さらに数日後。
昼の光が、観測室の床へ浅く伸びていた。
窓は半ば開けてある。
湿りを含んだ風に、白布の端が浮いた。
理一郎は二胡を膝に置いた。
異紀は机の横に立ち、帳面を開いている。
「中で保つ。返りは残す」
異紀の声は低い。
奏者ではなく、書く側の声だった。
理一郎は短く頷いた。
弓が入る。
音は立った。
細く、硬く、まだ理一郎の手の癖を残した音だった。
けれど、保たれるうちに、その奥へ別のものが差した。
女声が立つ。
異紀の筆が止まった。
理一郎もすぐには動かない。
二胡の胴から、声が立ち上がった。
誰のものでもない女の声だった。
返りに入る。
声は崩れず、弦へ戻った。
理一郎は弓を止めた。
音が消えてから、部屋がようやく息をした。
異紀は筆を取った。
『奏者乙、中保・返りあり。女声成立。奏者乙声音への近接を認めず、返りにおいても女声のまま収まる。』
それ以上は書かない。
墨が乾くまで、行の上に間が落ちた。
異紀が、目を伏せたまま言う。
「器の方には、まだおるね」
理一郎の声は短い。
「そうだな」
声はそこで落ちた。
その日から、観測の手順が変わった。
奏者乙による再試奏。
短保。
中保。
返り短。
返り長。
必要な条件をなぞる。
異紀は書く。
理一郎は鳴らす。
帳面の上では、かつての甲といまの乙が並んだ。
その名はどこにも出ない。
最後の条件へ届いたのは、それからさらに少し後だった。
返りを長く取る。
以前、奏者甲の声音へ強く寄った条件だった。
理一郎の弓が入る。
女声は立った。
保たれる。
返りへ入る。
二胡は、女の声で鳴っていた。
けれど、その奥に理一郎の声はない。
異紀の筆が、一拍、紙から浮いた。
理一郎は弓を止める。
音が消える。
消えたあとも、観測室には薄い膜のようなものが残った。
それはすぐ、風にほどけた。
異紀が帳面へ書く。
『奏者乙、返り長。女声成立。返りにおいても奏者乙声音への近接を認めず。奏者甲にて認めた声音近接は、本条件下の奏者乙において再現せず。』
理一郎はその一行を見た。
視線は行端に留まった。
異紀は続ける。
『同条件、反復。女声成立。前段同様、奏者乙声音への近接なし。女声にて収まる。』
筆が止まった。
二胡は膝の上で、ただの器物の形をしている。
木と皮と弦。
その内側に、声が戻りそこねたように沈んでいた。
理一郎は弓を置いた。
「もう一度」
異紀は顔を上げる。
理一郎は二胡を見たまま言った。
「返りを少し長く取る」
異紀は返事をせず、帳面の余白へ目を落とした。
それから、静かに頷く。
もう一度、弓が入る。
女声は立った。
長く返る。
それでも、理一郎へは寄らない。
異紀は今度も、すぐに書いた。
『同条件再試。女声成立。奏者乙声音への近接、なお認めず。』
理一郎は二胡を膝へ伏せた。
弓は動かない。
観測室には、女声の余りが残っている。
窓から入る光は白い。
机の端の白布が、光の中で淡く浮いていた。
異紀の筆が、帳面の上を滑る。
『奏者乙、返り長。女声成立。返りにおいても奏者乙声音への近接を認めず。奏者甲にて認めた声音近接は、本条件下の奏者乙において再現せず。』
墨は濃い。
行の端に、細い艶が残っている。
理一郎は少し離れたところで、二胡を伏せたまま動かなかった。
女声は、弦へ戻って消えた。
その奥に、理一郎の声音はなかった。
異紀が弾いていた頃、女声の奥でふと掠めた声音も、ここにはない。
理一郎の指が、弓の上で止まる。
異紀は筆を置いた。
紙の上を渡った手は、もう弓の形をしていない。
つと、理一郎の手元に影が差した。
「……最後に、一遍だけ」
声が落ちてくる。
理一郎の目が上がった。
いつのまにか、異紀が脇に立っていた。
異紀は二胡を見ている。
声はいつもの調子に近い。
けれど、軽くはなかった。
「わしの手でも、納めちょきたい」
理一郎はすぐには答えなかった。
二胡は、まだ理一郎の膝にある。
黒い胴と、細い棹。
弦は鳴らないまま、薄く光っていた。
声を持つ前の、ただの器物の顔をしていた。
異紀の目が、二胡から離れない。
自分から離れた声の端を、もう一度たどろうとしている目だった。
「一度だけだ」
「うん」
「長く引くな」
「分かっちゅう」
「手が遅れたら、そこで終いだ」
異紀のまぶたが、ほんの少し下がった。
「わしが言う前に、止める顔しちゅう」
理一郎は返さなかった。
二胡を渡す。
異紀の手が棹を受ける。
膝に置く角度。
弓を入れる前の指の収まり。
肩の落ち方。
どれも、以前と変わらない。
異紀が息をひとつ置く。
弓が入った。
音はすぐに立つ。
理一郎の音とは違った。
弦へ入る前から、音が通る場所を知っている。
薄くも硬くもない。手の迷いもない。
保たれるうちに、喉が生まれた。
女声だった。
観測室の空気が、わずかに湿る。
二胡の胴の内で、誰のものでもない声が細く伸びていく。
理一郎の目は、異紀から離れなかった。
異紀の姿勢は崩れない。
弓が、返りへ入った。
声は女声のまま、弦へ戻る。
異紀の声にはならなかった。
理一郎の眉が、かすかに寄る。
窓の外で、葉が一枚揺れた。
異紀は弓を止めた。
音が消える。
しばらく、二人とも動かなかった。
異紀は二胡を膝に置いたまま、まぶたを伏せている。
息は落ち着いている。
軸もぶれていない。
あの書庫で見た色はない。
観測室の寝台に残っていた薄さも、今は退いている。
指先が、棹の上で遅れて止まった。
やがて異紀は弓を置き、観測席へ戻った。
筆を取る。
『奏者甲、所定条件一巡。女声成立。奏者本人声音への近接を認めず、返りにおいても女声のまま収まる。』
筆は迷わなかった。
条件と結果が、紙へ落ちていく。
理一郎は、二胡の胴へ目を落としていた。
閉じられるだけの音は、もう聞いた。
けれど、喉の奥に硬いものが残る。
同じ人間が弾いている。
同じ楽器が鳴っている。
以前は寄った。
今は寄らない。
机の端で、乾きかけた墨が鈍く光っている。
異紀は墨の艶が引くのを待ってから、顔を上げた。
「……志岐さん」
理一郎は目を上げる。
「そんなに気になるんやったら」
そこで一拍置く。
「また弾いちゃるで」
声は淡い。
冗談にもできる言い方だった。
けれど、その目は逃げていない。
「もう、前みたいに持っていかれん」
異紀は静かに言った。
「喉も、息も、こっちにあるき」
帳面には、まだ余白がある。
もう一度鳴らせば、そこへ一行足せる。
二胡の胴に残る、熱。
帳面の上で乾きかけている墨の黒。
異紀の手の甲に戻った血色。
どれも、今ここにある。
けれど、その奥から、寝台の白が戻ってくる。
水差しの冷たさ。
小皿に伏せた黒文字。
薄い桃の皮。
その匂いが、ふいに近くなる。
余白はあった。
しかし、そこに置かれるのは、筆と墨ではない。
もう一行を取るには、またその手を弓へ戻させることになる。
「……いらん」
声は低く落ちた。
異紀の指が、弓のそばで止まった。
言われる前から応じる癖が、手に残っていた。
呼ばれれば差し出すものだと、身体の奥がまだ覚えている。
けれど、次の命は来なかった。
「記録は揃っている」
理一郎の声は、そこで切れた。
異紀はしばらく理一郎を見ていた。
目の奥にあった張りが、少しずつ退いていく。
「……ここで、終いやね」
異紀は息をひとつ落とした。
帳面の末へ、筆が戻る。
『本器、声様現象ヲ有スルモ、通常保管ニ於テ直チニ害ヲ及ボスモノトハ認メ難シ。弾奏ハ当面差控ヘ、箱内保管ヲ可トス。』
墨の照りが、行の上に残った。
理一郎は二胡を取り上げ、元の箱へ戻した。
金具が、小さく鳴った。
その澄んだ音のあとで、女声の湿りが、観測室の隅から遅れて退いた。
――了――
制作環境:ChatGPT5.1-5.5
校正協力:Claude Sunnet4.6