朝の光が斜めに入っていた。
執務室の戸を引くと、外の空気が一筋入れ替わる。
紙と墨の匂いが、部屋の中に薄く満ちていた。
異紀はすでに机に向かっていた
肩をわずかに前へ寄せ、紙と向き合っている。
見覚えのある白が一枚、抜き出されていた。
異紀が、その紙に向かって筆を運んでいる。
小さく口ずさむ鼻歌が、紙の上で揺れていた。
ふいに、その鼻歌が途切れた。
筆先が、息とは別の速さで走る。
一画ごとに墨が置かれていく。
線は迷わず渡り、止めるところで、きゅっと力を残して止まる。
黒い筋が重さを持って並ぶ。
周りの余白まで、そこへ引かれているように見える。
最後の一筆を引き切ると、異紀は短く息を吐いた。
紙の中央に、二文字がすっと立っている。
——『朧紗』
理一郎の息が、一瞬詰まった。
文字そのものより先に、その二字が紙ごと押さえ込んでいる重みが、視界に引っかかった。
教場で習う整い方からはわずかに外れている。
にもかかわらず、目がそこへ縫い留められる。
「……気迫がある字やな」
声を掛けると、異紀が視線をこちらへ向けた。
「頼まれもんか」
異紀の口元が緩む。
「まあねえ」
それきり、異紀は筆を置いた。
墨の光沢が、朝の光の中で薄く沈む。
理一郎は、それ以上は尋ねなかった。
館内向けの札か、どこかへの控えか――用途のほうに軽く思いを寄せる。
二字の向こう側に、今日一日ぶんの手順がじわじわ積もっていく気配が、紙の白にうすく滲んだ。
◇
観測室の空気は、昨日と変わらず乾いていた。
掛け布の四隅の重しを外し、理一郎は白をゆっくりとめくる。
紅の花が、顔を出した。
掛け布を外しきり、昨日と同じ筋を目で確かめる。
手のひらを浮かせたまま、右の指先を落とした。
一度、軽く撫でる。
布の上を、布とは別の乾いた筋が、すべるように通り抜けた。
もう一度、同じ幅でなぞる。
今度は、逆の向きへ指を送る。
先ほど滑った筋が、今度はこつ、と爪の根元を押しとどめた。
同じ間隔の細いひっかかりが、指の下で続けざまに並ぶ。
(……これは)
間を置かず、理一郎は短く息を整えた。
布から目を離さないまま、低く落とす。
「……蛇だな」
帳面のほうで、筆先が小さく止まる気配がした。
異紀が顔を上げる。
「蛇?」
理一郎は答えの代わりに、指をもう一度滑らせた。
布の筋に沿って押し出す。
向きを反対にして、同じところを戻る。
爪先が、規則的にこつこつと止められた。
「腹の鱗が、逆目に返る筋だ。順に撫でたら逃げる。逆に撫でたら、爪の根元が細く止められて、指の腹が遅れて持ち上がる感じになる」
示すあいだも、余計な手順は挟まない。
必要な往復を済ませると、理一郎は指を離した。
「山で獲れた類だろう。毒の強い類じゃない」
言いながら、なめしの具合を掌で量る。
薄いのに、芯が抜けていない。押しても、下からの張りがすぐ返ってくる。
高価な舶来の怪物ではなく、きちんと仕立てれば帯にでも巻ける山の蛇――そのくらいの姿が、頭の中で自然に形を取った。
「……よう分かっちゅう人の口やね」
異紀の口の端が、気づけば上がっている。
筆が紙の上を走る音が、昨日よりも速い。
『触感:蛇革
鱗状/順目すべり・逆目ひっかかり』
そんな語が、墨の筋として薄く増えていく。
理一郎は、その行を横目に拾った。
今度は、喉の奥で言葉がつかえる前に、先に結びを口にする。
「これは、見本はいらん」
自分で出した一言に合わせるように、布から手を引いた。
これ以上の確認を足すつもりはなかった。
指も、そこから先を追わなかった。
異紀の筆先が、そこで一瞬止まった。
「ここは、《志岐先生》の見立てでえいろう」
新しい行の頭に『確定』の字が乗った。
理一郎は、指先に残った乾いた引っかかりを、ひと呼吸分内側でなぞった。
昨日の、名札に寄りきらん手触りとは違う。
ここだけは、先に名前のほうが揃ってくれる。
その小さな揃い方ごと、胸の奥へ静かに沈める。
唇の線が、いつの間にかほどけていた。
◇
蛇革の層が落ち着いてから、しばらく時間が経った。
十五分置きに、布に触れ、次の層が来るのを待った。
そして、いま手の下にあるのは、鱗とは似ても似つかぬ織物の層だった。
右の指を落とし、一定の幅で送る。
同じ距離を、同じ力で。
布の面は、つるりと素直に滑る。
離した瞬間には、指のほうが先に空気へ抜けた。
指と布のあいだには、何も残らない。
指を置き直して、もう一度。
滑りは同じで、抜け方も変わらないように思える。
何往復か重ねるうちに、その「変わらなさ」のほうが、かえって気になり始めた。
蛇革のときのような決め手がないまま、時間が積もっていく。
(……手がかりに乏しい)
もう一往復、撫でた。
滑りはやはり素直だ。
抜け方も、それまでと変わらないように思える。
理一郎は、布から静かに手を引いた。
視線を異紀のほうへ滑らせる。
懐中時計は、今日も異紀の帳面の脇に置かれている。
文字盤の細かい目盛りまでは見えない。
それでも、長針の向きくらいは、目の端に引っかかった。
異紀が筆を止め、理一郎の視線を受けてから、ちらと時計へ目を落とす
「……一時間は、とっくに経っちゅう」
淡く落ちた声が、机の上の空気を少し揺らした。
この層に指を置き始めてから一時間――。
これまでの層なら、そのくらいで手触りが切り替わるのが常だった。
(……この層だけが、長いのか)
顎の筋が、固くなった。
指を擦り合わせ、乾き具合を確かめてから、もう一度、布へ戻した。
つるりと滑る。
そこまでは、変わらない。
離した最後の一寸で、指腹の裏側に、ぬるりとした遅れが引っかかった。
(……ん?)
目印から指腹ぶん内側。
同じ線を、もう一度なぞる。
布の面は素直に迎える。
ただ、抜け際に、半拍ぶん遅れが残った。
さっきよりも、その張り付きがはっきりしている気がする。
(いままで、こんな残り方はしよらんかったはずやが)
そこでようやく、別の可能性が頭をかすめた。
(この層が長いんやなくて……)
指先に残った、ぬるりと抜けん感じ。
(……もう、変わりゆうがか?)
これまでの「つるりと素直」が、同じ層の顔で。
いま指に残る「ぬるりと抜けん」が、その次の顔。
その境目が、いつだったのか。
(……分からん)
気づいたときには、もうこちら側に来ていた。
(気のせい、ではないやろ)
理一郎は、息を吐いた。
喉の奥で空気が引っかかる。
そのまま吸い直そうとして――
舌が、歯の根に当たった。
「……ち」
歯の裏で、小さく音が立つ。
舌が上顎を払っただけの、短い音だった。
指が止まる。
異紀の肩が、呼吸を整えるみたいにかすかに揺れた。
その揺れといっしょに、筆先が小さくうなずく。
ちょん、と。
欄外に、小さな点が落ちた。
文字でも記号でもない、黒い粒が一つ。
(……拾いよった)
息がひとつ浅くなる。胸の奥で、何かがすっと沈んだ。
「……比較対象が足りん」
誰に向けるでもなく、低く落とした。
声のほうが先に尽きて、そこでいったん切れる。
ひと呼吸分の間を置いて、もう一度口を開く。
「やはり、見本がいる」
帳面のほうで、異紀が小さく笑いを飲み込んだ気配がした。
顔も上げないまま、さらりと言葉を落とす。
「ほんなら、午後にでも行ってくるき」
異紀の手元で、黒い点が、句点とも誤記ともつかない顔をしたまま滲んでいる。
理一郎は、そこへは触れずに、布から手を離した。
(……ここから先は、見本の仕事や)
観測室の乾いた空気の中で、一度漏れた音と、紙の端の小さな点が、ふたりの間にひっそりと残っていた。