初めての方へ
『理玄異聞録』は、測る者と写す者が、怪異を静かに記録していく近代幻想です。
志岐理一郎は、形を測る標本医。
久遠異紀は、声を写す書記官。
第五話「胡聲」は、単独の怪異案件としても読めます。
黒漆の二胡が、女の声で鳴った。
弦が震え、息が立ち、
その奥に、別の声音が混じりはじめる。
記録すべきものが増えるほど、
紙の外に置けないものも増えていく。
——声は、箱の内に残る。
されど、其の名はどこにも置かれない。
第5話|オープニングテーマ
京洛でも古い家柄の華族の屋敷だった。
応接間は、手入れが行き届いていた。
床の間、調度、掛物の位置までが、自然と目に入る。
壁際に、ひとつ異国の品が置かれていた。
細く長い棹。
黒く艶を残した胴。
縁に精緻に施された細工は、遠目にも目を引く。
客人の視線が、そこに留まる。
「……あれは」
主人が振り返った。
「ああ。澄国渡りの二胡です。先代の頃に入ったものでしてな。意匠が見事でございますので、こうして応接に置いております」
客人はゆっくり立ち上がり、二胡の前へ寄る。
棹の細工を、目でなぞった。
「……長く、鳴らされておりませんな」
主人の眉が一筋上がる。それから、小さく笑った。
「ええ。音を知る者もおりませぬで」
客人は一拍間を置いてから言った。
「少し、手に取ってもよろしいか」
「願ってもない。どうぞ」
主人が頷く。
控えていた家令が一歩進み、二胡のそばに台を寄せる。
薄く掛けられていた布を外し、弓を添えた。
部屋の隅に控えていた女中が、音もなく姿勢を正す。
客人は二胡を抱えた。
最初の一音は、ひどく細かった。
乾いた弦が、長い眠りから覚めるように震える。
擦れたものが細く立ち、ほどけた。
二度、三度。
短く確かめるように弓を動かす。
そのたびに、部屋の空気が、次第に重くなる。
女中は息を詰め、動かなかった。
客人は、そのまま弓を止めずに、今度は少し長く引いた。
音が、一本に伸びる。
途切れずに続く、その途中で――
音の表に、歪みが混じった。
主人が、顔を上げる。
弦が鳴っているはずなのに、すぐそばで誰かが息をしたように聞こえる。
喉の奥に触れるような、湿りを帯びた気配。
客人の手は止まらない。
もう一度、同じ長さで引く。
今度ははっきりと、それが混じった。
声だった。
まだ音に寄り添う程度の、薄い重なり。
けれど、弦とは別に、息の湿りが耳に残った。
家令の指が、弓の動きに合わせてひくりと動いた。
客人は、弓を返した。
今度は、少し節を持たせる。
音が上がり、落ちる。
その間に、声がついてくる。
弦が鳴っているのか、誰かがその場で息をしているのか、境が曖昧になる。
女中が、思わず視線を床へ落とす。
客人の手が、心なしか力を失う。
それでも、もう一度、弓を引いた。
音が、途切れずに続く。
その上に、今度ははっきりと声が乗った。
女の声だった。
遠くからではない。
すぐそこ、弦の内側から、こちらへ向けて吐かれるような声。
言葉にはならない。
けれど、節がある。
呼吸がある。
ここで、誰かが歌っていた。
客人の手が止まる。
音が途切れる。
そのあと、半拍遅れて、声が耳に残った。
誰も動かない。
主人が、ゆっくりと口を開く。
「……いまのは」
客人は、答えない。
ただ、二胡を見下ろしたまま、静かに弓を置いた。
「これは――」
その先の言葉は、続かなかった。
障子の向こうで、風もないのに、紙が一枚音を立てた。
理玄異聞録 第5話「胡聲」|第2章 分館昼景 ――声、預かる
制作環境:ChatGPT5.1-5.5
校正協力:Claude Sunnet4.6