その日。
理一郎は、布の包みを、観測室の作業台の上に置いた。
北向きの高窓から落ちる白い光が、白漆喰の壁で跳ねて、木張りの床と台の上に淡く広がっている。
執務室よりひんやりとした空気が、布の周りに澄んで見えた。
理一郎は台の脇の引き出しを開け、薄い綿手袋を一組取り出した。
指先まできちんと納めてから、四つ折りの布の端をつまむ。
折り目をひとつずつほどき、白布の上に一枚の布として広げた。
四隅を軽く持ち上げて皺をならすと、紅の花の並び方が、先ほど遠くまで見通せる。
異紀は台から少し離れた場所に腰をおろし、帳面を開いて筆を構えた。
左の頁の上の方には、すでに「観測条件」と小さく見出しが立っている。色柄と折り目の向きは、先に素描で留めてある。
理一郎は懐から懐中時計を取り出し、蓋を親指で押し上げた。
短い針が十と十一のあいだから、すこし十一寄りを指している。
その位置を目に刻んでから、時計を置いて、布の方へ向き直った。
「……啓治二十七年五月二十六日、午前十時三十五分」
いつもの調子で、言葉をひとつずつ置いていく。
「場所、京洛博物館地方分局・異類資料観測室。北向き高窓一枚。窓硝子越しの外光のみ。灯火なし。天候、晴れ」
高窓から落ちる光の筋と、布の位置関係を確かめる。
光は北の壁から斜めに差し込み、白布の端と、更紗の折り目をやわらかく撫でていた。
すぐそばで、異紀の筆が紙をなぞる。
理一郎の声に一拍遅れて、条件の行が帳面に増えていく。
「本館預かりの裂、更紗一枚」
そこまで言って、理一郎は折尺を手に取った。
布の長辺の片側を手袋越しに軽く押さえ、作業台の縁と平行になるように位置を直す。
木の縁を布の端に当て、目盛りを目で追い、数を頭の中で並べてから、静かに口へ送った。
「長辺、四尺。短辺、三尺」
筆が「四尺」のところで一拍止まり、欄の端にさらりと数字を並べる。
理一郎は折尺を引き、布の四隅を崩さないように両手を添えて、持ち上げた。
作業台の脇に据えておいた小さな秤の皿に、布をたわませないように落とし込む。
針がふわりと振れて、六十五匁の目盛りで動きを止めた。
「重さ、六十五匁」
数を口にしながら、理一郎は秤の目盛りを確かめる。
異紀が帳面の同じ行に『六十五匁』と書き添えたところで、布はふたたび白布の上へ戻された。
墨の線が、寸法と重さの行をきれいに揃えていった。
作業台の高さは、床面から二尺八寸。
理一郎は椅子を引き、いつものように台の北側に腰をおろした。
視線を落とすと、布の折り目の線が、目の前で真っ直ぐに伸びている。
「観測者、志岐理一郎。 裸手で触れる」
その一行を聞いたところで、筆が止まった。
すぐに『接触条件』と見出しを立て、その下の行を空ける。
「触る場所、先に決めちょいた方がえいね」
異紀が、帳面から目を上げずに言う。
その声が、台の脇の空気をわずかに揺らした。
「そうだな」
理一郎は布全体を見渡し、中央の紅い花から視線を外して、右手前の角へ移した。
「まずは、この角。折り目に沿って、一か所だけ」
手袋を外し、右手を布の上に持っていく。
手はまだ触れず、折り目から二寸ほど離れたところで止まった。
「長辺の端から一尺、短辺の端から八寸内側」
位置を確かめるように、理一郎が小さく付け足す。
異紀の筆が、その数字を『位置』の欄に書き込んだ。
「触り方も、揃えておこう」
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「右手の、人差し指と中指の腹だけ。揃えたまま、折り目と平行に、二寸ぶん滑らす。一回の観測につき、その往復まで」
異紀は、『触れ方』の欄を埋めていく。
行の途中で少し墨が濃くなり、すぐにまた均された。
「時間は、どれくらい置いちゅう?」
今度は異紀が顔を上げ、理一郎を見た。
「……まずは三十秒」
理一郎は、時計の秒針が数字の上を通るのを目で追う。
「指を置いて、秒針が半巡するまで。そのあとで、一往復」
「秒は、わしが数えちょく」
異紀が短く答え、視線を時計へ移した。
筆先が、次の行の余白を待つように浮いている。
理一郎は胸のあたりでひとつ息を吸い、呼吸の深さを確かめた。
言葉どおりに段取りを口にしてみる。
「三十秒、静かに置いてから、一往復」
口にしたところで、自分でもその手順の心もとなさを意識する。
「言えるとこまでで、止めちょき」
異紀が、行間を見ていた視線を、こちらへ移した。
「黙っちゅう分は、そのまま空白で残す。――要るようになったら、その時埋めたらえい」
理一郎は小さく息を吐いた。
苦笑ともつかない気配が喉の奥で揺れ、すぐに静まる。
「……頼む」
そう返すと、布の角へ向き直った。
紅の花、藍の蔓、柔らかく落ちた折り目。
指先の奥には、本館の男が口にした「麻」「絹」という言葉が、まだ薄く残っていた。
(名を先に立てたら、指先がそっちへ引かれる)
その先を追わず、息を整える。
「……第一回」
自分に向けるように呟き、理一郎は布の角へ、指先を下ろした。
懐中時計の秒針の細い音が、淡々と時を刻んでいた。
右手の第二、第三指の腹を揃え、布の上に軽く載せる。
押し込むでもなく、浮かせるでもなく、その中ほどのところで圧を止めた。
返ってくる力は弱い。皮膚の下に、薄い層が浮いている。
秒針が半巡するあいだ、位置も圧も変えない。
指の腹の下で、冷たさがゆっくりと引いていった。
「三十秒」
異紀の声に、理一郎は息をひとつ浅く吸い、指を横へ滑らせた。
二寸ほどの距離を、一定の速さで。
最初の半分は、ほとんど変化がない。
返ってくる抵抗は弱く、布の表面と皮膚とのあいだで、紙一枚を挟んだような手応えが続いた。
半ばを過ぎたところで、ふいに、布が指を掴むような感触が混じった。
止まるほどではないが、滑りがいったん重くなる。
そのまま同じ圧を保ち、決めておいたところまで進めてから、今度は同じ道筋を戻った。
戻り道で重くなる場所は、往きで感じたところより、わずかに手前へずれていた。
指を布から離し、理一郎は手を握ってから開く。
指先に残っていた感触を振り落とすというより、数を揃え直すための癖だった。
「……どうやった?」
帳面の向こうから、異紀の声が低く落ちる。
筆先はまだ紙に触れていない。
理一郎はすぐには答えなかった。
指の下で起きたことを、そのまま条件と変化に分け直す。
(圧は変えていない。距離も二寸。往復一回)
「まずは、先に決めた角のところ」
間を置いて、口を開く。
「手前の角から右側へ、右手の二本指で二寸ぶん一往復。圧は変えてないつもりだ」
そこでいったん息を継ぎ、指先の記憶をもう一度たどる。
「それでも途中で、指先に返る抵抗が増えた」
口に出してから、言葉の粗さが耳についた。
「……増えた、いうより、滑りが重くなった、か」
そう言い直してから、眉間に皺を寄せた。
「ただ、往きと戻りとで、その重くなるところの位置が揃わん」
それ以上、うまい言い換えが出てこなかった。
「見た目は更紗なのに、手触りが違う」
異紀の筆が、一拍遅れて事象の欄をなぞった。
「ほう」
異紀は小さく相槌を打つ。
筆先をいったん持ち上げてから、間を置いた。
「さらさら、ではないがやね」
「少なくとも、そうは呼ばん」
理一郎は、帳面を一瞥してから、淡々と言い切った。
「じゃあ、止まる感じか。きゅっ、て」
言いながら、異紀は今度はちらりと理一郎の方を見る。
「『さらさら』も『きゅ』も、主観が過ぎる。記録には使えん」
理一郎がそう返すと、異紀は喉の奥で笑いをひとつ転がしかけて、そこで飲み込んだ。
「ほいたら……」
異紀は今度はわざとらしく息を吸い、筆先で紙の端をつつくように手を動かす。
目が、布の方へ動いた。
「しゃりしゃり?」
異紀は軽く首を傾けてみせた。
問いの形をしたまま、一言が机の上に残った。
理一郎は、再び眉を寄せかける。
指先の奥でまだ続いている抵抗が、その言葉に触れた途端、別の形になりかけるのを感じた。
「むしろ、」
言葉の方が先に出た。
視線がもう一度、布の同じ一点へ落ちる。
「きし――」
そこまで言いかけて、唇の内側で音を噛み殺す。
(擬音を先に立てたら、そこで思考が止まる)
胸の内側でそう言い聞かせ、視線を帳面へ戻す。
「……途中で、織り目が軋むような抵抗が出る。今は、その変化があった、ところまでや」
「はいはい」
目の端で、異紀の筆がひとつ揺れた。
墨が一点、丸く濃くなり、それから何事もなかったように線へ戻っていく。
理一郎は、半分だけ異紀の方へ顔を向けた。
異紀は知らぬ顔で、次の行を空けた。
◇
きしみの層を、同じ角で何度か撫で返しているうちだった。
右手の二本指を戻したところで、理一郎は、指先の違和感に気づく。
さっきまで織り目が軋みを返していた場所を、同じ圧でなぞっても、今度はその引っかかりが出ない。
秒針が半周するあいだ、指をそのまま置く。
冷たさが引くより少し早く、指腹の下が、薄くしっとりと馴染んでいった。
「三十秒」
異紀の声を合図に、理一郎は指を滑らせる。
最初の一寸ぶんは、布の方が「逃げる」。
抵抗がほとんどない。
蝋を薄く引いた紙の上を撫でているように、指が勝手に前へ進む。
半ばを越えたあたりで、今度は逆に、布の側から指を追いかけてくるような感触が混じった。
温もりを帯びた部分が、薄く吸いつく。
止まるほどではないが、一度ほどけた滑りが、そこで少し重くなる。
同じ圧のまま決めておいた位置まで進めてから、理一郎は同じ道筋を戻した。
戻り道で吸いつく箇所は、往きより、わずかに手前へずれている。
指を離し、右手を軽く握ってから開く。
指先に残った「逃げる」と「まとわりつく」を、頭の中で二つに分ける。
机の端で、懐中時計の短針が十一を少し過ぎたあたりを指していた。
(……本館の人も言いよったな)
『……触り心地が、よう変わるんです』
ため息まじりの声が脳裏をかすめ、理一郎は息を深く吸う。
布から指を離すと、目の奥がひとつ狭まった。
「どうしたが?」
異紀の声がゆるく落ちる。
理一郎は短く鼻から息を吐き、眉をほどいた。
「先ほどと同じ角。同じ二本指で、二寸ぶん一往復」
理一郎は、条件を先に口へ送る。
「圧も変えていない。それなのに――」
指先の感触を辿るように、言葉を継ぐ。
「途中から、抵抗が揃った。最初の半分は、乾いた紙みたいに抵抗が薄い。途中から、指の温度が乗ったところで、布の側が寄ってくる」
そこでいったん言葉を切り、指先の記憶をなぞる。
「……薄い油膜を挟んだみたいに、指先にまとわりつく」
「ふうん」
異紀が、筆を止める。
「……《つるつる》?」
理一郎は、声を均して返した。
「そういう言い方は、人の感じ方に寄りすぎる。記録には使わん」
「なら——」
異紀の視線が、ちらりとこちらへ寄る。
「《つやつや》、かね」
机の上に、二音が軽く置かれた。
指先の記憶にぴたりと重なる響きに、理一郎の喉がわずかに動く。
「……それも、載せん」
声だけで、その二音を机の端へ押しやった。
「今のところ測れているのは、同じ触り方をしているのに、途中から《抵抗が増す相》が一つ混ざる、そこまでや」
「うん、それで置いちょこう」
異紀は素直に頷き、筆先を事象欄へ戻した。
事象欄に『途中より抵抗増』と記し、その横に小さく「層二」と書き添えた。
◇
そこから先は、ほとんど作業に近かった。
同じ角。同じ二本指。同じ三十秒と二寸。
秒針の位置を合図に、理一郎は、「逃げる」と「寄ってくる」の境目を確かめ続ける。
二往復目、三往復目。
撫でるたびに、吸いつくところが、ほんのわずかずつ広がっていく。
(……この層は、指の温度によう応じる)
懐中時計の短針が、じきに正午へ向かう位置へ近づきつつあった。
(もう少し試せたら、条件で切れる)
内側で、ようやくひと塊の言葉になりかけたところで、理一郎は、同じ角へ指を戻す。
いつものとおり三十秒置き、二寸ぶん滑らせた――はずだった。
往きの半ばまでは、これまでと同じ寄りつき方が続く。
その先で、唐突に手応えが抜けた。
布の側から寄ってきていたはずの膜が、一度、ぱたりとほどけてしまったように。
戻り道では、もうどこにも「油膜」の感触が見当たらない。
これまで重なっていた層が、一枚まとめて剝がれ落ち、指先が取り残されたような変わり方だった。
(……今、掴みかけちょったところやのに)
机の角を、視線で一度なぞる。
みぞおちのあたりが、一瞬重くなり、そのまま沈んでいった。
軽く置いたはずの拳が、「こん」と台の上で鳴る。
思ったよりも低い音が返り、理一郎は指を丸め直した。
帳面の上で、異紀の筆がぴくりと動く。
事象欄の上に短い線を引きかけて、そこで止まった。
「……顔に、出ちゅうで」
筆が、事象欄の行頭にちょんと触れかける。
理一郎は、その動きを見て、わずかに片眉を上げた。
「……それは事象欄には入れるな」
「惜しいねえ」
低くそう告げると、筆先は紙を汚す前に方向を変え、余白の上で小さく丸をひとつ描いた。
異紀は口元で笑い、何事もなかったように次の行を空けた。
そのとき、遠くの方で、低い音がひとつ遅れて届いた。
分館の厚い壁越しでも分かる、正午の合図の響きだった。
異紀がちらと窓の方へ目をやり、帳面を指で軽く弾く。
「ちょうどえいき。――ここでいったん切ろか」
理一郎は、布の上に載せた右手を引いた。
紅の花の並びが、指の影だけを細く残している。
四隅を軽くつまんで布を持ち上げる。
下に敷いた白布の皺を直し、その上へ更紗を戻した。
折り目を崩さないまま、薄くかけ布を重ねる。
端を揃え、四隅に小さな重しを置く。
異紀の方から、帳面の頁を閉じる音がした。
筆を硯の縁に戻し、乾きかけの墨の色を確かめる。
「布は逃げんき」
異紀はそう言い、椅子から腰を上げた。
観測用の懐中時計に一度視線を落とし、そのまま触れずに台の端へ押しやる。
「午後の分、腹がごねゆうと帳面がぶれるき。よう噛んで食べてきいや」
そう付け足して、異紀はいつもの調子で戸口へ向かった。
観測室の戸を引くときも、振り返りはしない。
足音が廊下へ溶けていく。
理一郎は、その背中を追わずに、かけ布の上へ目をやった。
重しの陰で、更紗の稜線が薄く残っている。
戸を静かに引き寄せ、鍵を掛ける。金具が噛む音は小さい。
鍵を帯に戻してから、理一郎も観測室をあとにした。
◇
観記掛の執務室は、昼の刻でもひっそりしていた。
分館にいるのは、ふだんから理一郎と異紀の二人だけだ。
今は、その片方の気配も見えない。
理一郎は自分の机の引き出しを一つ開けた。
朝方しまっておいた小さな包みが、角を崩さずに収まっている。
布紐を解き、風呂敷をめくると、四角い弁当箱が一つ収まっていた。
蓋を外せば、握り飯が二つ。大きさが揃っている。
端には卵焼きが数切れと、青菜の浸しがひとつまみ。
梅干しがひとつ、隅へ寄せて置かれていた。
椅子を引き、弁当箱を机の上へ置く。
包み紙の角を折り返し、膝の上へそっと落とした。
箸先を揃え、握り飯を一口運ぶ。
傍らの席は空いたままだった。
詩の本と雑誌の塔、その端に混じる上質紙の白――
どれも、朝見たままの位置に積み上がっている。
昼の刻になると、異紀はよく、時刻を告げるように観測室を出て、そのままふっと姿を消す。
分館に来てからのこの二月、実際に飯を前にしているところを見た覚えはない。
(……本館の食堂の方やろう)
心の中でそう言い換え、理一郎は噛む回数を数えた。
米の甘さが遅れて舌に広がる。
午前中、指先のほうへばかり向いていた意識が、ようやく腹のほうへ戻ってきた。
卵焼きは、端がきちんと揃っていた。
厚さを揃えたつもりが、よく見れば一本だけ、わずかに細い。
理一郎はそこから先に箸を入れた。
梅干しと青菜を口に運び終えると、弁当箱はきれいに空になった。
蓋を戻し、布でくるみ直す。
包みを机の端へ置き、紐の結び目を指先で確かめた。
湯呑みを取って、茶をひと口含む。
(……午後も、条件は動かさん)
唇の裏で、区切りを立てる。
布の層がどう変わろうと、まずは触り方のほうを動かさん――
その一点を、もう一度胸の内側で確かめた。
湯呑みを机の端に戻し、理一郎はゆっくり立ち上がる。
帯に指をかけ、観測室の鍵の感触を確かめた。
執務室の戸を開けると、廊下の空気が、室内より温かかった。
外の通りを行く車輪の音が、ごく遠くできしんだ。
異紀の足音が、その中に紛れているかどうか――
理一郎は、確かめようとはしなかった。
戸を閉め、観測室の方へ歩き出した。