二胡の音が遠のいた夏。
白い朝の執務室で、ひとつの休暇申請が登滄の名を呼び戻す。
帰る者と、帰らない者。
紙の上には、まだ描かれていない席があった。
七月も半ばを過ぎた朝だった。
執務室の障子は、端まで引いてある。
風は来ない。
白い光が畳の目に落ち、机の紙を浅く照らしていた。
志岐理一郎は、机の上に残っていた控えを揃えた。
二胡の件は、棚へ戻っている。
女の声は、残った。
久遠異紀の声へ寄る筋だけが、切れた。
箱には注意書きが添えられ、奏者乙の記録も収まっている。
紙と墨の匂いが、暑さの中で薄く立っていた。
弦の音は、もう遠い。
理一郎は紙の端を押さえ、帳面の紐を結び直した。
それから、机の脇に置いていた硬筆を取る。
用向きのない紙を一枚、帳面の下から引き出した。
はじめに写したのは、水差しだった。
硝子の胴を通る白い光と、底に沈んだ小さな気泡。
その横に、硯の縁、文鎮の影、積んだ控えの角が、細い線で加わっていく。
記録へ移すあてもないまま、線はなお形を拾った。
窓際では、異紀が薄い冊子を読んでいた。
足元に積んだ本は、昨日より一冊増えている。
頁を繰る音が、暑さの中で乾いていた。
「……暑いねえ」
異紀が、頁に目を落としたまま言った。
理一郎は冊子の向こうの異紀を見る。
「水でも飲め」
「涼しゅうはならん」
「倒れん程度にはなる」
異紀の口元が、紙の陰でほどける。
理一郎はまた手元へ視線を戻した。
水差しの向こうに、畳の目を数本足す。
しばらくして、異紀は冊子を膝の上へ伏せた。
「……暑気休暇、十日ほどもろてもえい?」
線の途中で、理一郎の手が止まった。
「登滄か」
「うん。父がおるき。町の方やから、港からは遠うない」
理一郎は脇の小暦を見た。
「十日では詰まる」
異紀は、窓の方に目をやった。
「行って、顔見て、戻るだけや」
「盆に休んでない。二週間で出せ」
表紙の端に、異紀の指がかかった。
ややあって、異紀は机上の本の脇から申請書を引き出した。
何も書かれていない欄が、明るく浮く。
「……増えたね」
「船が遅れたら戻れん」
異紀は筆を取り、申請書の隅に日付を入れた。
間が空いた。
「“志岐の家”も、登滄やったね」
「……ああ」
理一郎は手を止めず、硝子の底に影を足した。
その黒が、実物より濃くなる。
「東の方やったろう」
「山寄りや」
「ああ、果ての方やったっけ」
「城下を物差しにするな」
「わしらの方からやと、奥の奥やね」
水差しの底に、もうひと筋黒が重なった。
「……好きに言え」
異紀は居住まいを直した。
「けんど、あそこから江都大学の医科まで行ったがやろ。城下でも、そうおらん」
理一郎は紙へ目を戻した。
描きかけの線の先に、異紀の机の脚が増えている。
その奥は、描かれていない。
「京洛や江都の者でも、簡単に届くところやないき」
理一郎は硬筆を握り直した。
線は、机の縁で途切れた。
「……買いかぶりや」
「そうやろか」
異紀は目を伏せた。
「わしはその頃、京洛の内におったき、外のことはよう知らんかったけど」
「……」
「父が、登滄からえらい所へ出た若い者がおる、言いよった」
理一郎の目は、手元の紙に据わったままだった。
「……俺とは限らん」
「医者だけなら、そうやね」
異紀の声が、落ちた。
「標本医まで入れたら、だいぶ絞れるろう」
「人を標本みたいに分類するな」
「わしは、ようそこまで行ったと思うちゅう」
異紀は、申請書から手を引いた。
「それが志岐さんやったんやねぇ」
硬筆の先が、紙に沈んだ。
異紀の視線が、紙の黒みに留まった。
「……顔、出さんが?」
理一郎は硬筆を置いた。
「正月に帰れば足りる」
異紀はそれ以上、聞かなかった。
窓の外の蝉が、急に近くなった。
理一郎は後ろへ手を回し、髪紐に指をかけた。
絹が、汗ばんだ指の腹に触れる。
うなじに張りついた髪を手櫛で集め、ひとつ分高い位置で結い直した。
湿気を含んだ黒髪が、背中へ落ちる。
異紀の目が、そこへ動いた。
「何や」
「夏は大変やねえ、思うただけ」
「口に出すな」
「まだ半分しか言うてない」
「残りもいらん」
異紀は、宙に字の形をなぞった。
「ほいたら書いちょく?」
理一郎は返事をしなかった。
紐の締まりを確かめた。
素描には、水差しと文鎮、執務室の片隅までが残っている。
窓際の席は、まだ白いままだった。