理玄異聞録 第3話「朧紗」|第6章 十二層 ――名が落ちる

理玄異聞録 第3話「朧紗」|第5章 夜番 ――書き足す

そうしてさらに五日ほど過ぎて――
分館の入口に、古物商の印が押された包みが届いた。

この頃にはもう、ここに現れる層の数も、持つ長さも、巡る順も見えていた。

(——あとは、名を揃えるだけや)

観記室の机の上に、新しい匂いが混じった。

古物商の印が押された裂見本帖が数冊。
その脇に、紙片を荒縄でひとまとめにした束がいくつか。
糸を巻きつけた木片も混じっている。

どれも端を切り取った見本で、札の字は細く、癖があった。

異紀は、布と見本帖とを見比べると、机の縁をとん、と指で叩いた。

「ほいたら……当てていこかね。いま前に来ちゅう層から」

理一郎は返事の代わりに、布のほうへ先に指を置いた。

「……浅く沈んで、離したあとだけ、細い線で熱が遅れる」

それを聞いて、異紀は帳面をめくりながら答えた。

「『残留挙動あり』のやつやね」

何度も同じ書き方で埋めてきた一行だった。

「……紙の方からでええやろ?」

異紀は布見本を脇にどけて、紙の束を理一郎に差し出した。

「名を前提にして渡すな」

口ではそう言いながら、理一郎の指は紙束へと落ちていく。

一番上から、なぞっていく。
遅れ方が似る。が、少し違う。

もう一枚。違う。
布。紙。布。紙。

何度目かで、理一郎の指がぴたりと止まった。

「——これだ」

異紀が、束からその一枚を引き抜いた。

「……香包みに使う和紙やと、札には出ちゅう」

「名はそれに寄せていい。挙動は揃う」

異紀は、長らく空いたままだった特記欄へ筆先を落とした。

『特記:香包紙見本と残留挙動が同傾向』

本筋の記録には手をつけず、対応する見本だけをひっそり括る書き方だった。

墨が紙に沈むあいだ、理一郎は布と紙を見比べた。
層としては、とうに知っている。
帳面の端に名がひとつ足されただけで、その行の重さが増してみえた。

筆が硯の上に置かれる音がした。

同じ日の、少しあと。

層が変わる頃合いを見て、理一郎は布に指を置き、ひと筋送り出した。
触れた瞬間に、あの層だと分かる。

「……『腹の下で、粒が寄ったみたいに細う返る。通り過ぎたら、面に沈む』」

異紀は、その層を書き込んだ頁を開いた。
粒の気配が散った紙面を複数枚選んで、理一郎の方へ寄せる。

どれも軽い散り方をしている。

理一郎は布と紙に交互に触れた。
二枚目の紙で、指がぴたりと止まった。

「……これでいい」

異紀は札を抜き、字を読んだ。

『砂子』

帳面の右端に、また一行増える。
決まるまでが、はやい層だった。

次の層が前へ出てくるまで、また少し時間が空いた。

理一郎は布へ指を落とす。
触れた瞬間に、どの層かはもう分かる。

「……向きを変えたら癖が反転する層や」

異紀はその一言で、迷いなく帳面の該当行を探し当てる。
それから、紙束をゆっくり繰り、三枚ほど選び出して理一郎の前へ置いた。

「このあたりのどれかやと思う」

理一郎は、まず布に触れ、次に手前の紙へ移る。
返る位置が近い。

もう一枚を試す。
皺を逆向きに撫でると、反応が一拍ずれる。

布に触れ、紙へ戻る。
速度も圧も変えない。

二度目の往復で、指がふっと止まった。

「……これが一番揃う」

異紀は指された紙面の札を抜いた。
唐紙、と細い字がある。

帳面の特記欄に、その名を書き添える。
いま決まった紙面を机に残し、あとは脇へ退けた。

層は最初から分かっていた。
迷ったのは、似た紙の並びの中で、どれがもっとも近い挙動を持つかという一点。

決まり方の温度は穏やかで、二人の作業はまた次へ移った。

その日、名がついた層は三つだった。
机の上には、寄せられた紙片が少し増え、見本帖の開き癖が数箇所ついた。

帳面の端が、埋まり始めている。
理一郎は布を畳み直し、指先を一度擦った。

墨の匂いが、古物の紙の匂いに混ざっていった。

見本が届いて三日目。
特記欄が空いたままになった行は、残り二つになっていた。

どちらも、すでに何度も触ってきた層だった。

一つは、現れたときから終わりまで、ほとんど顔を変えなかった層。
押したときの沈み込みは浅く、滑りは終始素直で、抜け際にも余計な遅れが立たない。

もう一つは、そのあと顔を変えた層。
最初は同じ「つるり」としていたはずが、抜け際にぬるりと伸びる層。
指が離れる瞬間に、半拍ぶん追い縋る。

——気づけば、別の顔をしていた二つの層。

欄外の小さな点は、まだそこに残っていた。
ち、という音といっしょにこぼれた、あの日の「比較対象が足りん」が、そのまま紙の端に止まっている。

同じ頁の空白が、墨でなぞられるのを待っていた。

「……ほいたら、残り二つ、片づけていこかね」

異紀が、理一郎の傍らで見本をめくりながら言った。

「詰まりが揃う見本を、何枚か手前に出しちゅう。名は後回しでえいき、滑りを見ちゃり」

この層が出るのはおよそ一時間。
候補となりそうなものに、異紀が予め付箋をつけていた。

「……先に寄せるなとは言うたけどな」

理一郎は小さくぼやきながらも、指を布へ落とした。

一枚目。
指の腹で撫でる。
よく滑る。戻りも早い。

二枚目。
少し軽い。布の重さと合わない。
違う。

三枚目。
厚みと滑りが、布と近い。
撫でても、離れても、面が乱れない。

布へ戻る。
見本へ戻る。

行き来が二度、三度。
理一郎の指が、裂の上でぴたりと止まった。

「……こっちは、これで揃う」

異紀が顔を上げる。
裂見本の端に挟まった札を抜き、字を拾った。

「西陣、紋緞子」

声に出し、札を脇に置いた。

「ほんなら、この欄は、もう決まりやね」

「書け。一致だ」

筆先が墨を含み、紙の上に静かな字が並んでいく。

『特記 西陣 紋緞子(見本一致)』

理一郎は、その一行を見て、小さく頷いた。
この層については、それ以上言うことはない。

その沈黙のまま、帳面の空きが、またひとつ埋まった。

残るは、欄外に黒い点のついた頁だった。

懐中時計の長針が、刻々と進む。
西陣の層が切り替わる頃、異紀が新たに増えた裂見本を整えながら言った。

「同じ筋の布を手前に寄せちゅう。どれもえい手触りやき……あとは最後の一拍まで、どこまで寄るかやね」

「そこを見る」

短くそう落としてから、理一郎は試しに布を撫でた。

沈みは浅い。
滑りも近い。
離れ際に、一拍分、布が残る。

「……ここから、追う」

手前の裂から順に撫でていく。

似るものはある。
滑りも重さも、布と近いものが何枚か並ぶ。

けれど、どの裂も、抜けるときの張り付きが短い。

「どれも紋緞子に近い。だが、見本のどれとも噛み合わん」

異紀の筆が宙で止まる。
硯の縁に、墨が迷うように揺れた。

「ほいたら、ここは、なんて書かす?」

「……仮で置いておけ」

異紀の口元が、緩んだ。

「ふわふわのときは止めろ言うたに」

理一郎は異紀に視線を向けた。

「……あれは、口が滑っただけや」

「残っちゅうもんは、拾いたなるきね」

「拾うな」

異紀は肩をすくめ、帳面に『紋緞子(仮)』とすっと落とした。

理一郎の視線が、その字を射抜く。
そして、再び指を戻した。

布。裂。布。裂。
さきほどと同じ幅で往復する。

抜け際が、やはり半拍ぶん遅れる。

異紀は見本帖の別の頁を開き、札の列をひとつずつ指で送った。

「もう一束、寄せるき」

札に細い字で産地名の入った布見本を何枚か抜いた。
机の端に、新しい列ができる。

理一郎は、手前から順に触れた。

一枚目。
指の腹の下で、面がすぐ静まる。

次。
滑りは揃うが、遅れが出ない。

もう一枚。
出だしは近いのに、抜けるときの張り付きが足りない。

懐中時計の長針が、ひと目盛り、またひと目盛り進んだ。

裂見本の束をひと通り終え、理一郎の指がふっと止まった。
どれも同じ筋の滑りを持ちながら、抜け際が揃わない。

「……ここまで当てても、どれも最後が合わん」

息が、机の上で浅く揺れた。

しばらく布だけを撫でてから、理一郎は、低く言葉を落とした。

「……紋緞子の筋は外れん。 だた、先に揃えた西陣のと比べて、抜け際のぬめりが一拍長い」

異紀の筆が、うなずくように揺れた。

「西陣からちっくと外へ寄せちゅう、言い方やね」

「ああ。——ここまでだ。産地は書き切れん。類似で止めておけ」

異紀は、宙で止めていた筆を持ち直した。

「ほいたら、『類似』で確定しちょくき」

『 (仮)』の字に淡い二重線を引き、その下に整え直す。

『紋緞子 類似(離れ際長)/産地不詳』

墨の匂いが、ひと段濃くなった。

異紀は筆先を軽く払ってから、硯の縁に置いた。
特記欄に、もう空きはない。

欄外の小さな黒い点も、その行の端で、いまはただの粒のように沈んでいる。

「……全部、埋まったねえ」

ひと息分間を置いて、異紀がぽつりとこぼした。

理一郎は、帳面の端を見渡し、うなずいた。

「必要なことは、書いた」

懐中時計の長針が、ひと目盛り進む。

十二の手触りと連なる巡り。
そこに至るまでの無数の頁と、裂見本に紙の束。
長く続いた「見本合わせ」の刻は、ここでようやく区切りを迎えた。

それでも理一郎の指には、一拍ぶんの遅れが、まだ残っていた。

理玄異聞録 第3話「朧紗」|第7章 絹紐 ―― 結び直す