理玄異聞録 第3話「朧紗」|第7章 絹紐 ―― 結び直す

理玄異聞録 第3話「朧紗」|第6章 十二層 ――名が落ちる

戸の向こうで足音が止まった。
板戸を叩く音が、控えめに二つ。

「観記掛さん、おいでやろか」

理一郎は筆を止め、硯の縁を見た。墨はもう落ち着いている。

「どうぞ」

理一郎が短く告げると、戸が引かれ、本館の職員が姿を見せた。
手には、あの布を包んでいた風呂敷があった。

卓の上には、布が畳まれたまま置かれている。
脇には、布見本から抜き取った布や紙を綴じたもの。
そして、全十二層――凡そ半日をかけて変わる布の挙動を記した帳面。
布の顔を簡潔に整理した表も一枚、添えてあった。

職員は風呂敷を広げ、まず布を受け取った。
折り目が、ゆっくり落ち着く。

そのあと布見本と帳面を受け取り、表の字を眺めた。

「……ようまとめてもろて、ほんま助かりましたわ」

面の上を目で追い、『危険性なし』の行で指が止まる。
次ので、職員の口の端が少し動いた。

「手袋推奨……て。笑うとこやないのに、正直ありがたいどす」

異紀は静かに頷き、理一郎が落ち着いた声で応じた。

「触れているあいだ、危うい兆しは一度も出ていません。ただ、見た目と触感が食い違う刻があります。……驚く者がおれば手袋を、というふうに」

「棚卸しのとき、皆、そこが一番怖がりよるんです。『危ない』やなくて、『気持ちが悪い』言うて。どう扱うたらええんか……正直、皆よう分からなんだんです」

紙面をなでるように見つめながら、職員は小さく声を漏らした。

「触り心地が変わる順まで、見本つきで書いてもろて。これだけあれば『どういうもんか』分かります。お墨つき、言うたら大げさですけど……気持ちはだいぶ違いますわ」

言葉が、まっすぐ落ちる。

「……それで、十分でしょう」

理一郎の言葉に、職員は小さく頷いて、帳面と布見本綴の端を揃えた。
そして、改めて書面を見つめると、すっと顔を上げた。

「この、字。……これ、久遠さんが書いてはるんどすか」

異紀は肩を竦めるだけだった。

「わしが書いた。整えただけやき」

「整えた、だけて。……ほんま、ええ字ですな。読みやすい。癖がない。それでいて、骨がある……」

感嘆の息が漏れる。
字を読む目から、字を観る目に、いつの間にか変わっていた。

「……前に、清書が得意な者がおったんですけど、辞めはりましてね。ちょっとした文や、上に回す報告書、頼む口がなくなりましてな……」

言い終えるころには、声の端に頼みごとの形が滲んでいた。

異紀はその視線を受けとめ、机の縁に指を置いたまま、軽く笑う。

「……都合の合う刻なら、手ぇ貸すよ。急ぎだけ先に言うてくれたら、そっちから取り掛かるき」

職員は、安堵の息を抜いた。

「おおきに……。ほんまに」

朱が紙に沈む。
受領の印が、静かに落ちた。

その手つきが、先ほどより少し柔らかい。

それでも、去り際に職員は一度だけ足を止めた。
言おうか迷って、結局言ってしまう顔で。

「……ほんまのこと言いますとね。これまで、心臓とか眼球とか、そういうのばっかりで」

声が、ほんの少しだけ低くなる。

「ただでさえ死人の身体は、よう触りとうないもんですわ。そこに『脈動あり』なんて書かれてた日には……。ここ持ってくるの、皆ちょっと怖かったんです」

職員は自分の言い方を恥じるように、目を伏せた。
笑おうとして諦めたような表情が落ちる。

理一郎は表情を変えず、言葉を落とした。

「動かぬものの扱いには慣れています。……気にされることはありません」

異紀も、筆を置いたまま、肩をすっとゆるめた。

「わしも、まあ……今更やきね」

その二言に、職員は思わず息を吸いなおした。
観記掛の部屋に、急に血が通うのを見たような気配だった。

「……ほな。持って帰りますえ。また、よろしくお願いします」

風呂敷を抱え直し、深く一礼して戸口へ下がる。
木目が静かに重なり、廊下へ去る足音が、遠くへ薄れていった。

戸が閉まる音が沈んでいき、廊下の足音が、こつ、こつ、と数歩響いた。
それもやがて、建物のどこかへ溶けてゆく。

静けさが戻ったところで、理一郎は机の上の布見本綴に視線を落とした。
端がわずかに浮いている。

ふと、それだけではない違和に気づいた。

「……久遠」

理一郎は布見本綴の端を軽く押さえながら言った。

「この見本の代価、どう扱っている」

異紀は、筆の軸を指で弄びながら顔をこちらに向けた。

「いらんって、言われたき」

あっさりした声だった。

理一郎の指が、綴の端で硬くなる。
ひと息置から、言った。

「向こうに手間を掛けている。形は返せ。……余計な借りは、残すな」

「借り?……ああ」

異紀は、薄く笑った。

「書を渡したら、それでえいって」

理一郎の手が止まった。

「……書?」

異紀は机の端の薄い紙束を、顎で示した。
白が深い上質紙。

「話をつけに行ったついでに渡したら、それでえいって。むしろ、お釣り来たで」

「……釣り?」

理一郎の眉が、わずかに動いた。

異紀は、理一郎の手元の布見本へと視線を落とす。

「……細いもんが、ちいと」

「お前、そもそも。どういう繋がりだ。骨董屋と」

「気分が乗った時だけでえいき、書けたら持ってきてくれって」

筆先で空をなぞりながら言う。

「紙も貰える。……えい小遣いになる」

つと、白い紙へ一息に筆を走らせていた景色が脳裏に浮かぶ。

「……いつだったか、朝方、筆を執っていたな」

「ああ、あれ?」

異紀は軽く笑う。

「えい語が浮かんだき、試しに書いちょっただけ」

理一郎は短く息を整えた。

「朧紗、だったか」

異紀が思い出すように宙に視線をやった。

「そうそう。帳面に綿(わた)で落としたやつ。ふわっとしちょったろ?」

理一郎の息が、そこで止まった。

朧紗。
綿(わた)。
ふわっと。

脳裏で、それぞれの質感がゆるく繋がった。

「……待て」

自然と声が低くなる。

「まさか。あの『ふわふわ』か」

異紀は、何の抵抗もなく頷いた。

「うん。古物商に渡したのもそれや」

理一郎は額に手を当てた。
押したところから、ゆっくり息が漏れる。

「よりによって……」

「喜んじょったよ?『配がえい』って」

理一郎は机を指で、とん、と叩いた。

「……やめろ。取り返してこい」

「え?」

異紀が笑いをこらえた声を漏らす。

「今さら? もうどこぞの床の間で、えい顔しちゅう頃やない?」

「知らん」

理一郎は淡々と言う。

「俺の口から出た『ふわふわ』が、ありがたい書物みたいな顔で世に出回るなど、……始末が悪い」

異紀は目でふっと笑った。

「でも、誰も『ふわふわ』とは思わんき。それらしい顔で読んでくれる。 気にせんでえい 」

「余計にまずい」

理一郎の目が細くなる。

「中身がふわふわのまま、格好だけ整えた標本が一番たちが悪い」

「でも、その格好つけたの、志岐さんやきね」

「……どこが」

理一郎は横目で異紀を見た。
異紀は筆を筆立てに戻してから、さらりと言った。

「最初に『ふわふわ』言うた人」

その声が、静かに刺さった。

「わしは、それに字ぇ当てただけやき」

理一郎の喉が詰まる。

「……次からは」

短く息を吸う。

「不用意な比喩は、記録には残さん」

異紀は涼しく返した。

「ほいたら、言わんように気いつけや。聞いた瞬間に、わしが残す」

にこり、とした笑いが添えられる。

「また、えい小遣いになるき」

「久遠」

「はいはい。次はもう少し、志岐さんが恥ずかしゅうない字にしちょくき」

「そういう問題じゃない」

そう言いながらも、理一郎はそれ以上追及せず、帳面を開き直した。
頁の白さが、まだどこか朧に見えていた。

昼の光が、紙の端でひとつ揺れた。
その余白の端へ、別の気配が静かに寄った。

軽く握られ拳が、理一郎の前へ差し出されていた。
影が、机の白に落ちる。

言葉はない。

理一郎の視線が、その手と異紀の横顔のあいだで揺れた。

(……何や)

気づけば、手が上向きに開いていた。

異紀の手がほどけ、細い紐が静かに落ちた。
真っ先に指先がその感触を拾う。

「……絹だな」

指の腹を抜ける、薄いすべり。
見本帳を何度もめくった手が、覚えている質感だった。
撚りの光り方に、見本に添えられていた糸束の気配が、かすかに残っていた。

理一郎の手におかれたのは、平たい組みの絹の髪紐だった。

撚りは均一で、面が広く、指に吸いつくように温かい。
面はきれいに揃っている。けれど、揃いの品にある隙のなさとは、少し違う。

折り返しの癖がわずかに残り、撚りの並びには、ひとりの手で追ったような静かなむらがあった。
房は短くまとめられ、手に沿う仕上がりで、「道具」としての形が整っている。

ただ、その整い方の奥に、見覚えのない組み筋がひとつ、指先へ残った。

理一郎の視線が、紐から異紀へ移る。

(どういうつもりや)

声にならない揺れが、目の奥に一つ立つ。

異紀はその視線を受けたまま、顎を動かす。

「それ、もう、繊維の束やろ」

指しているのは理一郎の髪を結ぶ古い紐。
長く使われたせいで、痩せ、ねじれ、糸のまとまりに近い。

不意に、結ってある自分の髪に触れられたような気がした。

理一郎は短く返した。

「まだ、使える」

異紀は軽く笑うでもなく、理一郎の手のひらに沈む髪紐を、見ていた。

「……なら、替えとして持っとき。あっても邪魔にはならんき」

理一郎の指が、無意識に後ろへ回った。
結い目を撫でた瞬間——痩せた紐がわずかに沈み、結い位置がふっと下がった。

襟足へ、一房だけ髪が落ちる。
指が止まる。

異紀が、片眉をわずかに持ち上げた。

理一郎は、直すつもりで結い目へ指を差し入れる。
古い紐が、するりと解けた。

(直すだけや)

けれど、結い直す手の中にあったのは、異紀から受け取った絹の紐だった。

絹は軽い。
締めても重さを引かない。
結び目が、きゅ、と定まる。

襟足が、すとんと落ち着いた。
理一郎は息をひとつ吐く。

「……悪くはないな」

独り言のように、小さく落とした。

古い紐は、いつもの癖で、軽く纏めて袖の中に入れた。
触れた指先は、もうその紐を「次に結ぶ形」を思い描いてはいない。

昼の光が結び目に淡く差し、新しい絹紐が、理一郎の後ろ姿にすっと馴染んでいった。


制作環境:ChatGPT
校正協力:Claude

第三話|エンディング
※EDは雰囲気づけのおまけです。
おまけのついでに転がり落ちてきた、異界譚はこちら