理玄異聞録 第3話「朧紗」|第2章 布目 ――軋む

理玄異聞録 第3話「朧紗」|第1章 古渡更紗 ――舞い込む

 その日。

 理一郎は、布の包みを、観測室の観測台の上に置いた。
 北向きの高窓から落ちる白い光が、白漆喰の壁で跳ねて、木張りの床と台の上に淡く広がっている。
 執務室よりひんやりとした空気が、布の周りに澄んで見えた。

 理一郎は台の脇の引き出しを開け、薄い綿手袋を一組取り出した。
 指先まできちんと納めてから、四つ折りの布の端をつまむ。
 折り目をひとつずつほどき、白布の上に一枚の布として広げた。
 四隅を軽く持ち上げて皺をならすと、紅の花の並び方が、先ほどより遠くまで見通せる。

 異紀は台から少し離れた場所に腰をおろし、帳面を開いて筆を構えた。
 左の頁の上の方には、すでに〔観測条件〕と小さく見出しが立っている。
 色柄と折り目の向きは、先に素描で留めてある。

 理一郎は懐から懐中時計を取り出し、蓋を親指で押し上げた。
 短い針が十と十一のあいだから、少し十一寄りを指している。
 その位置を目に刻んでから、時計を置いて、布の方へ向き直った。

「……啓治二十七年五月二十六日、午前十時三十五分」

 いつもの調子で、言葉をひとつずつ置いていく。

「場所、京洛博物館・異類資料観測室。北向き高窓一枚。窓硝子越しの外光のみ。灯火なし。天候、晴れ」

 高窓から落ちる光の筋と、布の位置関係を確かめる。
 光は北の壁から斜めに差し込み、白布の端と、更紗の折り目をやわらかく撫でていた。

 すぐそばで、異紀の筆が紙をなぞる。
 理一郎の声を追って、条件の行が帳面に増えていく。

「本館預かりの裂、更紗一枚」

 そこまで言って、理一郎は折尺を手に取った。
 布の長辺の片側を手袋越しに軽く押さえ、観測台の縁と平行になるように位置を直す。
 木の縁を布の端に当て、目盛りを目で追い、数を頭の中で並べてから、静かに口へ送った。

「長辺、四尺。短辺、三尺」

 筆が〔四尺〕のところで止まり、欄の端にさらりと数字を並べる。
 理一郎は折尺を引き、布の四隅を崩さないように両手を添えて、持ち上げた。

 観測台の脇に据えておいた小さな秤の皿に、布をたわませないように落とし込む。
 針がふわりと振れて、六十五匁の目盛りで動きを止めた。

「重さ、六十五匁」

 数を口にしながら、理一郎は秤の目盛りを確かめる。

 異紀が帳面の同じ行に〔六十五匁〕と書き添えたところで、布はふたたび白布の上へ戻された。

 墨の線が、寸法と重さの行をきれいに揃えていった。

 観測台の高さは、床面から二尺八寸。
 理一郎は椅子を引き、いつものように台の西側に腰をおろした。
 視線を落とすと、布の折り目の線が、目の前で真っ直ぐに伸びている。

「観測者、志岐理一郎。裸手で触れる」

 その一行を聞いたところで、筆が止まった。
 すぐに〔接触条件〕と見出しを立て、その下の行を空ける。

「触る場所、先に決めちょいた方がえいね」

 異紀が、帳面から目を上げずに言う。
 その声が、台の脇の空気をわずかに揺らした。

「そうだな」

 理一郎は布全体を見渡し、中央の紅い花から視線を外して、右手前の角へ移した。

「まずは、この角。折り目に沿って、一か所だけ」

 手袋を外し、右手を布の上に持っていく。
 手はまだ触れず、折り目から二寸ほど離れたところで止まった。

「長辺の端から一尺、短辺の端から八寸内側」

 位置を確かめるように、理一郎が小さく付け足す。
 異紀の筆が、その数字を『位置』の欄に書き込んだ。

「触り方も、揃えておこう」

 自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「右手の、人差し指と中指の腹だけ。揃えたまま、折り目と平行に、二寸ぶん滑らす。一回の観測につき、その往復まで」

 異紀は、『触れ方』の欄を埋めていく。
 行の途中で少し墨が濃くなり、すぐにまた均された。

「時間は、どれくらい置いちゅう?」

 今度は異紀が顔を上げ、理一郎を見た。

「……まずは三十秒」

 理一郎は、時計の秒針が数字の上を通るのを目で追う。

「指を置いて、秒針が半巡するまで。そのあとで、一往復」

「秒は、わしが数えちょく」

 異紀が短く答え、視線を時計へ移した。
 筆先が、次の行の余白を待つように浮いている。

 理一郎は胸のあたりでひとつ息を吸い、呼吸の深さを確かめた。
 言葉どおりに段取りを口にしてみる。

「三十秒、静かに置いてから、一往復」

 口にしたところで、自分でもその手順の心もとなさを意識する。

「言えるとこまでで、止めちょき」

 異紀が、行間を見ていた視線を、こちらへ移した。

「黙っちゅう分は、そのまま空白で残す。――要るようになったら、その時埋めたらえい」

 理一郎は小さく息を吐いた。
 苦笑ともつかない気配が喉の奥で揺れ、すぐに静まる。

「……頼む」

 そう返すと、布の角へ向き直った。
 紅の花、藍の蔓、柔らかく落ちた折り目。
 指先の奥には、本館の男が口にした「麻」「絹」という言葉が、まだ薄く残っていた。

(名を先に立てたら、指先がそっちへ引かれる)

 その先を追わず、息を整える。

「……第一回」

 自分に向けるように呟き、理一郎は布の角へ、指先を下ろした。
 懐中時計の秒針の細い音が、淡々と時を刻んでいた。

 右手の第二、第三指の腹を揃え、布の上に軽く載せる。
 押し込むでもなく、浮かせるでもなく、その中ほどのところで圧を止めた。
 返ってくる力は弱い。皮膚の下に、薄い層が浮いている。

 秒針が半巡するあいだ、位置も圧も変えない。
 指の腹の下で、冷たさがゆっくりと引いていった。

「三十秒」

 異紀の声に、理一郎は息をひとつ浅く吸い、指を横へ滑らせた。

 二寸ほどの距離を、一定の速さで。

 最初の半分は、ほとんど変化がない。
 返ってくる抵抗は弱く、布の表面と皮膚とのあいだで、紙一枚を挟んだような手応えが続いた。

 半ばを過ぎたところで、ふいに、布が指を掴むような感触が混じった。
 止まるほどではないが、滑りがいったん重くなる。
 そのまま同じ圧を保ち、決めておいたところまで進めてから、今度は同じ道筋を戻った。

 戻り道で重くなる場所は、往きで感じたところより、わずかに手前へずれていた。

 指を布から離し、理一郎は手を握ってから開く。
 指先に残っていた感触を振り落とすというより、数を揃え直すための癖だった。

「……どうやった?」

 帳面の向こうから、異紀の声が低く落ちる。
 筆先はまだ紙に触れていない。

 理一郎はすぐには答えなかった。
 指の下で起きたことを、そのまま条件と変化に分け直す。

(圧は変えていない。距離も二寸。往復一回)

「まずは、先に決めた角のところ」

 間を置いて、口を開く。
「手前の角から右側へ、右手の二本指で二寸ぶん一往復。圧は変えてないつもりだ」

 そこでいったん息を継ぎ、指先の記憶をもう一度たどる。

「それでも途中で、指先に返る抵抗が増えた」

 口に出してから、言葉の粗さが耳についた。

「……増えた、いうより、滑りが重くなった、か」

 そう言い直してから、眉間に皺を寄せた。

「ただ、往きと戻りとで、その重くなるところの位置が揃わん」

 それ以上、うまい言い換えが出てこなかった。

「見た目は更紗なのに、手触りが違う」

 異紀の筆が、遅れて事象の欄をなぞった。

「ほう」

 異紀は小さく相槌を打つ。
 筆先をいったん持ち上げてから、間を置いた。

「さらさら、ではないがやね」

「少なくとも、そうは呼ばん」

 理一郎は、帳面を一瞥してから、淡々と言い切った。

「じゃあ、止まる感じか。きゅっ、て」

 言いながら、異紀は今度はちらりと理一郎の方を見る。

「『さらさら』も『きゅ』も、主観が過ぎる。記録には使えん」

 理一郎がそう返すと、異紀は喉の奥で笑いをひとつ転がしかけて、そこで飲み込んだ。

「ほいたら……」

 異紀は今度はわざとらしく息を吸い、筆先で紙の端をつつくように手を動かす。
 目が、布の方へ動いた。

「しゃりしゃり?」

 異紀は軽く首を傾けてみせた。
 問いの形をしたまま、一言が机の上に残った。

 理一郎は、再び眉を寄せかける。
 指先の奥でまだ続いている抵抗が、その言葉に触れた途端、別の形になりかけるのを感じた。

「むしろ、」

 言葉の方が先に出た。
 視線がもう一度、布の同じ一点へ落ちる。

「きし――」

 そこまで言いかけて、唇の内側で音を噛み殺す。

(擬音を先に立てたら、そこで思考が止まる)

 胸の内側でそう言い聞かせ、視線を帳面へ戻す。

「……途中で、織り目が軋むような抵抗が出る。今は、その変化があった、ところまでや」

「はいはい」

 目の端で、異紀の筆がひとつ揺れた。
 墨が一点、丸く濃くなり、それから何事もなかったように線へ戻っていく。

 理一郎は、半分だけ異紀の方へ顔を向けた。

 異紀は知らぬ顔で、次の行を空けた。

◇

 きしみの層を、同じ角で何度か撫で返しているうちだった。

 右手の二本指を戻したところで、理一郎は、指先の違和感に気づく。
 さっきまで織り目が軋みを返していた場所を、同じ圧でなぞっても、今度はその引っかかりが出ない。

 秒針が半周するあいだ、指をそのまま置く。
 冷たさが引くより少し早く、指腹の下が、薄くしっとりと馴染んでいった。

「三十秒」

 異紀の声を合図に、理一郎は指を滑らせる。
 最初の一寸ぶんは、布の方が「逃げる」。
 抵抗がほとんどない。

 蝋を薄く引いた紙の上を撫でているように、指が勝手に前へ進む。
 半ばを越えたあたりで、今度は逆に、布の側から指を追いかけてくるような感触が混じった。

 温もりを帯びた部分が、薄く吸いつく。
 止まるほどではないが、一度ほどけた滑りが、そこで少し重くなる。

 同じ圧のまま決めておいた位置まで進めてから、理一郎は同じ道筋を戻した。
 戻り道で吸いつく箇所は、往きより、わずかに手前へずれている。

 指を離し、右手を軽く握ってから開く。
 指先に残った「逃げる」と「まとわりつく」を、頭の中で二つに分ける。

 机の端で、懐中時計の短針が十一を少し過ぎたあたりを指していた。

(……本館の人も言いよったな)

『……触り心地が、よう変わるんです』

 ため息まじりの声が脳裏をかすめ、理一郎は息を深く吸う。
 布から指を離すと、目の奥がひとつ狭まった。

「どうしたが?」

 異紀の声がゆるく落ちる。

 理一郎は短く鼻から息を吐き、眉をほどいた。

「先ほどと同じ角。同じ二本指で、二寸ぶん一往復」

 理一郎は、条件を先に口へ送る。

「圧も変えていない。それなのに――」

 指先の感触を辿るように、言葉を継ぐ。

「途中から、抵抗が揃った。最初の半分は、乾いた紙みたいに抵抗が薄い。途中から、指の温度が乗ったところで、布の側が寄ってくる」

 そこでいったん言葉を切り、指先の記憶をなぞる。

「……薄い油膜を挟んだみたいに、指先にまとわりつく」

「ふうん」

 異紀が、筆を止める。

「……『つるつる』?」

 理一郎は、声を均して返した。

「そういう言い方は、人の感じ方に寄りすぎる。記録には使わん」

「なら――」

 異紀の視線が、ちらりとこちらへ寄る。

「『つやつや』、かね」

 机の上に、二音が軽く置かれた。
 指先の記憶にぴたりと重なる響きに、理一郎の喉がわずかに動く。

「……それも、載せん」

 声だけで、その二音を机の端へ押しやった。

「今のところ測れているのは、同じ触り方をしているのに、途中から『抵抗が増す相』が一つ混ざる、そこまでや」

「うん、それで置いちょこう」

 異紀は素直に頷き、筆先を事象欄へ戻した。
 事象欄に〔途中より抵抗増〕と記し、その横に小さく〔層二〕と書き添えた。

◇

 そこから先は、ほとんど作業に近かった。
 同じ角。同じ二本指。同じ三十秒と二寸。

 秒針の位置を合図に、理一郎は、「逃げる」と「寄ってくる」の境目を確かめ続ける。

 二往復目、三往復目。
 撫でるたびに、吸いつくところが、ほんのわずかずつ広がっていく。

(……この層は、指の温度によう応じる)

 懐中時計の短針が、じきに正午へ向かう位置へ近づきつつあった。

(もう少し試せたら、条件で切れる)

 内側で、ようやくひと塊の言葉になりかけたところで、理一郎は、同じ角へ指を戻す。

 いつものとおり三十秒置き、二寸ぶん滑らせた――はずだった。

 往きの半ばまでは、これまでと同じ寄りつき方が続く。
 その先で、唐突に手応えが抜けた。

 布の側から寄ってきていたはずの膜が、一度、ぱたりとほどけてしまったように。

 戻り道では、もうどこにも「油膜」の感触が見当たらない。これまで重なっていた層が、一枚まとめて剝がれ落ち、指先が取り残されたような変わり方だった。

(……今、掴みかけちょったところやのに)

 机の角を、視線で一度なぞる。
 みぞおちのあたりが、一瞬重くなり、そのまま沈んでいった。

 軽く置いたはずの拳が、「こん」と台の上で鳴る。
 思ったよりも低い音が返り、理一郎は指を丸め直した。

 帳面の上で、異紀の筆がぴくりと動く。
 事象欄の上に短い線を引きかけて、そこで止まった。

「……顔に、出ちゅうで」

 筆が、事象欄の行頭にちょんと触れかける。

 理一郎は、その動きを見て、わずかに片眉を上げた。

「……それは事象欄には入れるな」

 低くそう告げると、筆先は紙を汚す前に方向を変え、余白の上で小さく丸をひとつ描いた。
 異紀は口元で笑い、何事もなかったように次の行を空けた。「惜しいねえ」

 そのとき、遠くの方で、低い音がひとつ遅れて届いた。
 分館の厚い壁越しでも分かる、正午の合図の響きだった。

 異紀がちらと窓の方へ目をやり、帳面を指で軽く弾く。

「ちょうどえいき。――ここでいったん切ろか」

 理一郎は、布の上に載せた右手を引いた。
 紅の花の並びが、指の影だけを細く残している。
 四隅を軽くつまんで布を持ち上げる。

 下に敷いた白布の皺を直し、その上へ更紗を戻した。
 折り目を崩さないまま、薄く掛け布を重ねる。
 端を揃え、四隅に小さな重しを置く。

 異紀の方から、帳面の頁を閉じる音がした。
 筆を硯の縁に戻し、乾きかけの墨の色を確かめる。

「布は逃げんき」

 異紀はそう言い、椅子から腰を上げた。
 観測用の懐中時計に一度視線を落とし、そのまま触れずに台の端へ押しやる。

「午後の分、腹がごねゆうと帳面がぶれるき。よう噛んで食べてきいや」

 そう付け足して、異紀はいつもの調子で戸口へ向かった。
 観測室の戸を引くときも、振り返りはしない。
 足音が廊下へ溶けていく。

 理一郎は、その背中を追わずに、掛け布の上へ目をやった。
 重しの陰で、更紗の稜線が薄く残っている。

 戸を静かに引き寄せ、鍵を掛ける。金具が噛む音は小さい。
 鍵を帯に戻してから、理一郎も観測室をあとにした。

◇

 観記掛の執務室は、昼の刻でもひっそりしていた。
 分館にいるのは、ふだんから理一郎と異紀の二人だけだ。
 今は、その片方の気配も見えない。

 理一郎は自分の机の引き出しを一つ開けた。
 朝方しまっておいた小さな包みが、角を崩さずに収まっている。
 布紐を解き、風呂敷をめくると、四角い弁当箱が一つ収まっていた。

 蓋を外せば、握り飯が二つ。大きさが揃っている。
 端には卵焼きが数切れと、青菜の浸しがひとつまみ。
 梅干しがひとつ、隅へ寄せて置かれていた。

 椅子を引き、弁当箱を机の上へ置く。
 包み紙の角を折り返し、膝の上へそっと落とした。
 箸先を揃え、握り飯を一口運ぶ。

 傍らの席は空いたままだった。
 詩の本と雑誌の塔、その端に混じる上質紙の白――
 どれも、朝見たままの位置に積み上がっている。

 昼の刻になると、異紀はよく、時刻を告げるように観測室を出て、そのままふっと姿を消す。
 分館に来てからのこのひと月余り、実際に飯を前にしているところを見た覚えはない。

(……本館の食堂の方やろう)

 心の中でそう言い換え、理一郎は噛む回数を数えた。
 米の甘さが遅れて舌に広がる。
 午前中、指先のほうへばかり向いていた意識が、ようやく腹のほうへ戻ってきた。

 卵焼きは、端がきちんと揃っていた。
 厚さを揃えたつもりが、よく見れば一本だけ、わずかに細い。
 理一郎はそこから先に箸を入れた。

 梅干しと青菜を口に運び終えると、弁当箱はきれいに空になった。
 蓋を戻し、布でくるみ直す。
 包みを机の端へ置き、紐の結び目を指先で確かめた。
 湯呑みを取って、茶をひと口含む。

(……午後も、条件は動かさん)

 唇の裏で、区切りを立てる。
 布の層がどう変わろうと、まずは触り方のほうを動かさん――
 その一点を、もう一度胸の内側で確かめた。

 湯呑みを机の端に戻し、理一郎はゆっくり立ち上がる。
 帯に指をかけ、観測室の鍵の感触を確かめた。

 執務室の戸を開けると、廊下の空気が、室内より温かかった。
 外の通りを行く車輪の音が、ごく遠くできしんだ。
 異紀の足音が、その中に紛れているかどうか――
 理一郎は、確かめようとはしなかった。

 戸を閉め、観測室の方へ歩き出した。