そうしてさらに五日ほど過ぎて――
分館の入口に、古物商の印が押された包みが届いた。
この頃にはもう、ここに現れる層の数も、持つ長さも、巡る順も見えていた。
(——あとは、名を揃えるだけや)
観記室の机の上に、新しい匂いが混じった。
古物商の印が押された裂見本帖が数冊。
その脇に、紙片を荒縄でひとまとめにした束がいくつか。
糸を巻きつけた木片も混じっている。
どれも端を切り取った見本で、札の字は細く、癖があった。
異紀は、布と見本帖とを見比べると、机の縁をとん、と指で叩いた。
「ほいたら……当てていこかね。いま前に来ちゅう層から」
理一郎は返事の代わりに、布のほうへ先に指を置いた。
「……浅く沈んで、離したあとだけ、細い線で熱が遅れる」
それを聞いて、異紀は帳面をめくりながら答えた。
「『残留挙動あり』のやつやね」
何度も同じ書き方で埋めてきた一行だった。
「……紙の方からでええやろ?」
異紀は布見本を脇にどけて、紙の束を理一郎に差し出した。
「名を前提にして渡すな」
口ではそう言いながら、理一郎の指は紙束へと落ちていく。
一番上から、なぞっていく。
遅れ方が似る。が、少し違う。
もう一枚。違う。
布。紙。布。紙。
何度目かで、理一郎の指がぴたりと止まった。
「——これだ」
異紀が、束からその一枚を引き抜いた。
「……香包みに使う和紙やと、札には出ちゅう」
「名はそれに寄せていい。挙動は揃う」
異紀は、長らく空いたままだった特記欄へ筆先を落とした。
『特記:香包紙見本と残留挙動が同傾向』
本筋の記録には手をつけず、対応する見本だけをひっそり括る書き方だった。
墨が紙に沈むあいだ、理一郎は布と紙を見比べた。
層としては、とうに知っている。
帳面の端に名がひとつ足されただけで、その行の重さが増してみえた。
筆が硯の上に置かれる音がした。
◇
同じ日の、少しあと。
層が変わる頃合いを見て、理一郎は布に指を置き、ひと筋送り出した。
触れた瞬間に、あの層だと分かる。
「……『腹の下で、粒が寄ったみたいに細う返る。通り過ぎたら、面に沈む』」
異紀は、その層を書き込んだ頁を開いた。
粒の気配が散った紙面を複数枚選んで、理一郎の方へ寄せる。
どれも軽い散り方をしている。
理一郎は布と紙に交互に触れた。
二枚目の紙で、指がぴたりと止まった。
「……これでいい」
異紀は札を抜き、字を読んだ。
『砂子』
帳面の右端に、また一行増える。
決まるまでが、はやい層だった。
◇
次の層が前へ出てくるまで、また少し時間が空いた。
理一郎は布へ指を落とす。
触れた瞬間に、どの層かはもう分かる。
「……向きを変えたら癖が反転する層や」
異紀はその一言で、迷いなく帳面の該当行を探し当てる。
それから、紙束をゆっくり繰り、三枚ほど選び出して理一郎の前へ置いた。
「このあたりのどれかやと思う」
理一郎は、まず布に触れ、次に手前の紙へ移る。
返る位置が近い。
もう一枚を試す。
皺を逆向きに撫でると、反応が一拍ずれる。
布に触れ、紙へ戻る。
速度も圧も変えない。
二度目の往復で、指がふっと止まった。
「……これが一番揃う」
異紀は指された紙面の札を抜いた。
唐紙、と細い字がある。
帳面の特記欄に、その名を書き添える。
いま決まった紙面を机に残し、あとは脇へ退けた。
層は最初から分かっていた。
迷ったのは、似た紙の並びの中で、どれがもっとも近い挙動を持つかという一点。
決まり方の温度は穏やかで、二人の作業はまた次へ移った。
その日、名がついた層は三つだった。
机の上には、寄せられた紙片が少し増え、見本帖の開き癖が数箇所ついた。
帳面の端が、埋まり始めている。
理一郎は布を畳み直し、指先を一度擦った。
墨の匂いが、古物の紙の匂いに混ざっていった。
◇
見本が届いて三日目。
特記欄が空いたままになった行は、残り二つになっていた。
どちらも、すでに何度も触ってきた層だった。
一つは、現れたときから終わりまで、ほとんど顔を変えなかった層。
押したときの沈み込みは浅く、滑りは終始素直で、抜け際にも余計な遅れが立たない。
もう一つは、そのあと顔を変えた層。
最初は同じ「つるり」としていたはずが、抜け際にぬるりと伸びる層。
指が離れる瞬間に、半拍ぶん追い縋る。
——気づけば、別の顔をしていた二つの層。
欄外の小さな点は、まだそこに残っていた。
ち、という音といっしょにこぼれた、あの日の「比較対象が足りん」が、そのまま紙の端に止まっている。
同じ頁の空白が、墨でなぞられるのを待っていた。
「……ほいたら、残り二つ、片づけていこかね」
異紀が、理一郎の傍らで見本をめくりながら言った。
「詰まりが揃う見本を、何枚か手前に出しちゅう。名は後回しでえいき、滑りを見ちゃり」
この層が出るのはおよそ一時間。
候補となりそうなものに、異紀が予め付箋をつけていた。
「……先に寄せるなとは言うたけどな」
理一郎は小さくぼやきながらも、指を布へ落とした。
一枚目。
指の腹で撫でる。
よく滑る。戻りも早い。
二枚目。
少し軽い。布の重さと合わない。
違う。
三枚目。
厚みと滑りが、布と近い。
撫でても、離れても、面が乱れない。
布へ戻る。
見本へ戻る。
行き来が二度、三度。
理一郎の指が、裂の上でぴたりと止まった。
「……こっちは、これで揃う」
異紀が顔を上げる。
裂見本の端に挟まった札を抜き、字を拾った。
「西陣、紋緞子」
声に出し、札を脇に置いた。
「ほんなら、この欄は、もう決まりやね」
「書け。一致だ」
筆先が墨を含み、紙の上に静かな字が並んでいく。
『特記 西陣 紋緞子(見本一致)』
理一郎は、その一行を見て、小さく頷いた。
この層については、それ以上言うことはない。
その沈黙のまま、帳面の空きが、またひとつ埋まった。
◇
残るは、欄外に黒い点のついた頁だった。
懐中時計の長針が、刻々と進む。
西陣の層が切り替わる頃、異紀が新たに増えた裂見本を整えながら言った。
「同じ筋の布を手前に寄せちゅう。どれもえい手触りやき……あとは最後の一拍まで、どこまで寄るかやね」
「そこを見る」
短くそう落としてから、理一郎は試しに布を撫でた。
沈みは浅い。
滑りも近い。
離れ際に、一拍分、布が残る。
「……ここから、追う」
手前の裂から順に撫でていく。
似るものはある。
滑りも重さも、布と近いものが何枚か並ぶ。
けれど、どの裂も、抜けるときの張り付きが短い。
「どれも紋緞子に近い。だが、見本のどれとも噛み合わん」
異紀の筆が宙で止まる。
硯の縁に、墨が迷うように揺れた。
「ほいたら、ここは、なんて書かす?」
「……仮で置いておけ」
異紀の口元が、緩んだ。
「ふわふわのときは止めろ言うたに」
理一郎は異紀に視線を向けた。
「……あれは、口が滑っただけや」
「残っちゅうもんは、拾いたなるきね」
「拾うな」
異紀は肩をすくめ、帳面に『紋緞子(仮)』とすっと落とした。
理一郎の視線が、その字を射抜く。
そして、再び指を戻した。
布。裂。布。裂。
さきほどと同じ幅で往復する。
抜け際が、やはり半拍ぶん遅れる。
異紀は見本帖の別の頁を開き、札の列をひとつずつ指で送った。
「もう一束、寄せるき」
札に細い字で産地名の入った布見本を何枚か抜いた。
机の端に、新しい列ができる。
理一郎は、手前から順に触れた。
一枚目。
指の腹の下で、面がすぐ静まる。
次。
滑りは揃うが、遅れが出ない。
もう一枚。
出だしは近いのに、抜けるときの張り付きが足りない。
懐中時計の長針が、ひと目盛り、またひと目盛り進んだ。
裂見本の束をひと通り終え、理一郎の指がふっと止まった。
どれも同じ筋の滑りを持ちながら、抜け際が揃わない。
「……ここまで当てても、どれも最後が合わん」
息が、机の上で浅く揺れた。
しばらく布だけを撫でてから、理一郎は、低く言葉を落とした。
「……紋緞子の筋は外れん。 だた、先に揃えた西陣のと比べて、抜け際のぬめりが一拍長い」
異紀の筆が、うなずくように揺れた。
「西陣からちっくと外へ寄せちゅう、言い方やね」
「ああ。——ここまでだ。産地は書き切れん。類似で止めておけ」
異紀は、宙で止めていた筆を持ち直した。
「ほいたら、『類似』で確定しちょくき」
『 (仮)』の字に淡い二重線を引き、その下に整え直す。
『紋緞子 類似(離れ際長)/産地不詳』
墨の匂いが、ひと段濃くなった。
異紀は筆先を軽く払ってから、硯の縁に置いた。
特記欄に、もう空きはない。
欄外の小さな黒い点も、その行の端で、いまはただの粒のように沈んでいる。
「……全部、埋まったねえ」
ひと息分間を置いて、異紀がぽつりとこぼした。
理一郎は、帳面の端を見渡し、うなずいた。
「必要なことは、書いた」
懐中時計の長針が、ひと目盛り進む。
十二の手触りと連なる巡り。
そこに至るまでの無数の頁と、裂見本に紙の束。
長く続いた「見本合わせ」の刻は、ここでようやく区切りを迎えた。
それでも理一郎の指には、一拍ぶんの遅れが、まだ残っていた。