理玄異聞録 第3話「朧紗」|第3章 綿層 ――漏れる

理玄異聞録 第3話「朧紗」|第2章 布目 ――軋む

午後。

理一郎は、午前と同じ手順で指を下ろした。
置いて、数えて、二寸ぶん滑らせる。

指先の下で、細かい粒をまとめたようなざらつきが立った。
撫でたあとで手を離す。
掌をひっくり返しても、何も付いていない。
それでも、右手が自然と「払う」動きをした。

異紀が、帳面の向こうからその仕草を拾った。

「……粉やね」

声が、紙の向こうからこちら側へ寄ってくる。
顔は紙に向いたまま、目が、振られたばかりの指のあたりを一度なぞる。

理一郎の目が、遅れて自分の右手へ落ちた。

(見られちょったか)

「付着は無い」

条件のほうを先に立てる。

「指の方が、勝手に逃がしよる」

異紀は、墨を含ませたばかりの筆先で、紙の端をちょんと突くまねをした。

「……さらさら?」

その二音を、軽く上げた。

「《さらさら》とは呼ばん」

理一郎は布から目を外さずに切った。

「ほいたら、《しゃりしゃり》?」

「米やない。音は立たん。織り目の上で、指が細かく止まるだけや」

間髪入れずに切ってから、理一郎は内心舌を打った。

異紀は考える風にして小首を傾げた。

「——《ざりざり》まで行ったら、さすがに書けるろうかね」

「その辺は、砂の標本にでも回せ」

そこでようやく、理一郎は視線を異紀に向ける。

「《さらさら》でも、《しゃりしゃり》でも、《ざりざり》でもない。音を立て札にしたら、そこから先が全部、遊びになる」

異紀は「遊び」という言葉に、口の端で笑った。

「ま、今んところ――」

筆先が、空の欄の上ですべっていく。

「《さらさら》、《しゃりしゃり》、《ざりざり》、の三候補か」

ため息まじりに一拍置いて、

「……粉三昧やねぇ」

と落とした。

理一郎の手が、布の端の上でぴたりと止まる。

「……音も三昧も要らん」

異紀の指先が、紙の端をとん、と叩く。

「ほいたら、《粉まつり》」

「祭も要らん」

即座に返した自分に、また内側で小さく舌打ちを飲む。

「《粉尽くし》」

「尽くしも、だ」

ここまで来ると、もう止まらない。
異紀は筆をくるりと回し、まっすぐ続けた。

「ほいたら、いっそ粉は抜いちょこうか。帳面、すっと見通せるで」

「粉は外さなくていい」

理一郎は、声を低くした。

「そこまで外したら、今日の分は紙しか積まれん」

異紀の肩が揺れた。

「紙の重さも、記録やきねえ」

そう言い添えて、ようやく筆先を事象欄へ戻す。
墨の線は真面目に整い、その端で口元の笑いがまだくすぶっていた。

「順番を先に書け。付着無し。……触った側に、粉っぽい感触が残る」

「《感》はまた外で括っとくがやろ?」

「当然だ」

「なら――」

異紀は素直に筆先の向きを変え、「付着無し」と行を埋めていく。
墨がすっと伸びて、欄の端で止まった。

「ちゃんと書くほうには、『粉気あり』くらいにしといたるき」

「《気》も、外括弧だ」

「わかった。外で震わせちょく」

そう言い置いて、異紀の目線はまた帳面へ沈んだ。
理一郎はそれ以上何も言わず、布の端へ指を戻す。

(……もう一言も乗らん)

そう決めたものの、先ほどのやり取りが、指先のざらつきと同じところに、薄く残っていた。

懐中時計の短針が、二と三のあいだを三寄りに指していた。
高窓からの光が、紅を平たく撫でる。

理一郎は、先ほどと同じ角へ指を戻した。
置いて、数えて、二寸ぶん滑らせる。

——不意に、指先の下で、織り目の粒がいったんほどけた。

代わりに、布の下で、織り目の上に薄く綿を敷いたような層が、ふっと浮く。
押し返してくる力は弱い。
丸くて、空気を含んだ手応えが、指の腹に残った。

(……なんや、これ)

指を離す。
手のひらをひっくり返しても、やはり何も付いていない。

それでも、これまでの粒立ちとは違う「やわさ」が、皮膚の内側に残っていた。

「……ふわ——」

喉の奥で零れた音に、自分で気づいたのは、その一拍あとだった。

(……言うた)

胸の奥が、ほんのわずか冷える。
言葉を引き返すには、遅すぎる。

異紀の筆が、その隙を逃さなかった。
帳面の上で墨が小さく走り、事象欄の端に、迷いなく字が立った。

『ふわふわ』

「……書くな」

理一郎は、異紀を一瞥し、声低く制した。
異紀の口の端が、わずかに揺れた。

「ほいたら、言うなや」

筆先で『ふわふわ』の横をちょん、と突く。

「観る人が先に口に出したら、帳面のほうも耳立てるき」

「……名札には据えるな」

理一郎が刺すように言う。

異紀は黙って、筆先をすっと動かした。
書いたばかりの二文字のうしろに、小さく括弧が足される。

『ふわふわ(仮)』

「……《仮》付けたら済むいう話やない」

理一郎は、ため息ともつかない息を一つ、喉の奥でほどいた。

「その二文字ごと、帳面の外に出しておけ」

異紀は「外」というところで、喉の奥でくくっと笑いかける。
今度は笑いを飲み込まず、そのまま筆を持ち替えた。

「外回し、ね」

筆先が『ふわふわ(仮)』の下をかすめた。
二文字の下に、細い横線がすっと敷かれる。
少し離れた余白に、小さく『※外』と添えられた。

「……きょうの分、それで埋められるのは御免だ」

理一郎はぼそりと付け足した。

異紀が、帳面のほうを見たまま、軽く笑うように言った。

「墨の減りは、だいぶ抑えられるがね」

筆先を宙で止めて、視線を理一郎のほうへ流した。

「代わりに、ため息が増えるき」

「ため息を書く欄は無い」

言い終えてから、胸の底で身じろぎした。
乗せられたと悟るのが、半拍遅い。

異紀は肩で笑って、筆先を軽く持ち直した。
下線を引かれた二文字のとなりには、それまでに埋めた数字と条件が、きちんと揃って並んでいる。
墨の線は静かに乾いていくが、その端で、細い横線と『※外』の小さな印が、まだじんわりと目に残った。

理一郎は、その印を一瞥して、布のほうへ視線を戻した。

(これ以上、音を口に乗せたら、また拾われる)

息をひとつ整え、同じ角へ、指を下ろした。

気がつけばとうに四時を越えていた。
理一郎は、布を整え直す。
音を拾われた角から一息置き、縁より半分ほど内側の折り目を取る。

指を置き、短く数える。
ひとつ。ふたつ。

二寸ぶん、一定の速さで滑らせる。
指の腹の下で、織り目の頂きが一度揃って浮いた。
細い格子の枠が、まとめて指を受ける。

つい先ほどまで指を逃がしていたやわらかいふくらみよりも、組んだ筋のほうが前に出る。

(……さっきとは、筋が違う)

沈み方と止まり方の筋をなぞる前に、先に名のほうが喉へ上がってきた。

「ガーゼ……いや、密度が違う」

自分で漏らした名に応じるように、指先へ意識を戻す。

「……筋が途中で受ける」

ぼそりと口にしてから、もう一度、今度は少し圧を増やし、速さを落としてなぞる。

「逃げる余地が少ない代わりに、戻りが早い」

言いながら、自分の手の記憶のどこかを探るように、同じ場所を往復する。
覚えのある止まり方が、奥でざわついた。

「段の高低が浅い。山と谷の角が立たん。糸のあいだに含んでいる空気も浅うて、押した端から下がすぐ当たる」

喉の奥で、先に出した名をいったん飲み込む。
医理院の手術場で扱ったガーゼは、もっと粗い。

「……圧定に耐えるよう寄せた布やき、手触りも揃う」

押せば角が順番に当たって、滑らせれば段差が「とん、とん」と拾える。
ここには、その一拍ごとの段差がない。

短く息を落として、指をいったん離した。
掌を返しても、やはり何も付いていない。

向きを変え、今度は織り目を横切るように滑らせる。
同じ速さで、布の上をゆっくりなぞった。

表の糸が一度、ざらりと逆立ちかける。
その下で、別の層が均一に受け止めている気配がある。

押し込んだ瞬間と最後まで、抵抗はほとんど変わらない。

(……どこかで、あとからざらつきが出るはずの手触りやったかと思たが)

ふと、別の名が頭をかすめる。

「リントの手触りだったら——」

指を滑らせたまま、低く続けた。

「リントだったら、織り目削った細かい繊維が、指に絡んで離れん。 押いたところから綿が浮いて、時間置くほど指の腹がざらついてくる」

目の端で、異紀の筆が半拍ほど遅れて追いかけてくる気配があった。
指の腹を止め、そのまま数呼吸、待つ。

何も増えない。
最初に感じた引っかかりのまま。抵抗の強さはずっと揃っている。
押している間も、離したあとも、指に乗るざらつきは、薄い一枚のままだ。

ただ奥の筋が冷たく締まっている。

「——それが、出てこない」

布の上に置いた手を、引き上げる。
同じ条件で触れているのに、指の内側に残る像は、どちらの布にも寄っていかない。

「ガーゼにも、リントにも——今の像は寄りきらん。どっちの名札にも、今の手応えは素直に並ばん。」

口に出したところで、筆の音がふっと途切れた。

異紀の筆先が、「初圧」の行に降りかけては、「時間変化」の方へとわずかに逃げる。

「……《時間を置いても、ざらつきが増えん》」

異紀が拾い上げ、筆が紙をなぞる。
行の白さが、ひと呼吸ぶん伸びる。

「そこは『時間変化』の行だ」

理一郎は、異紀の方に目をやった。

「置く前と後で変わらん。それだけ書け」

異紀は小さく「あい」と返し、『時間変化』の欄の頭に筆を置いた。
行と行のあいだで揺れていた筆先が、今度は迷いなく紙の上を走る。

『指腹抵抗前後で差なし』と細く記し、墨の筋をひとつ増やした。

理一郎は、その隙に、先ほど感じた冷たい芯を思い描く。
表の綿(めん)のような層の下で、もう一段締まった筋が、まっすぐ受け止めていた。

(……綿やない。麻か、その手の類やろう)

そこまでは、内側で言葉になる。
けれど、断じるには、まだ手元の記憶が足りなかった。

「……見本が要るな」

区切るように、ぽつりと言う。

異紀が顔を上げた。
筆先は紙の上で待たせたまま、目がこちらへ向く。

「療治の筋から揃うかね?」

「いや」

理一郎は、布の下にいた芯を指先に思い出す。

「今出た名は、記憶の札や。そこへ寄せると手が狂う」

そこで一拍おいて、視線を布へ戻した。

「——見たいのは、その逆や。この布のほうから辿れる標準が要る」

異紀の口の端が、少し上がった。

「ほいたら、布んほうの帳面やねえ」

そう言って、帳面の隅に筆を運ぶ。
小さく『見本要請』と一行書き入れる。

「布も紙も扱いゆう古物商に、一軒あてがあるき。必要そうなもんは、そこから見本を回してもろうちゃおう」

その言葉に、理一郎のまぶたが動いた。
朝方見かけた机の白が、ふと脳裏をかすめる。

(……布も、紙も)

胸の奥でそうなぞって、欄外の字を横目に拾った。

「……任せる」

紅の上に指を置き直す。

見本が揃うまで、名は置かん。
そう胸の内で線を引いた。

懐中時計の短針が、いつの間にか五へ寄っていた。
高窓の光はまだ残っているのに、机の白がわずかに沈んで見える。

「……今日は、ここまでにしよう」

理一郎は観測台の前で言い、布から指を離した。

台の脇へ手を伸ばす。
畳んで置いてあった薄い木綿をほどく。
白がふわりと開いて、乾いた綿の匂いが一度立った。
紅の上へ、白布を落とす。

下の花の並びが、かろうじて透ける薄さ。
四隅に小さな重しをひとつずつ置き、端が浮かないのを確かめる。

更紗は、黙したまま木綿の下で眠っている。

異紀は椅子に腰を掛けたまま、最後の行をゆっくりと埋めていた。

「とりあえず――」

筆先が、行頭に小さく触れる。

「『時刻によって、触りの筋に変化あり』。『ただし、出方は今のところ揃わん』。こんなところかね」

読み上げる声は淡々としている。
墨の線は、紙の白を押し広げるように伸びた。

「怪我も、痺れも出でいない」

理一郎は、観測台から机の前へ移りながら続けた。

「触れた手に異常はなし。今のところは、危険兆候は見当たらん」

「ほんなら、《現時点で外傷所見なし》で一行足しちょこう」

異紀は筆を少し持ち上げて、欄の端に細い字を滑らせた。

『外傷所見なし』。
墨が沈む間に、紙がうっすらと反る。

理一郎は紙束を一枚めくり、今日増えた頁の厚みを指でなぞった。
時刻ごとに刻まれた短い行が、まだ粗い縞のまま縦に伸びている。

「触感が変わる時刻も、決まりきらん」

視線で線を追いながら、小さく言葉を落とす。

「同じ刻限で同じ筋に乗るとは限らん。もう少し、刻みを増やす必要があるな」

帳面の上で筆が一度止まる。

「ほいたら、三十分ごとに、一遍触れてみよか」

「……それで見ておいてくれ」

異紀は筆を硯に戻し、乾きかけの墨の色を、指先で確かめた。
そのまま顔を理一郎のほうへ向ける。

「見本の段取りやけんど」

「……ああ」

「明日の昼にでも、一回、向こうに当たってみよか。織りも紙も、まとめて頼んでみる」

理一郎は少し考えるように目を伏せた。

「……お前のほうが、通りがいい」

顔を上げ、続ける。

「手の空いたときでいい。向こうへ当たってみてくれ」

「ほいたら、明日、様子見て寄ってみる」

異紀はそう言って立ち上がった。
椅子の脚が板を擦る音が、低く鳴った。

「見本が揃うまでは、こっちはこっちで触るしかないきね」

「半月なり一月なり、観測は続ける」

理一郎は、懐中時計を閉じた。
金属の蓋が噛み合う。

観測室の空気は、日の高い時分よりも冷えていたが、身を縮めるほどではない。

異紀は戸口へ向かい、戸板に指を添えた。
木戸が開くと、廊下の薄い明るさが一筋滑り込む。

足音は板張りの向こうへ吸われ、分館はまた静かになった。

理一郎は戸を引き寄せ、鍵を回す。
金具が小さく噛む音がした。

鍵を帯へ戻し、観測室をあとにする。
掛け布の白さが、夕方の光の中に四角く残っていた。