理玄異聞録 第6話「白余」

二胡の音が遠のいた夏。
白い朝の執務室で、ひとつの休暇申請が登滄の名を呼び戻す。
帰る者と、帰らない者。
紙の上には、まだ描かれていない席があった。

七月も半ばを過ぎた朝だった。

執務室の障子は、端まで引いてある。
風は来ない。

白い光が畳の目に落ち、机の紙を浅く照らしていた。
志岐理一郎は、机の上に残っていた控えを揃えた。
二胡の件は、棚へ戻っている。

女の声は、残った。
久遠異紀の声へ寄る筋だけが、切れた。
箱には注意書きが添えられ、奏者乙の記録も収まっている。
紙と墨の匂いが、暑さの中で薄く立っていた。

弦の音は、もう遠い。
理一郎は紙の端を押さえ、帳面の紐を結び直した。
それから、机の脇に置いていた硬筆を取る。

用向きのない紙を一枚、帳面の下から引き出した。
はじめに写したのは、水差しだった。

硝子の胴を通る白い光と、底に沈んだ小さな気泡。
その横に、硯の縁、文鎮の影、積んだ控えの角が、細い線で加わっていく。
記録へ移すあてもないまま、線はなお形を拾った。

窓際では、異紀が薄い冊子を読んでいた。
足元に積んだ本は、昨日より一冊増えている。
頁を繰る音が、暑さの中で乾いていた。

「……暑いねえ」

異紀が、頁に目を落としたまま言った。
理一郎は冊子の向こうの異紀を見る。

「水でも飲め」

「涼しゅうはならん」

「倒れん程度にはなる」

異紀の口元が、紙の陰でほどける。
理一郎はまた手元へ視線を戻した。

水差しの向こうに、畳の目を数本足す。

しばらくして、異紀は冊子を膝の上へ伏せた。

「……暑気休暇、十日ほどもろてもえい?」

線の途中で、理一郎の手が止まった。

「登滄か」

「うん。父がおるき。町の方やから、港からは遠うない」

理一郎は脇の小暦を見た。

「十日では詰まる」

異紀は、窓の方に目をやった。

「行って、顔見て、戻るだけや」

「盆に休んでない。二週間で出せ」

表紙の端に、異紀の指がかかった。

ややあって、異紀は机上の本の脇から申請書を引き出した。
何も書かれていない欄が、明るく浮く。

「……増えたね」

「船が遅れたら戻れん」

異紀は筆を取り、申請書の隅に日付を入れた。

間が空いた。

「“志岐の家”も、登滄やったね」

「……ああ」

理一郎は手を止めず、硝子の底に影を足した。
その黒が、実物より濃くなる。

「東の方やったろう」

「山寄りや」

「ああ、果ての方やったっけ」

「城下を物差しにするな」

「わしらの方からやと、奥の奥やね」

水差しの底に、もうひと筋黒が重なった。

「……好きに言え」

異紀は居住まいを直した。

「けんど、あそこから江都大学の医科まで行ったがやろ。城下でも、そうおらん」

理一郎は紙へ目を戻した。
描きかけの線の先に、異紀の机の脚が増えている。
その奥は、描かれていない。

「京洛や江都の者でも、簡単に届くところやないき」

理一郎は硬筆を握り直した。
線は、机の縁で途切れた。

「……買いかぶりや」

「そうやろか」

異紀は目を伏せた。

「わしはその頃、京洛の内におったき、外のことはよう知らんかったけど」

「……」

「父が、登滄からえらい所へ出た若い者がおる、言いよった」

理一郎の目は、手元の紙に据わったままだった。

「……俺とは限らん」

「医者だけなら、そうやね」

異紀の声が、落ちた。

「標本医まで入れたら、だいぶ絞れるろう」

「人を標本みたいに分類するな」

「わしは、ようそこまで行ったと思うちゅう」

異紀は、申請書から手を引いた。

「それが志岐さんやったんやねぇ」

硬筆の先が、紙に沈んだ。
異紀の視線が、紙の黒みに留まった。

「……顔、出さんが?」

理一郎は硬筆を置いた。

「正月に帰れば足りる」

異紀はそれ以上、聞かなかった。

窓の外の蝉が、急に近くなった。

理一郎は後ろへ手を回し、髪紐に指をかけた。
絹が、汗ばんだ指の腹に触れる。

うなじに張りついた髪を手櫛で集め、ひとつ分高い位置で結い直した。
湿気を含んだ黒髪が、背中へ落ちる。

異紀の目が、そこへ動いた。

「何や」

「夏は大変やねえ、思うただけ」

「口に出すな」

「まだ半分しか言うてない」

「残りもいらん」

異紀は、宙に字の形をなぞった。

「ほいたら書いちょく?」

理一郎は返事をしなかった。

紐の締まりを確かめた。

素描には、水差しと文鎮、執務室の片隅までが残っている。
窓際の席は、まだ白いままだった。