理玄異聞録 第5話「胡聲」|第5章 空席 ――息、掴む

理玄異聞録 第5話「胡聲」|第4章 奏者声音 ――喉、寄る 

七月七日。

「返りは残す。中で取る」

理一郎が言うと、異紀は短く頷いた。

弓が入る。
女声は立った。
立った、と書くより早く、内側が低く寄る。

女の声として開いたはずのものが、保たれるあいだに別の声へ傾いていく。途中で女声へ戻りかける。
けれど返りに入ると、また同じ方へ落ちた。

理一郎は控えへ落とす。

『中保・返りあり。』
『女声内、奏者声音へ寄る。』

異紀は目を伏せていた。
表情は崩れない。手の返しが、一定に続く。
弓の角度も、戻り方も、変わらない。

「短く」

音はすぐ切れる。
女声は立ちきらない。湿りが残る。 

『短保。』
『女声未成立。別層残る。』

「浅く。返りは入れる」

弓が戻る。
声は薄く立った。
女声の形は細い。
しかし底に、すでに知っている声の影がかかる。

『微動浅・返りあり。』
『奏者声音、薄く残る。』

短く切った音は、声になる前でほどける。
浅く動かした一本には、薄い影が残る。
返りを残すと、同じ底へ落ちる。

条件ごとに差は出る。
それでも、向かう先は揺れない。

理一郎は次の行へ移った。

「同形で」

弓が、もう一度入る。

声は立った。
今度は、立ち上がりから低い。
女の声の形を通る前に、奥が奏者の声へ傾いている。
音が保たれるにつれて、その低さが伸びる。
声の沈みが、異紀のものへと寄っていく。

理一郎の指が、紙の端を押さえた。

『同形反復。』
『立上りより奏者声音へ寄る例あり。』

異紀の息は乱れなかった。
弓へ戻るまでに、一拍ある。

理一郎の視線が、異紀の袖口のあたりへ落ちた。
すぐ、控えの行へ戻る。

「返りを短く」

女声は収まった。
終わりも浅い。
奏者の声までは届かない。

『返り短。』
『女声にて収まる。』

「返りを長く」

同じ音型で、声はまた沈んだ。
長く返る途中で、女声の薄い膜が剥がれる。

奥から出てくるのは、もう近いものではなかった。

理一郎の耳には、異紀の声として届いていた。
二胡の胴の内で細く引き延ばされ、女の声の形に巻かれる。
それでも耳は外せない。

異紀の姿勢は崩れない。
弓が入り、声が出て、また弦へ戻る。

理一郎は硬筆を置かない。

『返り長。』
『奏者声音、強し。』

それ以上削ると、いま聞いたものが零れる。

異紀の口は結ばれたままだった。
それなのに、異紀の声で鳴る。

理一郎は条件を戻した。

短く切る。
中で保つ。
返りを抜く。
返りを入れる。
浅く動かす。

女声に戻るものもある。
未成立で終わるものもある。
けれど、いったん寄ると、声は同じ底へ沈む。

控えの端に、似た語が増えていった。

『女声にて収まる。』
『奏者声音残る。』
『立上りより寄る。』
『未成立。』
『固定とは断じ難し。』

異紀はまだ構えを崩さない。
次の指示があれば、また弓を入れる。

理一郎の視線が、弓を握ったままの手へ降る。

弦のそばで、弓の毛が止まっていた。

硬筆は、次の行へ進まなかった。

(これ以上は、観測では済まん。)

次に弓を入れれば、条件ではなく、異紀の声を取りに行くことになる。

「――ここまででいい」

言葉にするまで、間があった。 

ゆっくりと、異紀のまぶたが上がる。

「……分かった」

異紀は、息をつくように短く答えて、二胡を膝へ伏せた。
棹を納め、胴を布へ戻し、弓を収める。
蓋が閉まるまで、指は迷わなかった。伏せた横顔に目が留まる。
しかし、その陰に落ちたものまでは拾えなかった。

理一郎は控えの末へ書き添えた。

『複数条件にて、奏者声音へ寄る率高し。』
『女声に収まる例あり。固定とは断じ難し。』
『なお、切り分け未了。』

切り分け未了。

紙の上では、そう置ける。
理一郎の耳の奥では、まだ異紀の声が残っていた。

***

昼の刻は、もう半ばを過ぎていた。

異紀は少し前に席を立っている。

戸の開く音も、閉まる音も、もう残っていない。
窓際の机が、紙を置いたまま沈んでいた。

理一郎は引き出しを開け、弁当箱を取り出した。
蓋を外す。

白い飯に、焼いた魚。青菜の和えもの。
朝のうちに詰めた中身は、崩れもせず、きちんと収まっている。

箸を入れる。口へ運ぶ。噛む。
舌の上で何かを確かめる前に、ひと口ごとが喉の方へ落ちていった。
魚の塩も、青菜の青さも、遅れて来る。
その遅れのあいだに、午前の音がまた戻った。

長く保つ。返りを残す。
寄る。戻る。途中で変わる。
紙へ置いた語が、まだ耳の奥から離れきらない。

理一郎は顔を上げなかった。
噛むたび、畳の目が白く見えた。
湯呑みに手をやり、茶で流す。
冷たくも熱くもない温度が、口の中の薄さを撫でて過ぎた。

食べ終えるまで、部屋の中で動いたものは多くなかった。
箸の先。茶の水面。理一郎の喉。

弁当箱の蓋を閉じる。
ことり、と鳴った音が、思ったより遠くまで行った。

そこで、机の端に積んだままの本が目に入る。
午前のあいだ、邪魔になって脇へ避けておいたものだった。
革の背に指を当てると、乾いた感触が返る。

(戻しておくか。)

理一郎はそれを取り上げて立った。

廊下へ出ると、昼の光は壁に撥ねて白くなっていた。
階段の方へ向かうにつれて、空気が変わった。
人の通る気配が薄く、古い紙の匂いが、薄く重なっている。

二階へ上がる。
手にした本の重みは軽いのに、足音が響いた。

書庫は、理一郎はふだん足を運ばない部屋だった。
本館から移された本や、行き場の決まりきらない紙束が、背の高い棚へ雑多に収まっている。

取手へ指をかけて押す。
蝶番が短く鳴る。

先に抜けてきたのは、乾いた紙と、古い木の湿りが混じった匂いだった。
目の前に、窓の明るさがひらく。
強い日ではない。
白く均された光が、部屋の奥で溜まっている。
棚の影は深く落ちず、床の上で淡く開いていた。

その明るみの手前に、影があった。
壁際に沿って、ひとり分の形が伏せている。

理一郎の息が止まる。
それが異紀だと分かるまでに、一拍要った。
いや、分かってもなお、すぐにはそう見えなかった。

窓の下の明るさのせいか、部屋のほの暗さのせいか、色の薄い横顔が、板の上へそのまま置かれたもののように見えた。

壁際にまっすぐ寄せた肩。
片腕の落ち方。
頬から顎へ流れる線が、光の届く縁で白く浮いている。
伏せたまぶたの下に、睫毛の影が細く差していた。 
離れた位置からでは、息の上下が見えなかった。

不吉なほど整っていた。
精緻な剥製を、台へ固定する前の布の上に寝かせたようだった。 
あるいは、図譜で見た標本画が、そのまま床へ抜け落ちたような。

本が、理一郎の手から滑った。
棚の脚に当たって、低い音を立てる。
その音にも、異紀は微動だにしない。

気づいたときには、床の上へ膝をついていた。
そこでようやく、異紀の髪が、頬の脇で揺れたのが見えた。

死んではいない。

理一郎は黙ったまま、異紀の手首へ指を当てた。
脈は拾えた。
速さを見るかぎり、大きく外れてはいない。 
けれど、打ち方が薄い。ひと打ちごとの浅さを、もう身体の方で馴らしてしまっているような拍だった。
理一郎の指が、止まる。

床の上で、異紀のもう片方の手がひくりと動いた。
遅れて、睫毛が震える。
目はすぐには開かない。
呼吸が少し深くなって、ようやく薄く持ち上がったまぶたの下から、色の淡い瞳がのぞいた。

「……ああ」

掠れた声だった。
異紀は理一郎の顔を見て、それから自分の手首へ落ちた指を見る。

「……見つかったがやね」

口元が、少し緩む。
起き上がろうと肩に力が入る。

理一郎はその前に、手首を押さえたまま短く言った。

「そのままでいろ」

異紀は途中で力を抜いた。
視線を外し、肩を床へ戻す。

「寝よっただけやき」

「見れば分かる」

「ほいたら、えいやろ」

理一郎はそれきり黙った。

頬の薄さを見た。
目の下へ落ちた影を見た。

首の付け根が、衣の合わせから細く出ている。
板の上へ身体を置いたまま眠りに落ちても、異紀の顔には、それを不調と呼ぶ色がない。

「……ちゃんと、食べているのか」

異紀は天井の方へ目をやった。
少し間があってから、答える。

「……あんまり、腹が減らんき」

「いつからや」

「前からや」

前から。
その言葉が、床の上で乾いて聞こえた。

理一郎は異紀の顔を見た。
誤魔化すふうでも、耐えるふうでもなかった。
目も口元も、もうその形に慣れていた。

「ここ数日は」

「……ちくと入らん」

そう言って、異紀は目を伏せた。
理一郎の指の下で、脈は相変わらず細い。
理一郎は返さなかった。

異紀の喉元へ目をやる。
白い皮膚の下に、薄い影がある。
そこへ視線が触れたとき、午前の音が、遅れて別の形で戻った。

返りの遅れ。
息の浅さ。
飲み込む前に、喉の奥でひとつ止まる気配。
見てはいた。

弓を引いた分の消耗。
身体に残る重さ。
自分の声を外から聞かされる、鈍いずれ。
そういうものとして納めて、帳面の外へ置いた。

指の下で、脈がひとつ打った。

「なんでや」

異紀は、喉のあたりへ指をやった。
押さえるというほどでもなく、そこに触れて、すぐに下ろす。

「あれを弾いたあとは」

声がそこで少し止まる。
異紀は、自分でもその言い方がいちばん近いと思ったらしかった。

「……あれが、喉を掴む」

理一郎は動かなかった。

「腹の話やない」

一拍置いて、言い直す。

「食うても、落ちていかん」

――七月三日。試し引き。
四日。五日。六日。そして、七日。
理一郎の中で、日が無言のまま並んだ。

午前ごとに見てきた指先、呼吸、声の寄り方。
そこに、別の線がようやく重なる。

理一郎は、脈を追っていた指を離した。

――元々、食べる方ではなかった。
その事実が、遅れて胸の奥へ落ちた。

ここ数日は、薄いところへ、さらに削りが入っていた。
喉まで来ている。

異紀は理一郎を見た。
返事は落ちず、間が伸びた。

「……こんなもん、たいしたことない」

淡々とした声だった。
何でもないことのように口にして、そのまま流そうとする。

「これくらい、ようあるき」

理一郎はそこで初めて、書庫の壁際へ目をやった。
閉じた本が一冊、床へ伏せられている。
その脇に、薄く畳まれた紙がある。
人が何度か背を預けたらしい跡が、板の艶の違いで見えた。

今日だけではない。

昼になると異紀が席を外すことは、ずっと前から知っていた。
傍らの席が空くたび、その先を自分で閉じてきたことも、いま分かった。

「……そこまでは、拾えんかった」

理一郎はそこで息を止めた。
言葉の先に、自分の遅れが残る。

異紀は目を伏せた。
やがて、小さく肩を竦める。

「……わしも、言わんかったきね」

異紀は理一郎から目を外した。
それから、ぽつりと落とす。

「おる前で、食わん顔するがも、ちくと面倒やき」

理一郎の胸の奥で、何かがひとつ鈍く当たった。
雨を見ながら、「服も洗わんといかんと思いよった」と落とした声が、ふとよぎる。

あれも、たぶん嘘ではなかった。
けれど、そういう形にして渡されるたび、こちらの手には余白ばかりが残る。 
――自分の身体は後へやったまま、人の方へ先に目が向く。

異紀の口元に、短い息が残った。 

「寝たら戻る」

「今日は、もう退け」

「志岐さん」

「平気なものとして扱うな」

落ちた声は低かった。

異紀の目が開いた。
返るはずの言葉が、そこで止まった。

「ちくと横になっただけや。立てるし、歩ける」

「――そうだろうな」

理一郎は身を起こした。
視線を異紀の手首に落とす。
指の腹に、まだあの脈が残っていた。

「だが、その言い分はとらん」

理一郎は壁際の本を拾って脇へ寄せた。
それから異紀へ手を差し出す。

異紀はしばらくその手を見ていた。
やがて、肩から力を抜き、小さく息をつく。

「……大げさやねえ」

理一郎はすぐには答えなかった。
少し遅れて伸びてきた手を掴み、背を支えて立ち上がらせる。
着物越しに、骨のかたちがすぐ指に当たった。
置いてから、短く落とす。

「今日はそれを所見なしでは通さん」

異紀の口元から、笑いが引いた。

「……分かった」

その返事を聞いたとき、理一郎の中ではもう決まっていた。

休ませる、では足りない。
あの二胡は、もう弾かせない。

異紀の居ずまいは整っていた。
足元は乱れない。目も外れていない。

それでも、すぐに手を離せなかった。 

理一郎は戸口へ向かった。
床に落とした本を拾い、棚の端へ収める。

廊下へ出る。
先に立ったのは理一郎だった。
階段の手前で振り返る。

異紀は二歩ほど後ろにいる。
手すりには、まだ触れていない。

古い木の階段は、上りよりも下りの方が音を返す。
一段、また一段。

理一郎の足が先に落ち、その半拍遅れて異紀の足音が重なる。

異紀の足取りは崩れなかった。

理一郎の手は、手すりを離さなかった。

衣擦れがひとつ鳴る。

そのたびに、理一郎の足が遅くなった。
一階へ下りきる。

観測室の戸を開けると、昼の光は板の上で白く薄まっていた。
高窓の明かりが、寝台の縁と床板の目を順に照らしている。
観測台は、白布を敷かれて佇んでいた。
黒塗りの箱は閉じられたまま、その中央に置かれている。

理一郎の足は、そこへ寄らなかった。
奥の寝台へまっすぐ進み、敷布の端を払った。
枕を寄せ、掛け物を広げる。
そうしてから、振り向いた。

「ここへ」

異紀は寝台を見て、それから理一郎を見た。
口元へ、薄い笑いが戻りかけた。

「観測室で寝かされるがは、ちくと仰山やない?」

理一郎は答えず、掛け物の端を整えた。

その指を見て、異紀は息を吐いた。
寝台の縁に腰を下ろす。
軋みは軽かった。
手は、膝の上に静かに収まっていた。

理一郎は、その顔をひと息ぶん見た。

「少し待て」

観測室を出て、執務室へ戻る。

水差しと杯を盆へ載せ、机の引き出しを開けた。
奥へ押し込んでいた小さな紙包みが指に触れる。
そのまま盆の端へ置いた。

戻ると、異紀はまだ横になっていなかった。
窓からの光が、まぶたの縁を白くしている。

理一郎は寝台脇の小卓へ盆を置いた。
杯へ水を注ぎ、半分ほどで止める。

「飲める分だけでいい」

異紀は杯を受け取ろうとして、少し身を傾けた。
理一郎が肩へ手を添えるより先に、自分で姿勢を戻す。

理一郎の指が、杯の縁を強く持った。

異紀は杯を受け取り、ひと口飲む。
二口目までは落ちた。
三口目で、喉の奥が止まる。
それでも飲み下し、杯を膝の上へ戻した。

「……医者の顔やねえ」

「そう見えるなら、横になっていろ」

声は静かだった。
しかし退く余地はなかった。

理一郎は盆の紙包みをひとつ解いた。
中から、小さな飴玉が転がる。
白く曇った表面が、昼の光を鈍く返した。

異紀は飴を見た。
視線が理一郎の顔へと上がっていく。
何も言わない。
その沈黙で足りた。

「今でなくてもいい」

理一郎は包みの端ごと、飴を異紀の掌へ置いた。

「口にできそうなら、あとで含め」

異紀はしばらくそれを見ていた。
やがて指先で小さくつまむ。
噛まずに、頬の内へ寄せる。
喉へ落とさずに済むものを、ただ受け入れる間があった。

「……用意がえいねえ」

理一郎は、もうひとつの紙包みを盆の端へ置いた。

「残しておく。入るときでいい」

異紀は目を細める。

「見えるところで?」

理一郎は黙って杯を受け取り、小卓へ戻した。

異紀は小さく息を吐き、飴を頬に寄せたまま、ようやく身を寝台に預けた。
白い布の上へ首筋の線が沈み、顔の薄さが、書庫で見たまま残った。
返事の代わりに、掛け物を胸の下まで引き上げる。

「今日は、席には戻るな」

異紀の目が、少し動いた。
戸の向こうの気配を、まだ拾っているようだった。

「……帳面は」

「後でいい」

異紀はしばらく理一郎を見ていた。
口元に何かが上がりかけて、途中で消える。

「……ほうか」

声は薄かった。

理一郎は掛け物の端を直した。
布の皺が、指の下で伸びた。

「眠れなくても、目は閉じていろ」

「そこまで言うがか」

「床にいた人間が、寝台で遠慮するな」

異紀は、声にしない笑いをひとつ逃がした。
まぶたを、ゆっくり下ろす。

観測室に、細い呼吸が残った。

寝台の脇の椅子へ手をかける。
座るには近い。
離れるには、まだ早い。

椅子の背が、理一郎の手の下で小さく鳴った。
寝台の脇の盆に、小さな紙包みがひとつ残っている。
まだ誰の手にも取られないまま、白い面を見せていた。
理一郎はしばらく、その紙包みを見ていた。

異紀の呼吸は浅い。
けれど、書庫で見たときよりは落ちていた。

理一郎は椅子の背から手を離した。
戸口へ向かう。
途中で一度、寝台の方へ目が戻る。

異紀はまぶたを下ろしたまま動かない。

理一郎は戸を引いた。
半ばまで閉めて、手を止める。
それ以上、引けなかった。

理玄異聞録 第5話「胡聲」|第6章 白鞘 ――糸、ほどく