比較確認之要有之候。
且ツ、右比較ニ付、当掛ニ於テ別途経験者之手配難相成候ニ付、未経験者ニ依ル弾奏確認之儀、先方御許可相成候様、御取次相願候。

尤モ、右ハ観測上必要之比較確認ニ限ルモノニテ、曲目演奏又ハ習熟之為ニ弾奏仕候儀ニハ無之候。
発音及発声様現象確認ニ必要之範囲ニ於テ、器物之調子並弦・駒等ヲ逐次相検メ候上、取扱可致候。
殊ニ弦・駒其外之損傷無之様、格別注意仕候。

右弾奏確認之結果ニ付テハ、記録之上、後日可申上候。
此段御取計被下度候也。

七月七日
文部省博物局京洛分局調査課特例事象観記掛
志岐理一郎』 

最後の名を書き終えて、理一郎は筆を置いた。

紙の上に、久遠異紀の名はなかった。
墨が、行の上で乾いていく。

理一郎は文を折り、封をした。
調査課宛の表書きを整える。
文を懐へ入れ、執務室を出る。

廊下から、観測室の戸の隙間へ、目を向けた。
中からは何も聞こえない。

本館までの砂利道は、昼よりも白く乾いていた。
顔見知りの職員に文を託す。
調査課へ急ぎ回してほしい、と告げた。
用件はそれで済んだ。

戻り際、物売りを見かけた。
籠の中に、薄く色づいた桃がいくつか並んでいる。

理一郎は足を止めた。

水気のあるもの。
噛まなくていいもの。
喉を通るもの。
そう考えて、熟れたものを二つ選んだ。
間を置いて、焼餅も包ませる。
紙に包まれた桃は、手の中で思ったよりやわらかかった。
焼餅の包みは別に持った。

分館へ戻ると、観測室の戸は、出たときのままだった。
中を覗く。
異紀のまぶたは下りたままだった。
理一郎は桃の包みを、小卓の端へ置いた。
まだ起こさない。
戸をまた半ばまで戻し、廊下へ身を引いた。

***

文を出したあとの机は、少し広く見えた。
午前の控えは伏せてある。
硯の水が、薄く濁っていた。

理一郎は腰を下ろした。

何かを開くでもなく、しばらく机の上を見ていた。

午後の熱が、壁から少しずつ抜けていく。
窓の外はまだ明るい。
それでも、紙の端に落ちていた白さは、いつの間にか畳の色へ沈んでいた。廊下の向こうで、風が一度戸口を鳴らした。

観測室の方からは何も聞こえない。
いつもと変わらない静けさだった。
それでも、あの部屋に異紀がいる。
寝台に横たわり、浅い息をしている。

先刻よりは深く眠れているだろうか。

理一郎は腰を上げた。
廊下へ出ると、板の熱が引き始めていた。

観測室の前で足が止まる。
戸を開ける。
中は薄暗い。

寝台の異紀は、さっきと同じ向きで眠っていた。
掛け物の端が、胸のところでかすかに上下している。
理一郎はしばらく、その動きを見ていた。
頬の色は戻らない。
浅い息が、少しずつ同じ間で戻ってきている。

ふと、作業台が視界の端に入った。
黒塗りの箱がある。
閉じられたまま、白布の上に収まっている。

寝台と、二胡。
それらが同じ部屋にあることが、急に目についた。
理一郎は作業台へ近づいた。
箱の前で、手が一度止まる。

昼前まで、この中の弦が鳴っていた。
女の声になり、異紀の声に寄り、喉の奥まで入り込んだ。
いまは木と皮と弦の形をして、ただ静かに収まっている。

理一郎は蓋を開けた。
二胡の棹の下へ手を差し入れ、胴を支えて持ち上げた。
軽い。その軽さが、かえって掌に残る。

理一郎は寝台の方を振り返った。

異紀は起きない。
まぶたも動かない。
それを確かめてから、二胡を箱に戻す。
箱を抱えたまま、観測室を出た。

今度は戸を閉めきる。
金具が小さく鳴り、その音が廊下へ落ちた。

執務室へ戻る。
外の青が、窓枠の内で濃くなっていた。

理一郎は二胡を、壁際の棚へ移した。
置いたあとも、すぐには手を離さない。
箱の角が、指の腹に残った。

出したままにはできない。
しまい込む気にもなれない。
そのあいだで、ようやく手が離れた。

ふと、棚の脇の白いものが目に入る。
白鞘だった。
壁に立てかけられたまま、灯を入れる前の暗がりの中で、そこだけが、暗がりに浮いていた。

理一郎はしばらく動かなかった。

昼のあいだ、理一郎の目は近くのものばかりを拾っていた。
書庫の床。
寝台。
水差し。
黒塗りの箱。

白鞘は、その外側にあった。

理一郎は近づいた。
指先が鞘へ触れる。
木の面はなめらかで、余計な飾りはない。
手に取る。
白木の面に、薄い字が残っている。
前に異紀が声に出したあの鞘書きだった。

――たまに振るとよし。
その曖昧な言葉が、やけに手元へ残る。

理一郎は白鞘を握り直した。
長さも、手に取ったときの収まりも、昔から叩き込まれてきた型の内にあった。
執務室の暗がりが、机の下へ溜まりはじめていた。

理一郎は灯を入れた。
火がつき、紙の端と黒塗りの箱が、遅れて輪郭を持つ。

理一郎はそのどちらも見なかった。
ランプと白鞘を手に、執務室の戸口で足を止めた。

観測室の方へ目をやる。
閉じた戸の向こうに、異紀が眠っている。

白鞘の鞘口が、掌の中で傾いた。

***

分室を出ると、夜気が先に頬へ触れた。
土からは熱が抜け、草の匂いが低いところに溜まっている。
遠くの町筋に残る明かりも、分館までは届かない。
空には雲が薄く流れ、その向こうで月の輪郭が白い。

裏庭へ下りる。
灯がひとつ揺れた。
風ではない。
外へ出た火が、内にいた時とは違う息をしただけだった。

建物の影を背に、庭は小さく開いていた。
縁から少し離れたところに、石がひとつある。
理一郎はその脇へ膝を折り、ランプを置いた。
光の輪は狭い。
足元の土と、袴の裾、それから白鞘の半ばまでを拾う。
その外は夜だった。

理一郎は立ち上がった。
背後には分室がある。
執務室の奥に二胡があり、廊下の向こうには観測室がある。
理一郎は振り返らなかった。

白鞘を左手へ持ち替え、右手で帯のあたりを探る。
袴の脇を少し払うと、布が乾いた音を立てて落ち着いた。

左手が、白鞘を腰へ送る。
右手は帯の下を押さえたまま、鞘口の収まる位置を探った。

一拍、間があく。

きゅ、と布が鳴る。
白が、左腰へ沿った。

その白を、理一郎はすぐには放さなかった。
左手の親指が鯉口へ触れ、そこで止まる。

まだ切らない。
見るつもりはなかったのに、視線は空へずれた。

雲はないらしかった。
建物の切れ目の向こう、枝のあいだから細い星がひとつ見えて、すぐ葉の陰へ隠れた。

始めと終いは、崩すなと教わった。
足の開き。
膝の向き。
鞘を持つ手の位置。
そこは、何度も直された。

そのあいだは、誰も形にしてくれなかった。
好きに振れ。
気に任せろ。
肝心なところを言わない。
その言い方が、昔から腑に落ちなかった。

理一郎は息を吐いた。
押し出された息は、夜の中で形を持たずに散る。

鯉口へかけた指で、わずかに押した。
小さく、乾いた音が鳴る。
右手が柄へかかる。
左手は鞘を押さえたまま、腰の線を崩さない。抜き上げるのではなく、音を立てぬように引き出す形だった。
刃はランプの火をひと筋拾い、その先で夜の色へ沈んだ。

一歩、庭の中心に進み出る。
袴の裾が草を掠める。
灯の輪が背に回り、肩の半分が闇へ入る。
構えは、名で思い出すものではなかった。

足裏のどこへ重みを置くか。
肩をどこまで落とすか。
刃先をどの高さで止めるか。
ひとつずつ確かめる方が、かえって崩れる。
意味を置く前に、手が動いた。

左腰の白が重い。
鞘書の字が、頭の端を掠める。
『たまに振るとよし』
書いた者の顔は知らない。
肝心なところを抜いた物言いだ、と目に留まった。

その粗略さが昔へ触れる。
――気の向くままに振れ。考えるな。身体が知っちゅう。
似たようなことを繰り返された。
理一郎は眉を寄せ、刃先をひらいた。

一つ目の型は、いつも同じところから始まる。
閉じたものへ、細く手をかける形。
切り開くほどではなく、触れて、ほどくための角度。
そうするつもりはなくても、身体は勝手にその位置へ入った。
右足が半歩、前へ出る。
左手が鞘を押さえ、右手の刃が夜の層へ差し込まれる。
刃が通る。
そのあとに残ったものを、理一郎は見なかった。

手は、次の角度へ移っていた。
理一郎は止まらない。
頭の中では、まだ呼吸の位置を測っていた。
刃を返す手首は迷わず、次の角度へ移る。
切るというより、払う。
刃は絡んだもののあいだを通った。

理一郎はそこでようやく、息をひとつ深く吸った。
吸って、開きの型を終える。

灯は揺れていない。
白鞘は左腰で動かず、火の外へ半分沈んだままだった。

***

理一郎は、刃を引き戻さない。
返しの途中で手首をわずかに沈め、切っ先の高さだけを変える。
次にどこへ送るか考えるより先に、肩の奥の重みがほどける方へ身体が流れた。

二つ目は、払うようでいて、受ける形だった。
斜めに来るものを、角度をずらして脇へ逃がす。

理一郎は目を細めたまま、足を踏み替えた。
右の足先が土を擦る。
乾いた音がひとつ。 
遅れて袴の裾が草を撫で、灯の輪の端で影がずれた。

刃先が返る。
今度は深く入らない。
浅く、速い。
ひとつ目とふたつ目でひらいたもののあいだを、細く縫う角度だった。

幼いころ、そこを何度も止められたことがある。

――先で追うな。
――身体ごと入るな。
――背で返せ。

意味は分からなかった。
分からぬまま、癖のように残った。

刃を返すところは、型の肌が変わる。
足は退く余地を残し、手首は余らない。
そこには、相手のある間合いが混じっていた。
それが、昔から腑に落ちなかった。

理一郎はそのまま三つ目へ入る。
足を止めぬまま、腰で刀を返す。
刃が夜の薄いところを選んで滑り、返りで短く鳴った。
耳の奥に残っていたものが、そこでひとつ外れたようだった。 

呼吸が深くなる。
灯の外で、葉がひと枝、鳴った。

風はない。なのに、その先の暗がりがずれて見える。
夜の層が、刃の軌道に沿って薄くめくれ、そのまま戻らない。

胸の底に残っていた二胡の声が、そこで遠のいた。
女の声。湿っていて、声の縁が残る。
耳の裏へ触れるような鳴り。

異紀が弾いたときには、その先が近かった。
声というより、寄ってくる気配だった。

理一郎は唇を結んだ。
刃先を夜の胸元へ差し込む。
通る前と、通った後で、夜の手触りが違う。
それだけが残った。

返りで、薄い湿りがほどける。
一歩退く。
足裏に、土の温度がはっきり残った。

肩の力が抜ける。
胸の奥の引っ掛かりも溶ける。 
理一郎は息を継いだ。
その先で、刃が低く沈む。

それでも、終いへ入るにはまだ早い。
考える前に、身体の方が、もうひとつの形に入っていく。

四つ目は、短かった。
短い弧を作る。
手首と肘で刃先を送る。

灯の輪に入った刃が白く返り、すぐ闇へ消えた。
草の先が、灯の外で揺れた。
刃の通ったあとに、夜気の筋が残る。

左腰の白が、次の形を待っている。
終いへ入る前の、短い間だった。

刃先の向こう、さっき隠れた星がまたひとつ、葉のあいだからのぞいた。

***

一階の寝台で、異紀はふと目を開けた。
眠りが浅かったわけではない。
ただ、どこかで空気の継ぎ目が動いた。

暗い観測室で、しばらく瞬きをせずにいる。
耳を澄ませるより先に、身体の方がそれを拾っていた。

分館の内と外。
そのあわいへ、先ほどまでなかった細い道がひらいたような気配だった。

異紀は布団の端へ手をついた。
起き上がるまでに、ひとつ息を挟む。
喉の奥に残っていた鈍さが、少し位置を変えた。

立てないほどではない。
そういう朝も夜も、昔からいくらでもあった。

寝台を離れ、板の上へ降りる。
冷えが足裏へ広がった。
階段は暗い。
手を添えた欄干の木が、夜気を吸って少し湿っていた。

異紀は音を立てずに二階へ上がる。
書庫の戸は閉めきっていなかった。
指先で押すと、細い隙間がそのまま広がった。

紙の匂いがした。
綴じ紐。
古い革。
乾いた墨。
昼のあいだと同じ匂いの中に、夜の気配が混じっている。

窓のそばまで寄る。
そこで、灯が見えた。
裏庭の石の脇に、火がひとつ。

その輪の端に、理一郎がいる。
長い髪は結われたまま、背へ沿って落ちていた。
白鞘は左腰へ収まり、理一郎の手は鯉口に触れたまま止まっていた。
理一郎の親指が、わずかに鯉口を押した。
右手が柄へかかる。
鞘から離れた刃が、ランプの火を細く拾い、すぐに闇へ沈んだ。

理一郎はそのまま、庭の中央へ一歩出る。
袴の裾が、草の上を浅く払った。

一つ目の型が、静かにひらく。
抜かれた刃が、ときどき火を拾う。
灯の届くところは狭い。
それなのに、庭の輪郭がくっきりと浮かんで見えた。

異紀は窓枠へ指をかけた。
そこで初めて、自分が息を止めていたことに気づく。

理一郎は、知らん顔で振っている。
古い所作の内に収まっている。
気負いもない。
人に見せるためでもない。
ただそこに立ち、身体の通る方へ刃を送っている。
それなのに、刃の返りには相手のある間が残る。

一つ目で、二胡からこちらへ残っていた筋が揺れた。
二つ目で、その端が喉の奥から離れる。
三つ目に入るころには、二胡の内に残る気配と、自分へ食い込んだものとが、別々のものとして見えはじめていた。

異紀は目を細めた。

届いちゅう。
見えちゅう者の振りではないのに。

――二胡を弾き始めてからずっと、耳の裏から喉の奥へかけて、糸のようなものが張り付いていた。
弾くのをやめても、分館を離れても、それは完全には解けなかった。

その糸へ、理一郎の刃が触れていく。
絡んだ水草でも払うみたいに、軽く、しかし容赦なく外していく。

一筋。
また一筋。

振るたびに、喉を押さえていた圧が少しずつ薄くなる。
胸の中ほどへ沈んでいた息が、前より深く入る。

異紀は窓辺で、小さく肩を揺らした。
笑うつもりはなかった。
先に口元がゆるんだ。

「……きっちょる、きっちょる」

声は、息に近かった。

理一郎は気づかないまま、次の返しへ入っていく。
一手ごとの入りと納めは、きっちりしている。
その間の刃筋は、自分で考えていないような振り方だった。

異紀は窓枠へ額を近づける。
冷えた木が、皮膚へ触れた。

「ただ振りゆう顔して。……とんだ御祓い様やねえ」

呆れ半分。感心半分。
窓枠にかけた指が、深くかかった。

理一郎は、ただ型を返している顔をしていた。
そのくせ、刃は甘くない。
線の薄いところへ入り、残ったものを払っていく。
気の向くままに見えて、外すところは外さない。

異紀は指先へ少し力を入れた。
窓枠の角が、骨のところへ硬く当たる。

二胡そのものの気配は、まだ残っている。
奏具の中へ棲みついたものが消えたわけではない。
けれど、こちらへ食い込んでいたものが、振るたびに外れていく。
異紀の口元に、短い息が残った。
それは声になる前に窓硝子の手前で消えた。

庭ではまだ、理一郎が振っている。

刃が返る。夜の層が薄くひらく。また閉じる。そのたびに、耳の裏から喉へ張っていたものが、一筋ずつ外れていく。

この夜のことを、理一郎はたぶん知らないままだろう。
何を斬ったのかも。
何がほどけたのかも。

異紀は目を伏せた。
知らんままの方が、この人らしい。

窓の向こうで、白鞘が火を返した。
その白が、夜の底へ細く沈む。

異紀は桟から指を離した。
来たときと同じように、音を立てず階段へ向かう。
息は、来たときより深く入った。

***

一階に降りて廊下に立つと、観測室の戸が見えた。
細く開いた隙間の向こうで、寝台の白が夜の中に浮いている。

中へ戻る。
板の冷えが足裏から離れ、敷布の感触が膝へ触れた。
異紀は寝台へ身を戻し、掛け物を胸の下まで引いた。

目を閉じる気にはならなかった。
閉じれば、庭の火がまぶたの裏へ残る。

白鞘の返り。
理一郎の横顔。
何も見えていない目。

異紀は天井を見たまま、息をひとつ落とした。
喉の奥にあった湿りは、まだ完全には消えない。
けれど、さっきまで張っていた細いものは、もう同じ場所にはなかった。

戸の外から、足音が近づいてくる。
異紀は目だけをそちらへ動かした。

廊下の板に、火の色が先に届いた。
細い明かりが敷居の下を撫で、それから戸が静かに開く。

理一郎が立っていた。
片手にランプを持っている。
白鞘はない。
さっき庭で何をしたかなど、何も知らない顔をしている。

異紀は枕の上で、息をひとつ浅くした。

「……志岐さん、見回りなが?」

理一郎の足が、敷居のところで止まる。

「起きていたのか」

「えい香りがしたきね」

異紀の視線が、小卓の端へ流れる。
昼に置かれた桃の包みが、灯の届くぎりぎりのところで淡く沈んでいた。

理一郎はすぐには返さなかった。
ランプを寝台脇の小卓へ置き、火の高さを整える。
暗がりが、壁際へ薄く退いた。

「……えらい、行き届いちゅうねえ」

「匂いに釣られるなら、喉もあとから言い出す」

異紀は小さく息を逃がした。
声にはならなかった。

理一郎は観測室の隅へ回り、そこに置かれていたランプへ火を移した。
二つ目の灯がつく。
明るくなりすぎない程度に、寝台の縁と床板の目が浮いた。
それから、ようやく桃の包みへ手を伸ばす。

「少し、口にできるか」

「匂いは、もう通っちゅう」

そう答えると、理一郎の目がそこで動いた。
理一郎は寝台の端に丸めてあった夜具を取り、異紀の背の後ろへ差し入れた。

異紀は掛け物の内で、ゆっくり肘をつく。
寝台の上で半身が起きた。

「……手慣れちゅうねえ」

「標本よりは動く」

「比べる先がそこなが?」

理一郎は盆を引き寄せ、小刀を取った。
紙包みをほどくと、桃の香りが灯のそばで濃くなる。
淡く色づいた皮へ刃が入る。

果汁が、親指の脇へひと筋伝った。
異紀は黙って、その手元を見ていた。
あの手が、さっき夜を切っていた。
今は桃の皮を薄く剥いている。

理一郎は何も変わらない顔で、皮を盆の端へ置いた。
灯のそばで、淡い色が残る。
桃を半月に切る。
種の近くで、刃が重く入った。
理一郎は、切り口を確かめてから、一片を小皿へ移した。
小皿の脇へ黒文字を添え、手に取りやすい側へ皿を半寸ほど寄せる。

「……ほんま、細かいねえ」

「必要なところだけだ」

「それが多いがよ」

理一郎は答えなかった。

差し出された桃の白い果肉が、灯の下で淡く濡れていた。

異紀は片手を出した。

理一郎は皿の底へ手を添え、異紀の指が収まるのを見てから離した。 

異紀は黒文字を取り、桃をひとつ刺した。
噛むというより、甘さをほどくようにして、ゆっくり喉へ送る。

理一郎はその一口を見ていた。
小刀を持つ手が、次の皮へ入る前に止まった。

「……うまい」

理一郎は返事をせず、残りの桃へ刃を入れた。
先ほどより、薄い。 

異紀はそれを見て、目を細める。

「まだくれるが?」

「入るならな」

「なら、もうひとつ」

異紀が小皿を差し出す。

理一郎は切った一片を、その端へ置いた。

二切れ目は、一切れ目より素直に喉を通った。
肩から、余分な力がひとつ抜ける。
異紀はそれを、ことさら顔には出さなかった。

理一郎は杯へ水を注ぎ直し、小卓の端へ置いた。
理一郎の目が、小皿の傾きと、縁を押さえる親指に止まる。

異紀は小皿を、膝の上で平に戻した。

「本、読んでもえい?」

理一郎は振り向かなかった。

「駄目だ」

「まだどれとも言うてない」

「どれでも同じだ」

「絵の多いやつなら?」

「目が起きる」

「字の少ないやつ」

「手が伸びる」

異紀は肩を揺らした。
枕へ頭を預ける。

「先に塞ぐねえ」

理一郎は小刀を鞘に収めた。
桃の皮が、灯のそばで淡く光っている。

「横になっていろ」

「ほいたら、話し相手は?」

「今は要らん」

異紀は目を開けた。

「……医者みたいなこと言うねえ」

理一郎は布巾を畳み、盆の脇へ置いた。

「違うように見えるか」

「志岐さんの専門、動態外やなかった?」

理一郎の指が、布巾の端で止まった。
一拍だった。

「脈があれば、見る」

異紀は黙った。
灯の中で、理一郎の横顔が明るく見えた。
庭では見えなかったものが、今は近くにある。
何か言いかけて、やめた。

理一郎は杯の位置を直した。

「何かあれば呼べ」

「桃でも?」

「水でもいい」

「本は?」

「明日だ」

異紀は目を閉じたまま、掛け物の端を指で押さえた。

「そこは譲らんがやね」

理一郎は返さなかった。
小卓の火を少し落とす。
床板の目はまだ見える。
壁の隅だけが、夜へ戻った。

異紀の呼吸が、またひとつ深く入った。

理一郎はそれを見て、桃の皿の位置を少し直した。

甘い匂いが、灯のそばに残っている。

理玄異聞録 第5話「胡聲」|第7章 奏者乙 ――弦、遠し