理玄異聞録 第8話「木鷽」|第8章 三福 ――先、追わず

 蓋はひとまず外したままにした。
 木鷽は北北西を向いて、観測台の上に据わっている。
 異紀は筆を置いた。

「茶ぁ飲む?」
「もらう」

 戸口から爪の音がした。
 三福だった。口元から、灰色の羽が垂れている。
 その陰に、鳥の紅い頬が覗いた。

「……鷽」

 思わず席を立った。
 近寄ると、三福は鳥を床へ置き、腰を落とした。
 しゃがみ込んで取り上げる。
 丸みのある胴。青灰の羽。紅色の頬。短く、厚い嘴。

 鷽で間違いない。
 嘴から翼へ指を移す。羽は整っていた。尾羽にも目立った擦れはなく、汚れも少ない。
 蝉の声が一際大きくなって、窓から入ってきた。
 理一郎の指が止まった。

 今は夏の盛りだった。
 冬なら、この辺りでも鷽は見られる。
 だが、この時期に市中へいる鳥ではない。
 もう一度、手の中の鷽を見る。
 長く野を飛び回っていたものにしては、状態がいい。

 襟元に、嫌な汗が滲んだ。
 異紀が脇から覗き込んだ。

「あれ、志岐さん、鷽は今頃北の山や言いよらんかった?」
「……言ったな」
「気の早いのが迷ってきたんかね」
「そうだといいが」

 翼の端から脚の先まで、目で追い直す。
 どこかで迷い込んだものかもしれない。
 たまたま野へ出ていたものかもしれない。
 脳裏をよぎったものを、裏づける材料はない。

「ほんなら、飼い鳥か」

 異紀が何でもないことのように言った。
 理一郎は思わず鷽から目を逸らした。
 それでも、掌の上にあるものは確かだった。

「……分からん。近辺で鷽を飼っている家がないか――」
「何て聞く?」
 異紀が遮った。
「おまんが探し始めたら、鳥より先に、猫の話が立つで」
 三福は、前足を揃えて座っている。
「探している者がいるかもしれん」
「そうやね」
 異紀はそこは退けなかった。
「けど、飼い主が見つかったら、ふくは『人の鳥を獲った猫』になる」
 理一郎は顔を上げた。
「出所を辿るだけだ」
「どこで見つけたか聞かれたら?猫が咥えてきたいうたら、人は勝手に先をつなぐやろ」
 足元で、何も知らぬ顔で三福がこちらを見ている。
「それで、ふくがえらい目に遭うたら?」
 異紀は三福へ目をやった。
「猫が鳥獲るがは、猫の道理やろ。そこへ人の話を足すがは、わしらの方や」
 三福から戻った目が、理一郎の顔で止まった。
「それ、観記掛がやることなが?」

 飼い鳥だった確証はない。三福が獲った確証もない。どこから来たかも分からない。
 ただ確かめるつもりでも、官署が踏み込めば、話の筋を作るのはこちらになる。
 しばらくして、理一郎は息を吐いた。

「この先は、追わない」
 手の中の鷽を持ち直す。
「――だが、これは見る」
 それを聞いて、異紀の肩が下がった。
「そこは別ながやね」
「実物があるのに比較しない手はない」

 そう言って、観測台に戻った。
 木鷽は、ただそこにある。その脇へ、鷽を置いた。
 木の胴と、羽毛の胴。その先には、よく似た二つの嘴がある。
 先日取った寸法と照らし、拡大鏡越しに形を見比べる。
 やがて、拡大鏡を置いた。

「嘴は、鷽でいい」
 異紀が筆を取り上げた。
「ふくは?」
「書くな」
「この鷽は?」
「書くな」
「見比べたことは?」
 理一郎は一拍置いた。
「俺が見た」
 台の上には、二つの鷽の嘴が並んでいた。
「便利やねえ、標本医」
「責任は持つと言っている」

 筆が紙へ下りた。
 理一郎は鷽を持ち上げ、三福の前へ戻した。

「もういい」
 三福が鼻先を寄せる。
「助かった」

 三福は動かなかった。
 理一郎をじっと見上げている。

「……どうした」
 動かない。
「返したぞ」

 まだ見る。
 異紀は三福と理一郎を見比べた。

「鰹節やない?」

 三福の目は、理一郎から外れない。
(分かった。やるから見るな)
 袖口から紙包みを取り出す。包みを開くと、削り節の香りが立った。
 異紀の眉が上がる。

「それ、いつも持っちゅうが?」
「猫なんて、いつ現れるかわからんだろう」
「置いといたらえいのに」
「いちいち取りに戻る方が面倒だ」

 鰹節を手に取ると、三福は掌に直接口を寄せてきた。
 すぐに食べ終え、丁寧に前足を舐める。
 それから何事もなかったように、鷽の胴を咥え直すと、軽い足取りで戸口を抜けた。

「持って行くのか」
「返したがやろ」
 理一郎は後ろ姿を見送った。
「何しに来たんだ、あいつは」
「好かれちゅうねえ」
 立てた尾が、廊下の向こうへ消えていった。