七月七日。
「返りは残す。中で取る」
理一郎が言うと、異紀は短く頷いた。
弓が入る。
女声は立った。
立った、と書くより早く、内側が低く寄る。
女の声として開いたはずのものが、保たれるあいだに別の声へ傾いていく。途中で女声へ戻りかける。
けれど返りに入ると、また同じ方へ落ちた。
理一郎は控えへ落とす。
『中保・返りあり。』
『女声内、奏者声音へ寄る。』
異紀は目を伏せていた。
表情は崩れない。手の返しが、一定に続く。
弓の角度も、戻り方も、変わらない。
「短く」
音はすぐ切れる。
女声は立ちきらない。湿りが残る。
『短保。』
『女声未成立。別層残る。』
「浅く。返りは入れる」
弓が戻る。
声は薄く立った。
女声の形は細い。
しかし底に、すでに知っている声の影がかかる。
『微動浅・返りあり。』
『奏者声音、薄く残る。』
短く切った音は、声になる前でほどける。
浅く動かした一本には、薄い影が残る。
返りを残すと、同じ底へ落ちる。
条件ごとに差は出る。
それでも、向かう先は揺れない。
理一郎は次の行へ移った。
「同形で」
弓が、もう一度入る。
声は立った。
今度は、立ち上がりから低い。
女の声の形を通る前に、奥が奏者の声へ傾いている。
音が保たれるにつれて、その低さが伸びる。
声の沈みが、異紀のものへと寄っていく。
理一郎の指が、紙の端を押さえた。
『同形反復。』
『立上りより奏者声音へ寄る例あり。』
異紀の息は乱れなかった。
弓へ戻るまでに、一拍ある。
理一郎の視線が、異紀の袖口のあたりへ落ちた。
すぐ、控えの行へ戻る。
「返りを短く」
女声は収まった。
終わりも浅い。
奏者の声までは届かない。
『返り短。』
『女声にて収まる。』
「返りを長く」
同じ音型で、声はまた沈んだ。
長く返る途中で、女声の薄い膜が剥がれる。
奥から出てくるのは、もう近いものではなかった。
理一郎の耳には、異紀の声として届いていた。
二胡の胴の内で細く引き延ばされ、女の声の形に巻かれる。
それでも耳は外せない。
異紀の姿勢は崩れない。
弓が入り、声が出て、また弦へ戻る。
理一郎は硬筆を置かない。
『返り長。』
『奏者声音、強し。』
それ以上削ると、いま聞いたものが零れる。
異紀の口は結ばれたままだった。
それなのに、異紀の声で鳴る。
理一郎は条件を戻した。
短く切る。
中で保つ。
返りを抜く。
返りを入れる。
浅く動かす。
女声に戻るものもある。
未成立で終わるものもある。
けれど、いったん寄ると、声は同じ底へ沈む。
控えの端に、似た語が増えていった。
『女声にて収まる。』
『奏者声音残る。』
『立上りより寄る。』
『未成立。』
『固定とは断じ難し。』
異紀はまだ構えを崩さない。
次の指示があれば、また弓を入れる。
理一郎の視線が、弓を握ったままの手へ降る。
弦のそばで、弓の毛が止まっていた。
硬筆は、次の行へ進まなかった。
(これ以上は、観測では済まん。)
次に弓を入れれば、条件ではなく、異紀の声を取りに行くことになる。
「――ここまででいい」
言葉にするまで、間があった。
ゆっくりと、異紀のまぶたが上がる。
「……分かった」
異紀は、息をつくように短く答えて、二胡を膝へ伏せた。
棹を納め、胴を布へ戻し、弓を収める。
蓋が閉まるまで、指は迷わなかった。伏せた横顔に目が留まる。
しかし、その陰に落ちたものまでは拾えなかった。
理一郎は控えの末へ書き添えた。
『複数条件にて、奏者声音へ寄る率高し。』
『女声に収まる例あり。固定とは断じ難し。』
『なお、切り分け未了。』
切り分け未了。
紙の上では、そう置ける。
理一郎の耳の奥では、まだ異紀の声が残っていた。
***
昼の刻は、もう半ばを過ぎていた。
異紀は少し前に席を立っている。
戸の開く音も、閉まる音も、もう残っていない。
窓際の机が、紙を置いたまま沈んでいた。
理一郎は引き出しを開け、弁当箱を取り出した。
蓋を外す。
白い飯に、焼いた魚。青菜の和えもの。
朝のうちに詰めた中身は、崩れもせず、きちんと収まっている。
箸を入れる。口へ運ぶ。噛む。
舌の上で何かを確かめる前に、ひと口ごとが喉の方へ落ちていった。
魚の塩も、青菜の青さも、遅れて来る。
その遅れのあいだに、午前の音がまた戻った。
長く保つ。返りを残す。
寄る。戻る。途中で変わる。
紙へ置いた語が、まだ耳の奥から離れきらない。
理一郎は顔を上げなかった。
噛むたび、畳の目が白く見えた。
湯呑みに手をやり、茶で流す。
冷たくも熱くもない温度が、口の中の薄さを撫でて過ぎた。
食べ終えるまで、部屋の中で動いたものは多くなかった。
箸の先。茶の水面。理一郎の喉。
弁当箱の蓋を閉じる。
ことり、と鳴った音が、思ったより遠くまで行った。
そこで、机の端に積んだままの本が目に入る。
午前のあいだ、邪魔になって脇へ避けておいたものだった。
革の背に指を当てると、乾いた感触が返る。
(戻しておくか。)
理一郎はそれを取り上げて立った。
廊下へ出ると、昼の光は壁に撥ねて白くなっていた。
階段の方へ向かうにつれて、空気が変わった。
人の通る気配が薄く、古い紙の匂いが、薄く重なっている。
二階へ上がる。
手にした本の重みは軽いのに、足音が響いた。
書庫は、理一郎はふだん足を運ばない部屋だった。
本館から移された本や、行き場の決まりきらない紙束が、背の高い棚へ雑多に収まっている。
取手へ指をかけて押す。
蝶番が短く鳴る。
先に抜けてきたのは、乾いた紙と、古い木の湿りが混じった匂いだった。
目の前に、窓の明るさがひらく。
強い日ではない。
白く均された光が、部屋の奥で溜まっている。
棚の影は深く落ちず、床の上で淡く開いていた。
その明るみの手前に、影があった。
壁際に沿って、ひとり分の形が伏せている。
理一郎の息が止まる。
それが異紀だと分かるまでに、一拍要った。
いや、分かってもなお、すぐにはそう見えなかった。
窓の下の明るさのせいか、部屋のほの暗さのせいか、色の薄い横顔が、板の上へそのまま置かれたもののように見えた。
壁際にまっすぐ寄せた肩。
片腕の落ち方。
頬から顎へ流れる線が、光の届く縁で白く浮いている。
伏せたまぶたの下に、睫毛の影が細く差していた。
離れた位置からでは、息の上下が見えなかった。
不吉なほど整っていた。
精緻な剥製を、台へ固定する前の布の上に寝かせたようだった。
あるいは、図譜で見た標本画が、そのまま床へ抜け落ちたような。
本が、理一郎の手から滑った。
棚の脚に当たって、低い音を立てる。
その音にも、異紀は微動だにしない。
気づいたときには、床の上へ膝をついていた。
そこでようやく、異紀の髪が、頬の脇で揺れたのが見えた。
死んではいない。
理一郎は黙ったまま、異紀の手首へ指を当てた。
脈は拾えた。
速さを見るかぎり、大きく外れてはいない。
けれど、打ち方が薄い。ひと打ちごとの浅さを、もう身体の方で馴らしてしまっているような拍だった。
理一郎の指が、止まる。
床の上で、異紀のもう片方の手がひくりと動いた。
遅れて、睫毛が震える。
目はすぐには開かない。
呼吸が少し深くなって、ようやく薄く持ち上がったまぶたの下から、色の淡い瞳がのぞいた。
「……ああ」
掠れた声だった。
異紀は理一郎の顔を見て、それから自分の手首へ落ちた指を見る。
「……見つかったがやね」
口元が、少し緩む。
起き上がろうと肩に力が入る。
理一郎はその前に、手首を押さえたまま短く言った。
「そのままでいろ」
異紀は途中で力を抜いた。
視線を外し、肩を床へ戻す。
「寝よっただけやき」
「見れば分かる」
「ほいたら、えいやろ」
理一郎はそれきり黙った。
頬の薄さを見た。
目の下へ落ちた影を見た。
首の付け根が、衣の合わせから細く出ている。
板の上へ身体を置いたまま眠りに落ちても、異紀の顔には、それを不調と呼ぶ色がない。
「……ちゃんと、食べているのか」
異紀は天井の方へ目をやった。
少し間があってから、答える。
「……あんまり、腹が減らんき」
「いつからや」
「前からや」
前から。
その言葉が、床の上で乾いて聞こえた。
理一郎は異紀の顔を見た。
誤魔化すふうでも、耐えるふうでもなかった。
目も口元も、もうその形に慣れていた。
「ここ数日は」
「……ちくと入らん」
そう言って、異紀は目を伏せた。
理一郎の指の下で、脈は相変わらず細い。
理一郎は返さなかった。
異紀の喉元へ目をやる。
白い皮膚の下に、薄い影がある。
そこへ視線が触れたとき、午前の音が、遅れて別の形で戻った。
返りの遅れ。
息の浅さ。
飲み込む前に、喉の奥でひとつ止まる気配。
見てはいた。
弓を引いた分の消耗。
身体に残る重さ。
自分の声を外から聞かされる、鈍いずれ。
そういうものとして納めて、帳面の外へ置いた。
指の下で、脈がひとつ打った。
「なんでや」
異紀は、喉のあたりへ指をやった。
押さえるというほどでもなく、そこに触れて、すぐに下ろす。
「あれを弾いたあとは」
声がそこで少し止まる。
異紀は、自分でもその言い方がいちばん近いと思ったらしかった。
「……あれが、喉を掴む」
理一郎は動かなかった。
「腹の話やない」
一拍置いて、言い直す。
「食うても、落ちていかん」
――七月三日。試し引き。
四日。五日。六日。そして、七日。
理一郎の中で、日が無言のまま並んだ。
午前ごとに見てきた指先、呼吸、声の寄り方。
そこに、別の線がようやく重なる。
理一郎は、脈を追っていた指を離した。
――元々、食べる方ではなかった。
その事実が、遅れて胸の奥へ落ちた。
ここ数日は、薄いところへ、さらに削りが入っていた。
喉まで来ている。
異紀は理一郎を見た。
返事は落ちず、間が伸びた。
「……こんなもん、たいしたことない」
淡々とした声だった。
何でもないことのように口にして、そのまま流そうとする。
「これくらい、ようあるき」
理一郎はそこで初めて、書庫の壁際へ目をやった。
閉じた本が一冊、床へ伏せられている。
その脇に、薄く畳まれた紙がある。
人が何度か背を預けたらしい跡が、板の艶の違いで見えた。
今日だけではない。
昼になると異紀が席を外すことは、ずっと前から知っていた。
傍らの席が空くたび、その先を自分で閉じてきたことも、いま分かった。
「……そこまでは、拾えんかった」
理一郎はそこで息を止めた。
言葉の先に、自分の遅れが残る。
異紀は目を伏せた。
やがて、小さく肩を竦める。
「……わしも、言わんかったきね」
異紀は理一郎から目を外した。
それから、ぽつりと落とす。
「おる前で、食わん顔するがも、ちくと面倒やき」
理一郎の胸の奥で、何かがひとつ鈍く当たった。
雨を見ながら、「服も洗わんといかんと思いよった」と落とした声が、ふとよぎる。
あれも、たぶん嘘ではなかった。
けれど、そういう形にして渡されるたび、こちらの手には余白ばかりが残る。
――自分の身体は後へやったまま、人の方へ先に目が向く。
異紀の口元に、短い息が残った。
「寝たら戻る」
「今日は、もう退け」
「志岐さん」
「平気なものとして扱うな」
落ちた声は低かった。
異紀の目が開いた。
返るはずの言葉が、そこで止まった。
「ちくと横になっただけや。立てるし、歩ける」
「――そうだろうな」
理一郎は身を起こした。
視線を異紀の手首に落とす。
指の腹に、まだあの脈が残っていた。
「だが、その言い分はとらん」
理一郎は壁際の本を拾って脇へ寄せた。
それから異紀へ手を差し出す。
異紀はしばらくその手を見ていた。
やがて、肩から力を抜き、小さく息をつく。
「……大げさやねえ」
理一郎はすぐには答えなかった。
少し遅れて伸びてきた手を掴み、背を支えて立ち上がらせる。
着物越しに、骨のかたちがすぐ指に当たった。
置いてから、短く落とす。
「今日はそれを所見なしでは通さん」
異紀の口元から、笑いが引いた。
「……分かった」
その返事を聞いたとき、理一郎の中ではもう決まっていた。
休ませる、では足りない。
あの二胡は、もう弾かせない。
異紀の居ずまいは整っていた。
足元は乱れない。目も外れていない。
それでも、すぐに手を離せなかった。
理一郎は戸口へ向かった。
床に落とした本を拾い、棚の端へ収める。
廊下へ出る。
先に立ったのは理一郎だった。
階段の手前で振り返る。
異紀は二歩ほど後ろにいる。
手すりには、まだ触れていない。
古い木の階段は、上りよりも下りの方が音を返す。
一段、また一段。
理一郎の足が先に落ち、その半拍遅れて異紀の足音が重なる。
異紀の足取りは崩れなかった。
理一郎の手は、手すりを離さなかった。
衣擦れがひとつ鳴る。
そのたびに、理一郎の足が遅くなった。
一階へ下りきる。
観測室の戸を開けると、昼の光は板の上で白く薄まっていた。
高窓の明かりが、寝台の縁と床板の目を順に照らしている。
観測台は、白布を敷かれて佇んでいた。
黒塗りの箱は閉じられたまま、その中央に置かれている。
理一郎の足は、そこへ寄らなかった。
奥の寝台へまっすぐ進み、敷布の端を払った。
枕を寄せ、掛け物を広げる。
そうしてから、振り向いた。
「ここへ」
異紀は寝台を見て、それから理一郎を見た。
口元へ、薄い笑いが戻りかけた。
「観測室で寝かされるがは、ちくと仰山やない?」
理一郎は答えず、掛け物の端を整えた。
その指を見て、異紀は息を吐いた。
寝台の縁に腰を下ろす。
軋みは軽かった。
手は、膝の上に静かに収まっていた。
理一郎は、その顔をひと息ぶん見た。
「少し待て」
観測室を出て、執務室へ戻る。
水差しと杯を盆へ載せ、机の引き出しを開けた。
奥へ押し込んでいた小さな紙包みが指に触れる。
そのまま盆の端へ置いた。
戻ると、異紀はまだ横になっていなかった。
窓からの光が、まぶたの縁を白くしている。
理一郎は寝台脇の小卓へ盆を置いた。
杯へ水を注ぎ、半分ほどで止める。
「飲める分だけでいい」
異紀は杯を受け取ろうとして、少し身を傾けた。
理一郎が肩へ手を添えるより先に、自分で姿勢を戻す。
理一郎の指が、杯の縁を強く持った。
異紀は杯を受け取り、ひと口飲む。
二口目までは落ちた。
三口目で、喉の奥が止まる。
それでも飲み下し、杯を膝の上へ戻した。
「……医者の顔やねえ」
「そう見えるなら、横になっていろ」
声は静かだった。
しかし退く余地はなかった。
理一郎は盆の紙包みをひとつ解いた。
中から、小さな飴玉が転がる。
白く曇った表面が、昼の光を鈍く返した。
異紀は飴を見た。
視線が理一郎の顔へと上がっていく。
何も言わない。
その沈黙で足りた。
「今でなくてもいい」
理一郎は包みの端ごと、飴を異紀の掌へ置いた。
「口にできそうなら、あとで含め」
異紀はしばらくそれを見ていた。
やがて指先で小さくつまむ。
噛まずに、頬の内へ寄せる。
喉へ落とさずに済むものを、ただ受け入れる間があった。
「……用意がえいねえ」
理一郎は、もうひとつの紙包みを盆の端へ置いた。
「残しておく。入るときでいい」
異紀は目を細める。
「見えるところで?」
理一郎は黙って杯を受け取り、小卓へ戻した。
異紀は小さく息を吐き、飴を頬に寄せたまま、ようやく身を寝台に預けた。
白い布の上へ首筋の線が沈み、顔の薄さが、書庫で見たまま残った。
返事の代わりに、掛け物を胸の下まで引き上げる。
「今日は、席には戻るな」
異紀の目が、少し動いた。
戸の向こうの気配を、まだ拾っているようだった。
「……帳面は」
「後でいい」
異紀はしばらく理一郎を見ていた。
口元に何かが上がりかけて、途中で消える。
「……ほうか」
声は薄かった。
理一郎は掛け物の端を直した。
布の皺が、指の下で伸びた。
「眠れなくても、目は閉じていろ」
「そこまで言うがか」
「床にいた人間が、寝台で遠慮するな」
異紀は、声にしない笑いをひとつ逃がした。
まぶたを、ゆっくり下ろす。
観測室に、細い呼吸が残った。
寝台の脇の椅子へ手をかける。
座るには近い。
離れるには、まだ早い。
椅子の背が、理一郎の手の下で小さく鳴った。
寝台の脇の盆に、小さな紙包みがひとつ残っている。
まだ誰の手にも取られないまま、白い面を見せていた。
理一郎はしばらく、その紙包みを見ていた。
異紀の呼吸は浅い。
けれど、書庫で見たときよりは落ちていた。
理一郎は椅子の背から手を離した。
戸口へ向かう。
途中で一度、寝台の方へ目が戻る。
異紀はまぶたを下ろしたまま動かない。
理一郎は戸を引いた。
半ばまで閉めて、手を止める。
それ以上、引けなかった。