一息ついたあと、異紀が帳面を見直して言った。
「次、わしやね」
理一郎は、木鷽へ目をやり、それから異紀を見た。
これまで、管理した条件で作用を受けたのは理一郎だけだった。
一人で取った結果を、そのまま他者へ当てはめることはできない。
次に見るなら、異紀になる。
一瞬、二胡を弾いていた異紀の姿が重なった。
今は、あの時とは条件が違っていた。
記憶も判断も保たれる。閉じれば作用は切れる。
身体への害も、ここまでには出ていない。
観測を止める根拠はない。
「……そうなるな」
「記録は頼むき」
言いながら帳面をこちらへ軽く押してよこす。
席を替わる前に、確認することがあった。
「もう伏せる必要はないだろ」
「何が」
「判定の根拠だ。そろそろ教えろ」
「息や」
異紀は、自分の胸元を指した。
「志岐さん、開けた時、浅う息をひとつ吸う」
「閉じたら?」
「短う吐く。力が抜けるみたいに」
理一郎は帳面へ目を落とした。
開閉記録、時刻の横に添えられた印。
印の一つ一つが、吸気と呼気に重なった。
「それで見分けていたのか」
「わしも同じとは限らんけど」
そう言って席を立ち、木箱の前へ移った。蓋を戻し、箱を据え直す。
木鷽は西を向いている。
「開けるで」
異紀が蓋の両端へ手を掛け、持ち上げた。木の縁が離れ、内側の暗がりから木鷽が現れた。
浅く、息が入った。
理一郎は異紀から目を離さなかった。
異紀の目が木鷽へ落ちていく。肩の動きが止まった。
それ以上の変化は、すぐには出なかった。
眉根が寄る。視線が、木鷽の向こうへ抜けた。
異紀はいったん瞼を閉じ、開いた。
その目がこちらを向いた。
理一郎も見返した。
異紀も逸らさない。
異紀の唇が動いた。声は出なかった。
薄茶の瞳が揺れる。
次の瞬間、蓋が下りた。
木の縁が重なり、木鷽が隠れる。
異紀の口から短く息が抜けた。
「…………」
理一郎は閉じた箱を見た。
異紀も、同じところを見ていた。
異紀の手はまだ蓋の上にあった。
やがて、指が離れた。
「……すまん。気ぃついたら、先に手ぇ動いちょった」
「何があった」
「分からん」
異紀は自分の手を見たまま、しばらく動かなかった。
「いや」
ゆっくりと顔が上がった。こちらを向く。
「……聞かれとうなかった、……のかもしれん」
言葉が切れたあと、頬に遅れて色が差した。それが耳の際まで上がっていく。
異紀は片手で顔の半分を覆い、横を向いた。
「ちっくと」
声が、手の内側へ落ちる。
「今は、わしを見んといて」
「わかった」
理一郎は、手元の帳面に目をやった。
浅い吸気。閉蓋。短い呼気。
そこまでは書ける。
その間に異紀の中で何が起きたのかは、まだ書けなかった。
異紀は、自分から開けた。開ける前まで、やめる様子はなかった。それが、蓋を上げたと思った次には、もう閉じていた。
将棋盤へ伸びた自分の手を、思い出す。木鷽の作用は、発語だけではない。
傍らで、衣の擦れる音がした。
「……もうえいよ」
そこで初めて、理一郎は顔を上げた。
異紀の頬には、まだ少し色が残っていた。理一郎は、それに触れなかった。
「さっき、蓋閉めたろ。……閉めようと思うて閉めたんやない。手ぇが出たんは、これの作用やと思う」
蓋が下りる直前の様子が浮かんだ。
「その前に何があった?」
異紀は一度、口を結んだ。
「そこ、要る?」
確かめたかったのは、対象を替えても作用が出るかどうかだった。
何が出かかったかまでは、問う必要はない。
「いや。そこまではいい」
「ほうか」
今度の返事は、先ほどより軽かった。
「対象を替えても、同じか」
「志岐さんも、金平糖、同じ色ばっかり取りゆうしね」
話の先が、思いがけないところへ曲がった。
「俺が?」
「そう。箱が開いちゅう時には、白ばっかりとりよった。閉じちゅう時は手前から」
色を選んだ覚えはなかった。
「どれ選んでも、味は一緒やろ?白が、好きなが?」
好きな色など、考えたこともなかった。
白いもの。
洗った晒し。白磁。骨や歯も、形の整ったものなら見ていて飽きない。
汚れや傷はすぐ分かる。余計な色がなければ、形も拾いやすい。
白梅にも、よく目が留まる。
「言われてみれば、そうなのかもしれん」
口にしてから、異紀を見やった。
「だから、あれだけ食えと言ってきたのか」
異紀の口元がほどけた。
「今はもう、隠す意味ないき」
言いながら、懐から小ぶりな手控えを取り出した。頁を開いて、こちらに見せる。
日付の脇に、項目と印が並んでいる。箱の開閉と呼吸の記録。作用の走り書き。
それとは別に、白、桃と、色名が書き込まれていた。途中から白丸と黒丸に代わっている。
「これを別で取ってたのか」
「何か拾えればえいと思うてね」
次の頁には色ごとの数まで控えてあった。
金平糖を勧められる間ずっと、選ぶ色まで見られていたらしい。
「全く、抜け目がないな」
「まあね。太らせて食うんも、悪うないと思うたけど」
声に笑いが混じった。
「糖ばかりじゃ、味は出んぞ」
「それやったら、わしの方が先に旨うなりそうやね」
「食わせ甲斐はあるな」
「気長に頼むわ」
異紀は笑った。
◇
異紀は手控えを観測台に置いた。
その傍らで、木箱は蓋を閉じたままだった。
「……志岐さん」
「どうした」
「ひとつ、聞いちょってほしいことがある」
声から、先ほどまでの笑いが消えていた。
「――これから言うこと、記録には置けんかもしれん」
理一郎は異紀を見た。
「わしがそう感じた、いうだけやき。……けど、これは人に触るもんや。志岐さんには知っちょってほしい」
異紀は、理一郎の目を見て言った。
「書くかどうかは、おまんに任せる」
「……預かる」
窓から入ってきた風が、広げたままの地図の端に触れた。
紙が浮き、町並みが緩やかに波打った。
「鳴海屋で、庭の奥見たろ」
「離れ跡のことか」
「そうや。そこに、何かが溜まっちょった」
「形は?」
「ない。姿があるわけでも、声がするわけでもない。けど、そこにあるがは分かった」
途切れた踏石。火事で失われた離れ。そこで亡くなったという者。口にはしなかった。
「あそこで人が亡くなったいう話は残っちゅう」
異紀の目が木箱へ戻る。
「それが関わっちゅうとも思う。けど、誰の何ながかまでは分からん」
「……そうか」
「恨みながか、悪意があるがか。それとも、逆ながかもしれん」
そこで異紀は言葉を切った。
「ただ、あそこにあるもんと、これの中にあるもんは同じや」
二人のあいだには、閉じた箱があった。
「初めて見た時、わし、これを呪い《まじない》もんやと思うた」
異紀の指先が、木箱の縁へ近づいて止まる。
「呪いもんいうても、こいつ自体が人に災いをなす、いう意味やないで。先に何ぞ障りがあって、それを受けるために後から置かれるもんもある。こいつは、そっちや」
触れないまま、手が膝へ戻る。
「さっき、自分で開けて、やっともうひとつ分かった」
先ほど耳にした浅い吸気が蘇った。
「蓋が上がって、息吸うた時に、こいつの中にあったもんが、わしへ入ってきた」
「閉じた時は」
「抜けた。抜けたら、返った」
異紀はそこで首を傾けた。
「返った、いうより……木鷽の方が吸うたんかもしれん」
「どういうことだ」
「箱の中におる時は、こいつが抱え込んじゅうように感じる」
「開けた時は」
「向きが外れちゅうと、人の方へ来る」
地図の上で、異紀が鳴海屋を指した。
「離れの方へ向いちゅう時は……、そっちへ抜けていったがやと思う」
南西。北北西。蓋の開閉。
別々に取ってきた結果が、異紀の話を重ねると、同じところへ寄った。
「……これ、溜めるための物やないのかもしれんね」
声が低くなった。
「吸うて、返す」
そこから先は、異紀も言い切らなかった。
閉じている間に引き受けて、向けるところへ返す。
だとすれば。
「……こいつ自体が、作用を起こしているわけじゃないのか」
「わしには、そう感じる」
(感じる……か)
理一郎は目を閉じた。
離れ跡にあるものと、木鷽の中にあるもの。
これらが同じものだと、異紀は言った。
事実としては置けない。
だが、異紀の所見としてなら書ける。
〔旧離れ跡にて感得したものと、木鷽内に認めたものを同質と――〕
頭の中に、異紀の声が割り込んだ。
『――錯覚ごと、記してみいや』
〔同質と認む〕ではなく。
〔同質と感ず。〕
〔開蓋時、吸気に伴い移入する感覚あり。〕
〔閉蓋時、同感覚消失。〕
それなら書ける。
眼球標本の黒い瞳孔が浮かんだ。
縦に立った線。横へ走った線。橙の点。
あれを見たのは、自分ひとりだった。
『――見えちゅうのに黙っちょるなら、それは目ぇ塞ぐ側のやり口や』
眉間へ力が入った。
(……分かっちゅう)
見えたことと、それが何であるかは別にできる。
あの時は、そうした。
なら、これも同じように書ける。
自分には取れず、異紀には取れた。
それだけで落とす理由にはならない。
〔久遠異紀、離れ跡にて――〕
名を置いたところで、文が止まった。
久遠異紀。記録の中にその名を置くことを考えた途端、別の光景が重なった。
黒塗りの二胡。結ばれた唇、浅い呼吸、遅れる手。
書庫の床。陽に透けた肌、薄い瞼、弱い脈、骨ばった背中。
見ていた。全部、見ていた。
――なのに、見逃した。
二胡に喉を掴まれていたことも、食が喉を通らなかったことも。
もともと、食の細い方であったことも。
気づかれぬように、昼に抜けていたことも。
理一郎は標本医だった。専門は動態外――死したものから生をみる者だった。
それでも、本来的には医者だった。
その、はずだった。
異紀はずっと、傍らにいた
窓際の席で、本を読み、筆を執り、茶を飲んだ。
出会ってたった数か月。
しかし、常態を知るには十分な期間だった。
異紀が見せたところしか、見ていなかった。
それで、分かったつもりになっていた。
前提を疑いもせず、既知の範囲に収めていた。
――医者として、不甲斐ない。僚輩としても、鈍すぎた。
あそこで気がつかなかったら、喉だけでは済まなかったかもしれない。
『要らん』
最後にできたのは、手前で止まることだった。
もう、こんな風に異紀から取らない。
そう決めた。
『――そこ、要る?』
異紀は、話すところを自分で選んでいた。
理一郎も、その先は問わなかった。
その同じ異紀が、今度は自分から渡してきた。
何も知らずに差し出しているわけではない。
記録に名を置けば、それは後まで残る。
〔久遠異紀、離れ跡にて――〕
その一行があれば、それで足りてしまう。
久遠異紀には分かる。――それなら、次も、久遠異紀に任せればいい。
そのための文を置く気はなかった。
ならば、名を置かなければいい。
記録に落とすのは簡単だ。
志岐理一郎は〔被験者甲〕に。
久遠異紀も〔乙〕にすればいい。
主観を明示し、名を伏せる。
そのやり方を、異紀も知っている。自身でも書ける。
それでも、書くかどうかをこちらへ渡した。
何でもないような顔をして。
人に触るものだから、と。
自分を勘定の外へ置いて。
一度、理一郎は見損ねている。
止めるのも遅れた。
そのことまで知っている異紀が、扱いまでこちらへ預けてきた。
また、見落とすかもしれない。
その自分に、なぜ、渡す。
「要らん、いうたろ」
口から声が漏れた。
異紀の目が、木鷽の箱へ向いた。
――蓋は閉じている。
つられて、理一郎も箱を見た。
異紀がこちらへ向き直った。
「……なんで、そんな顔しゆう?」
「どんな顔だ」
「わからん」
その目は、まだ理一郎から離れなかった。
「そんな顔するとは、思うちょらんかった」
「……忘れろ」
「嫌や」
「おまえ」
「わしは、忘れん」
声が強くなった。
「志岐さんが飴くれたことも、桃切ってくれたことも、朝までおったことも。全部、覚えちゅう。弾けん二胡にまで手ぇ出して、最後は要らん言うた。どうして、それを忘れろなんて言うが」
「それは別の話だろう」
「同じや!」
観測台が鈍く鳴った。
異紀の右手が台の上にあった。
「志岐さんがしてくれたこと、わしは忘れん。志岐さんが、わしのことでそんな顔したことも」
異紀の瞳に自分が映っていた。
――板に縫い留められた精緻な標本に似た姿態――
不意に、あの日の姿が重なった。
視線を逸らす。
その目を見たくなかった。
「……俺は、おまえが思うほど大層な人間じゃない」
言葉が、喉の奥を重く通った。
「まだ言いゆう」
「事実だ」
言い切ると、異紀の口がへの字に曲がった。
「――おまんが自分のことどう思うかは、わしは知らん」
理一郎は顔を上げた。
「けんど、わしがどう思うかまで同定せんといて」
返す言葉がなかった。
異紀はそれを見ると、椅子の背へ身体を預けた。
天井を見上げ、ひとつ、息を吐いた。
しばらくして、口元の力が抜けた。
「あの桃、うまかったなあ」
「……今その話をするのか」
「食べたくなったき」
声からは、先ほどまでの鋭さがすっかり抜けていた。
「また切ってくれん?」
蝉の鳴き声が聞こえる。
「季節は過ぎた」
「ほうか」
異紀はあっさり引いた。
しばらくして。
「三福、種なら持ってくるろうか」
「どうするつもりだ」
「植える」
「実がなるまで何年待つ気だ」
異紀の背が、椅子から少し浮いた。
「知らん」
「最低でも三年は見ろ」
「ほいたら、待つ」
「……そうか」
桃の話はそこで途切れた。
異紀が木鷽の箱へ目を落とした。
「――任せる言うたがは、わしや」
異紀の手が、箱へ伸びた。
「書くかどうかも、どう置くかも。わしが、おまんに渡した」
今度は引かず、縁へ手を置いた。
「渡したことまで引っ込める気はないで」
箱の縁を押さえる手に、わずかに力がこもる。
「要らんなら、それでもえい。けんど、その『要らん』が、わしのこと考えて出たがやったら――」
続きが、遅れた。
「そこまで気にせんでもえいがよ。わしは、もう」
その先を聞くつもりはなかった。
「その言い方が気に入らん」
「何や、急に」
異紀が箱から手を離した。
「おまえ、自分を頭数から抜くな」
「そんなことないで」
理一郎はその返事には触れなかった。
「俺とおまえでやる仕事だろう」
異紀は口を閉じた。
「おまえが平気でも、俺まで平気とは限らん」
異紀は目を見開いた。すぐには何も返さず、やがて目を伏せた。
「……気ぃつける」
「それは信用せん」
言い返される前に、理一郎は続けた。
「前科がある」
異紀が何か言いかけ、代わりに小さく息を吐いた。
「わかった」
理一郎はそれ以上追わなかった。
異紀は木鷽の箱を見た。
「蓋、閉まっちゅうねえ」
「……知ってる」
異紀の口元が動いた。
理一郎は帳面の余白へ目を落とした。
異紀が預けた所見は、もう書ける形になっている。
(もう、預かっちゅう)
「残す」
異紀の眉が動いた。
「書くが?」
「おまえが言ったことは外さん」
そこから先は、迷わなかった。
「だが、名は落とす」
「……志岐さん」
異紀が一度顎を引いた。口元に笑みが戻っていた。
「全部、書き直しやね」
「手間をかける」
「初めからそうしちょったらよかったねえ」
理一郎は首に手を当てた。
「次からは、そうする」
「今度は、丙丁にでもする?」
「余計な記号を増やすな」
「名無しなら、それでもえいやん」
「鷽と鷺なら、人が抜けてちょうどいいが」
「画数、だいぶ増えちゅうけど」
結局、鷽も鷺も記録には残らなかった。