戸の向こうで足音が止まった。
板戸を叩く音が、控えめに二つ。
「観記掛さん、おいでやろか」
理一郎は筆を止め、硯の縁を見た。墨はもう落ち着いている。
「どうぞ」
理一郎が短く告げると、戸が引かれ、本館の職員が姿を見せた。
手には、あの布を包んでいた風呂敷があった。
卓の上には、布が畳まれたまま置かれている。
脇には、布見本から抜き取った布や紙を綴じたもの。
そして、全十二層――凡そ半日をかけて変わる布の挙動を記した帳面。
布の顔を簡潔に整理した表も一枚、添えてあった。
職員は風呂敷を広げ、まず布を受け取った。
折り目が、ゆっくり落ち着く。
そのあと布見本と帳面を受け取り、表の字を眺めた。
「……ようまとめてもろて、ほんま助かりましたわ」
面の上を目で追い、『危険性なし』の行で指が止まる。
次ので、職員の口の端が少し動いた。
「手袋推奨……て。笑うとこやないのに、正直ありがたいどす」
異紀は静かに頷き、理一郎が落ち着いた声で応じた。
「触れているあいだ、危うい兆しは一度も出ていません。ただ、見た目と触感が食い違う刻があります。……驚く者がおれば手袋を、というふうに」
「棚卸しのとき、皆、そこが一番怖がりよるんです。『危ない』やなくて、『気持ちが悪い』言うて。どう扱うたらええんか……正直、皆よう分からなんだんです」
紙面をなでるように見つめながら、職員は小さく声を漏らした。
「触り心地が変わる順まで、見本つきで書いてもろて。これだけあれば『どういうもんか』分かります。お墨つき、言うたら大げさですけど……気持ちはだいぶ違いますわ」
言葉が、まっすぐ落ちる。
「……それで、十分でしょう」
理一郎の言葉に、職員は小さく頷いて、帳面と布見本綴の端を揃えた。
そして、改めて書面を見つめると、すっと顔を上げた。
「この、字。……これ、久遠さんが書いてはるんどすか」
異紀は肩を竦めるだけだった。
「わしが書いた。整えただけやき」
「整えた、だけて。……ほんま、ええ字ですな。読みやすい。癖がない。それでいて、骨がある……」
感嘆の息が漏れる。
字を読む目から、字を観る目に、いつの間にか変わっていた。
「……前に、清書が得意な者がおったんですけど、辞めはりましてね。ちょっとした文や、上に回す報告書、頼む口がなくなりましてな……」
言い終えるころには、声の端に頼みごとの形が滲んでいた。
異紀はその視線を受けとめ、机の縁に指を置いたまま、軽く笑う。
「……都合の合う刻なら、手ぇ貸すよ。急ぎだけ先に言うてくれたら、そっちから取り掛かるき」
職員は、安堵の息を抜いた。
「おおきに……。ほんまに」
朱が紙に沈む。
受領の印が、静かに落ちた。
その手つきが、先ほどより少し柔らかい。
それでも、去り際に職員は一度だけ足を止めた。
言おうか迷って、結局言ってしまう顔で。
「……ほんまのこと言いますとね。これまで、心臓とか眼球とか、そういうのばっかりで」
声が、ほんの少しだけ低くなる。
「ただでさえ死人の身体は、よう触りとうないもんですわ。そこに『脈動あり』なんて書かれてた日には……。ここ持ってくるの、皆ちょっと怖かったんです」
職員は自分の言い方を恥じるように、目を伏せた。
笑おうとして諦めたような表情が落ちる。
理一郎は表情を変えず、言葉を落とした。
「動かぬものの扱いには慣れています。……気にされることはありません」
異紀も、筆を置いたまま、肩をすっとゆるめた。
「わしも、まあ……今更やきね」
その二言に、職員は思わず息を吸いなおした。
観記掛の部屋に、急に血が通うのを見たような気配だった。
「……ほな。持って帰りますえ。また、よろしくお願いします」
風呂敷を抱え直し、深く一礼して戸口へ下がる。
木目が静かに重なり、廊下へ去る足音が、遠くへ薄れていった。
戸が閉まる音が沈んでいき、廊下の足音が、こつ、こつ、と数歩響いた。
それもやがて、建物のどこかへ溶けてゆく。
静けさが戻ったところで、理一郎は机の上の布見本綴に視線を落とした。
端がわずかに浮いている。
ふと、それだけではない違和に気づいた。
「……久遠」
理一郎は布見本綴の端を軽く押さえながら言った。
「この見本の代価、どう扱っている」
異紀は、筆の軸を指で弄びながら顔をこちらに向けた。
「いらんって、言われたき」
あっさりした声だった。
理一郎の指が、綴の端で硬くなる。
ひと息置から、言った。
「向こうに手間を掛けている。形は返せ。……余計な借りは、残すな」
「借り?……ああ」
異紀は、薄く笑った。
「書を渡したら、それでえいって」
理一郎の手が止まった。
「……書?」
異紀は机の端の薄い紙束を、顎で示した。
白が深い上質紙。
「話をつけに行ったついでに渡したら、それでえいって。むしろ、お釣り来たで」
「……釣り?」
理一郎の眉が、わずかに動いた。
異紀は、理一郎の手元の布見本へと視線を落とす。
「……細いもんが、ちいと」
「お前、そもそも。どういう繋がりだ。骨董屋と」
「気分が乗った時だけでえいき、書けたら持ってきてくれって」
筆先で空をなぞりながら言う。
「紙も貰える。……えい小遣いになる」
つと、白い紙へ一息に筆を走らせていた景色が脳裏に浮かぶ。
「……いつだったか、朝方、筆を執っていたな」
「ああ、あれ?」
異紀は軽く笑う。
「えい語が浮かんだき、試しに書いちょっただけ」
理一郎は短く息を整えた。
「朧紗、だったか」
異紀が思い出すように宙に視線をやった。
「そうそう。帳面に綿(わた)で落としたやつ。ふわっとしちょったろ?」
理一郎の息が、そこで止まった。
朧紗。
綿(わた)。
ふわっと。
脳裏で、それぞれの質感がゆるく繋がった。
「……待て」
自然と声が低くなる。
「まさか。あの『ふわふわ』か」
異紀は、何の抵抗もなく頷いた。
「うん。古物商に渡したのもそれや」
理一郎は額に手を当てた。
押したところから、ゆっくり息が漏れる。
「よりによって……」
「喜んじょったよ?『配がえい』って」
理一郎は机を指で、とん、と叩いた。
「……やめろ。取り返してこい」
「え?」
異紀が笑いをこらえた声を漏らす。
「今さら? もうどこぞの床の間で、えい顔しちゅう頃やない?」
「知らん」
理一郎は淡々と言う。
「俺の口から出た『ふわふわ』が、ありがたい書物みたいな顔で世に出回るなど、……始末が悪い」
異紀は目でふっと笑った。
「でも、誰も『ふわふわ』とは思わんき。それらしい顔で読んでくれる。 気にせんでえい 」
「余計にまずい」
理一郎の目が細くなる。
「中身がふわふわのまま、格好だけ整えた標本が一番たちが悪い」
「でも、その格好つけたの、志岐さんやきね」
「……どこが」
理一郎は横目で異紀を見た。
異紀は筆を筆立てに戻してから、さらりと言った。
「最初に『ふわふわ』言うた人」
その声が、静かに刺さった。
「わしは、それに字ぇ当てただけやき」
理一郎の喉が詰まる。
「……次からは」
短く息を吸う。
「不用意な比喩は、記録には残さん」
異紀は涼しく返した。
「ほいたら、言わんように気いつけや。聞いた瞬間に、わしが残す」
にこり、とした笑いが添えられる。
「また、えい小遣いになるき」
「久遠」
「はいはい。次はもう少し、志岐さんが恥ずかしゅうない字にしちょくき」
「そういう問題じゃない」
そう言いながらも、理一郎はそれ以上追及せず、帳面を開き直した。
頁の白さが、まだどこか朧に見えていた。
◇
昼の光が、紙の端でひとつ揺れた。
その余白の端へ、別の気配が静かに寄った。
軽く握られ拳が、理一郎の前へ差し出されていた。
影が、机の白に落ちる。
言葉はない。
理一郎の視線が、その手と異紀の横顔のあいだで揺れた。
(……何や)
気づけば、手が上向きに開いていた。
異紀の手がほどけ、細い紐が静かに落ちた。
真っ先に指先がその感触を拾う。
「……絹だな」
指の腹を抜ける、薄いすべり。
見本帳を何度もめくった手が、覚えている質感だった。
撚りの光り方に、見本に添えられていた糸束の気配が、かすかに残っていた。
理一郎の手におかれたのは、平たい組みの絹の髪紐だった。
撚りは均一で、面が広く、指に吸いつくように温かい。
面はきれいに揃っている。けれど、揃いの品にある隙のなさとは、少し違う。
折り返しの癖がわずかに残り、撚りの並びには、ひとりの手で追ったような静かなむらがあった。
房は短くまとめられ、手に沿う仕上がりで、「道具」としての形が整っている。
ただ、その整い方の奥に、見覚えのない組み筋がひとつ、指先へ残った。
理一郎の視線が、紐から異紀へ移る。
(どういうつもりや)
声にならない揺れが、目の奥に一つ立つ。
異紀はその視線を受けたまま、顎を動かす。
「それ、もう、繊維の束やろ」
指しているのは理一郎の髪を結ぶ古い紐。
長く使われたせいで、痩せ、ねじれ、糸のまとまりに近い。
不意に、結ってある自分の髪に触れられたような気がした。
理一郎は短く返した。
「まだ、使える」
異紀は軽く笑うでもなく、理一郎の手のひらに沈む髪紐を、見ていた。
「……なら、替えとして持っとき。あっても邪魔にはならんき」
理一郎の指が、無意識に後ろへ回った。
結い目を撫でた瞬間——痩せた紐がわずかに沈み、結い位置がふっと下がった。
襟足へ、一房だけ髪が落ちる。
指が止まる。
異紀が、片眉をわずかに持ち上げた。
理一郎は、直すつもりで結い目へ指を差し入れる。
古い紐が、するりと解けた。
(直すだけや)
けれど、結い直す手の中にあったのは、異紀から受け取った絹の紐だった。
絹は軽い。
締めても重さを引かない。
結び目が、きゅ、と定まる。
襟足が、すとんと落ち着いた。
理一郎は息をひとつ吐く。
「……悪くはないな」
独り言のように、小さく落とした。
古い紐は、いつもの癖で、軽く纏めて袖の中に入れた。
触れた指先は、もうその紐を「次に結ぶ形」を思い描いてはいない。
昼の光が結び目に淡く差し、新しい絹紐が、理一郎の後ろ姿にすっと馴染んでいった。
制作環境:ChatGPT
校正協力:Claude
第三話|エンディング
※EDは雰囲気づけのおまけです。
おまけのついでに転がり落ちてきた、異界譚はこちら。