理玄異聞録 第5話「胡聲」|第7章 奏者乙 ――弦、遠し

理玄異聞録 第5話「胡聲」|第6章 白鞘 ――糸、ほどく

翌朝、異紀の顔色は、昨日よりも幾分戻っていた。

それでも理一郎は、席へ着く前に帰れと言った。
異紀は二度ほど言い返したが、理一郎が返す声は変わらなかった。
最後には、異紀が帳面に触れかけた手を引き、荷を持ち直した。

理一郎は、異紀が分館を出るまで見届けた。
それから戸締まりを確かめ、一度、自分の家へ戻った。

***

次の日、理一郎が執務室へ入ると、異紀はもう窓際の席にいた。
帳面を開き、細筆を持っている。
脇には、理一郎の控えが重ねられていた。
短い札のような字が、紙の端にいくつも沈んでいる。

理一郎の足が、敷居の内側で止まった。
昨日の言いつけは、すっかり机の向こうへ退けられている。
休ませたはずの身体が、もう筆を握っている。

異紀は控えの一枚を、帳面の脇へ滑らせた。

「七日、ながやけど」

筆先が、行の末で止まる。

「最後のまとめ、どこまで置くか迷うちゅう」

理一郎は、吐きかけた息をそこで止めた。

異紀は顔を上げない。
行の末を押さえる指が、墨の乾きを待っている。

理一郎は机へ近づいた。
帳面には、すでに七日午前の観測条件は入っている。
時刻。窓の明るさ。天候。器物寸法。
そこから先へ、異紀の字が新たに細く続いている。

『中保・返りあり。女声内、奏者声音へ寄る。返りにてなお同方向へ寄る。』

理一郎の目が、控えの端へ落ちた。

「ここは、それでいい」

理一郎は短く言った。

異紀は頷き、次の控えへ目を落とす。

『短保。』
『女声未成立。別層残る。』

「これは、声にならんかったところやね」

「未成立は残せ」

「うん」

異紀の筆が紙へ戻る。

『短保。女声未成立。声形を取る前にほどけ、別層のみ残る。』

その行を見た理一郎の眉が、ひとすじ寄った。

「“のみ”はいらん」

異紀の筆が止まる。

「言い切りすぎる?」

「後の条件で拾う余地がある」

異紀は小さく頷いた。
筆先が戻り、文字がひとつ削られる。

『短保。女声未成立。声形を取る前にほどけ、別層残る。』

二人のあいだで、筆先が紙を擦る音が続いた。
やがて、異紀の筆が五日午前の終わりに近づく。
控えの末には、似た語がいくつも並んでいた。
異紀は控えを一枚めくり、最後の札の並びを見た。

『奏者声音残る。』
『立上りより寄る。』
『女声にて収まる。』
『未成立。』
『固定とは断じ難し。』

異紀はしばらく、筆を下ろさなかった。

理一郎はその間を、ただ受けていた。
書庫で横たわる異紀の姿が、紙の白の向こうへひとつ浮いた。
異紀が、静かに書く。

『複数条件にて、奏者声音へ寄る率高し。ただし返り短、短保等において女声に収まる例・未成立例あり。固定とは断じ難し。切り分け、なお未了。』

理一郎の視線が、最後の一行で止まった。

異紀は筆を止めた。
その先へ、もう一字置くかどうかを待っている。

「ここ、閉じる?」

「……残す」

異紀は、そこで初めて理一郎を見た。

「このまま、未了でえい?」

「そうだ」

理一郎は帳面へ目を落とした。

「聞いたまま置く」

異紀の目の端が、わずかに落ちた。
伏せたまぶたの陰で、光が少し緩んだ。

「……わかった」

それだけ言って、帳面へ向き直った。

***

午前の記述が一段落したころ、戸口で足音が止まった。
本館の職員が、封書を一通持って立っている。
理一郎宛だった。

異紀の筆が止まる。

理一郎は封を受け取り、表を見た。
調査課の名がある。
礼を言うと、職員はすぐに下がった。
封を切る。
紙を開く音が、執務室に薄く落ちた。
理一郎は最後まで目を通した。
それから、紙の角を揃える。

「許可が出た」

異紀の視線が、帳面から離れる。

「何の?」

理一郎は返書をそのまま差し出した。

異紀は受け取り、紙面へ目を落とす。
読み進めるうちに、指が止まった。

「……『別奏者による条件再検』」

声は低かった。

理一郎は答えない。

異紀の目が、さらに下へ動く。

「『先方承認。観測必要範囲内に限る。取扱厳重のこと』……」

そこで、ようやく顔が上がった。

「これ、いつ出したが」

「一昨日だ」

「……先に打ったがやね」

「後にすれば、おまえは座ると言う」

異紀は返書を持ったまま、理一郎から目を外さなかった。

「ほう」

声の底が沈んだ。

理一郎は机の端へ手を置き、少し黙った。

帳面の行端で、乾ききらない墨が細く光っている。

「おまえの手で見る線は、もう通った」

その一言のあとに、少し間が空いた。

「女声の立つ条件と、その先の寄りは、ひとまずは取れた」

異紀は黙って聞いていた。

「だが、これ以上同じように重ねても、今の問いは深くならん」

理一郎は、言葉を切った。
書庫の床。
観測室の寝台。
桃を喉へ送るまでの、あの短い間。
どれも口には出さない。

「増えるのは、同じ相の繰り返しだ」

一文ごとが、落ちるように置かれた。

「それに、弾く側の揺れが前へ出る」

異紀の指が、返書の端で止まった。

「なら、ここで線を変える」

理一郎の目が上がった。

「次に見るのは、おまえで鳴るものやない」

一拍、置く。
 
「おまえを外したときに、何が残るかだ」

異紀はしばらく返書を見ていた。

「……わしの手では、ここまでか」

理一郎は、異紀の手を見た。
弓を持ち続けた指が、紙の端に掛かっている。
声の寄るところまで連れていった手だった。

「そこまでで、足りる」

異紀の目が、そこで動いた。

「その先は?」

理一郎の指が、机の端を一度押さえた。

「――俺が取る」

異紀は目を伏せた。
言葉が来ない。

「弾けるが?」

「曲は要らん。音が立てば済む」

異紀のまぶたが少し上がる。

「……弓の入れ方からやね」

「持ち方と、返しだけでいい」

異紀は小さく息を落とした。

「切り方が志岐さんらしい」

返書へ視線を戻す。
紙の端が、指の下でわずかに反る。

「今度はわしが見る番か」

理一郎は頷いた。

「頼む」

異紀の笑いが、口元で止まった。

「……えいよ」

それだけ言って、帳面へ向き直る。
筆先が、先ほどの続きへ戻った。

『次段、奏者差確認へ移る。』

異紀はその一行を置き、筆を止めた。

観測室には、二胡がある。
閉じられた箱の中で、まだ息をひそめている。

***

翌日、箱は白布の上に置かれていた。
蓋を開けると、木と皮の匂いが細く立った。
異紀は弓へ手を伸ばしかけて、途中で止まった。

理一郎の視線が、指先より先に動いている。

「触るな」

「持ち方を見せるだけやき」

「言葉で足りる」

異紀はしばらく理一郎を見ていた。
それから、何も持たない手を膝へ戻す。

「……なかなか不便な稽古やねえ」

理一郎は答えず、二胡の棹を支えた。
胴が膝の上で少し傾く。

「そこ、立てすぎ」

異紀の声が落ちる。

理一郎は角度を直した。

「弓は押さん。弦へ入れる。力で鳴らそうとせんでえい」

「力は抜いている」

「肩がまだ高い」

理一郎は唇を結んだ。
弓が動く。
音は出なかった。
弦の上を、乾いたものが擦れた。
理一郎は二胡を見下ろす。

異紀は口元を少しゆるめた。

「志岐さん、刃物やないきね」

「……分かっている」

手は、まだ力を抜ききれていなかった。
もう一度、弓が入る。
今度は、掠れた音が短く立った。

二人とも、口を噤んだ。

異紀が耳を澄ませたまま、目を細める。

「弦が、ちいと許したねえ」

理一郎は二胡を見下ろしていた。

「条件には入らん」

「そこを分けられるなら、筋はえい」

理一郎は返さなかった。
弓の位置を直し、もう一度だけ短く鳴らす。
今度は、音がひと息、保たれた。

その日は、そこで終えた。
記録は取らなかった。
墨は磨られていたが、異紀の筆は動かない。

観測室の隅で、二胡の箱は、口を開けたままだった。

***

数日、同じことが続いた。

異紀は二胡へ触れなかった。
手を出しかけるたび、理一郎の目が先に届く。

「まだ何もしちょらん」

「しようとした」

「目が早いねえ」

「見る場所を決めている」

異紀はそこで、声を立てずに笑った。

理一郎の音は、日ごとに伸びた。
はじめは弓の返りで崩れた。
次には途中で痩せた。
その次の日には、短い保ちだけなら形になった。

異紀は傍らでそれを見ていた。

「今日は、音が端で逃げんかった」

理一郎は弓を止める。

「まだ硬い」

「曲がらんまま進むところが志岐さんやね」

理一郎は黙った。
弓の毛先が、弦のそばで細く揺れた。

「もう一度」

今度は、中で保つ。
音はまだ硬い。
それでも、途中で切れずに残った。

異紀の筆が、初めて紙へ落ちた。

『奏者乙、短保。発音は成立するも、声形には至らず。弦音に硬さ残る。』

その次の行は空いたままだった。

理玄異聞録 第5話「胡聲」|第8章 観測終息 ――聲、残る