理玄異聞録 第8話「木鷽」|第4章 将棋 ――手、動く

 朝の陽は、すでに分館へ続く石敷きまで差していた。
 玄関まであと数歩というところで、植え込みの下から三毛が出てきた。
 理一郎は足を止めた。

「……三福」
 三福はこちらへ寄ってくる。
「聡いな」

 理一郎は袖口から紙包みを出した。
 昨夜、鰹節を削った折に、三福の分だけ別へよけておいたものだった。
 紙を開こうとすると、三福は鼻先を寄せてきた。

「待て」

 中身を取り出し、石敷きの端へ置く。
 三福の頭が下がった。削り節は、すぐに尽きた。顔を上げた三福の鼻先が、今度は紙包みへ向く。

「もう終いや」
 三福はその場を動かなかった。
「食わせすぎてもよくない」

 理一郎は紙を畳んだ。
 餌が目当てなら、もう離れてもよさそうなものだった。
 三福の顎の下へ手を差し出す。
 指先が届く寸前、三福はするりと身を沈め、その下を抜けていった。
「…………」
 二歩ほど先で、三福が振り返った。
 理一郎は手を下ろした。
「持ってきたのはあいつだが、食えるようにしたのは俺だぞ」
 三福は植え込みへ入っていった。
 葉の間へ尾が消える。

(余計なことを言うたな)
 紙を袖へ戻しかけた手が止まった。
 木箱は、昨日から閉じたままだ。
 ただ口に出しただけか。まだ作用が残っているのか。
 ――今のは、どちらだ。
 包みを袖へ入れ、理一郎は玄関へ向き直った。

 朝から、既に暑い。
 高く結んだ髪の下、開いた首筋を風が抜けた。

◇

 分館へ入り、執務室へ向かう。
 戸は開いていた。
 普段なら、この時刻には異紀の方が先に来ていることが多い。
 けれど、今日は席が空いていた。

 理一郎は足を緩めた。
(まだか)
 鞄を自分の机へ置く。
 遅いというほどの時刻ではない。
 それでも、窓際の席へもう一度目が向いた。
 本が昨日のまま机に積まれていた。栞が一枚、斜めに飛び出している。

 ほどなく、廊下から足音が近づいてきた。
 開いた戸口に異紀が現れる。

「おはようさん」
「おはよう」

 今日は、いつもの鞄に加えて、風呂敷を抱えていた。
 理一郎は茶鼠の布包みを見た。
 包みの四隅は硬く角ばっている。

「何を持ってきた」
 異紀は自分の机の端へ包みを置く。
「ちくとね」
 置かれた包みが、机の上で低く鳴った。
「随分、重そうだが」
「持てんほどやないよ」

 それ以上は言わず、鞄を椅子の横へ下ろした。
 茶鼠の包みが、机の上に残った。
 異紀は素知らぬ顔で、本の山を脇へ寄せた。

◇

 観測室へ移ると、異紀は観測台の脇へ先の包みを置き、帳面を開いた。
 木箱は観測台の上にある。
 前日の観測を終えてから、蓋には触れていない。

 理一郎は異紀の隣から、末尾の記載を見た。
〔発現契機は開封を第一候補とするも、時点未確定〕
 異紀がその行を指で示した。

「昨日の分、まだ仮置きでえい?」
「それでいい。記憶も判断も落ちてない」

 薬湯の名も、どこにあるかも答えられた。
 木鷽の扱いも、記録の手順も崩れてはいない。

「だが、その前が利かなくなっている」

 昨日、紙の上に並べた、制止、選別、修飾。
 今のところ、それを崩す材料はない。

「ほいたら、今日は条件の方やね。いつから始まって、いつ戻るのか」

 昨日は、箱を開けたあとに発語が変わり、閉じたあとには収まったように見えた。
 だが、一度きりでは、開閉による変化かどうかはまだ決められない。

「昨日は一回やったきね」
「条件にするには足りない。蓋か、時間か。ほかに何かあったかもしれん」
 理一郎は木箱を見た。
「だから、まず再現を取る。開けたあとに同じ変化が出るか。納めたあとに収まるか」
「閉じちゅう今は?」
「納めたままなら、出ないはずだ」

 口にして、朝の石敷きの一言が頭をかすめた。
 あれにも、まだ答えがない。

「少なくとも、昨日と同じ出方はしてない」
「出ん、はどこへ書くが?」

 発語がなかった。それだけでは、作用がないとは言えない。
 その時、口へ出るものがなかったのかもしれない。

「……印がないな」
 異紀は空いた行を残して、筆を置いた。
「何もせんと始まらんき」
 異紀は席を立ち、木箱へ手を伸ばす。
「待て」
 振り返る。
「わしが開けたらいかん?」
「ひとまず、他の条件は揃えておく」

 少しの間、異紀は理一郎を見ていた。
 それから、箱へ伸ばしかけた手を下ろした。

「始めるぞ」
 理一郎は懐中時計を開く。
「啓治二十七年八月十一日、午前九時三十分。木鷽発語異常一件、第二日観測」
 筆が追いつくのを待った。
「前日観測終了後より木箱未開封。本日は、前日認めた発語異常の再現、並びに発現及び収束条件の確認を行う」

 理一郎は木箱の前へ立った。
 粉も臭いも、昨日のうちに見ている。口布は出さなかった。
 昨日、自分が何を言ったかは覚えている。
 言うつもりのなかったことまで、異紀は聞いた。あとから考え直すことも、言い換えることもできた。

 だが、出る前へは戻せない。
 どれも、自分の内にあったものだった。
 また同じことをする。
 蓋へ手を掛ける。

 ゆっくりと持ち上げた。

◇

 木鷽が露わになる。
 異紀は理一郎を見ていた。
 蓋が上がりきる前に、その胸が動いた。
 理一郎は、蓋を置くなり、顔を背けた。

「見るな」
「じろじろは見ん」

 筆は動かなかった。
 これを一つ目にはしたくない。
 ほかに、平時と比べられるものはないか。
 理一郎は、まだこちらを向こうとはしない。

 帳面は白いままだった。
 記憶を辿った。
 濃い緑の表紙。金の箔押し。
 その向こうで、戸口の理一郎は足を止めていた。

『……それを、わざわざ声に出すな』
 あの時の返しなら、覚えている。
 異紀は、似た調子の一節を拾った。

「――息は乱れ、褥は鳴りて、もはや声を抑ゆるすべも――」
「やめろ」
 早い。異紀はそこで止めた。
「えい声で言うたつもりやけんど」
「こっちが恥ずかしい」

 前は、こんな言葉は出てこなかった。
 あの時は、読む場所だの、声に出す必要だの、別のところへ話を持っていった。
 今日は違う。

「これで、どうやろ」
「何が」
「昨日と同じようなんが、今日も出た」
 理一郎は木鷽を見た。
「俺は、御免だ」

 理一郎は、昨日のことを全部覚えている。
 言わなくていいこと、知られたくないことを口にしてしまうものだと、身をもって知っている。
 それでも、箱を開けるまでは、異紀を近づけさせようともしなかった。
(嫌やったに。それでも、わしには、させんかった)
「わしで取ってもえい」

 理一郎がこちらを向いた。
「おまえはえい」
「比較にはなるろう」
 異紀は木箱に近づこうとした。

 理一郎の口が先に開いた。
「それは、いやや」
 場が止まった。
 理一郎も、自身の一言に追いついていなかった。
 観測台に置いた手の指が、ひとつずつ掌へ収まった。
「……まず、俺で取る」

 息が、喉の手前でつかえた。
(……ほんに。自分は御免や言うたのに)
 異紀は背を正した。

「さっそくやけど、いっぺん蓋してくれる?」
 理一郎が片眉を上げた。
「今、開けたところや」
「そうやね」

 理一郎がこちらを見た。
 視線がぶつかったが、どちらも外さなかった。
 先に理一郎が小さくため息をついた。
 蓋へ手を伸ばす。木の縁が重なった。息が抜け、肩から力が下りた。

◇

 異紀は台の端の風呂敷包みを引き寄せ、結び目をほどいた。
 布を広げ、中の将棋盤を理一郎の前へ据える。駒箱も取り出し、風呂敷を脇へよけた。
 箱を開け、盤へ駒を並べ始めた。

 理一郎は、並んでいく駒を目で追った。
 玉が一つ。金と銀。それに香。
 数は多くない。初めから指すための並びではなかった。

「何をしている」
「並べゆう」
「それは分かる」

 一枚。また一枚。
 玉の周りが狭くなる。一枚動かせば、逃げ道は増える。
 理一郎は膝の上で手を組んだ。
 異紀は最後の一枚を置くと、盤面を眺めて一人頷いた。

「終いか」
「まだ」
「何を確かめる気だ」
「後で言う」

 理一郎は口を閉じた。
 異紀が袖の内へ手を入れた。出てきたのは紙包みだった。
 昨日と同じ折りだが、ひと回り大きい。中のものが触れ合う音がした。

「待っちょる間、これでも食べちょって」
「観測中やぞ」
 今度は懐紙入れを取り出した。
「わしも食う」
 懐紙を一枚抜く。
「半分、こっちへ分けちょいて」

 理一郎は包みを見た。
 昨日も異紀は同じものを袖から出した。
 渡しそびれていた、と言った。

「……なぜ今だ」
「待つ間があるき」

 異紀は紙包みに懐紙を添えて、理一郎へ渡した。
 それで用が済んだというように、異紀は立ち上がった。
「ちょっと外す」
「どこへ」
「すぐ戻る」
 そう言って、足早に観測室を去っていった。

 残ったのは、閉じた木箱と将棋盤、それから手元の金平糖だった。
 理一郎は紙包みの口をひらいた。
 思ったより粒が多い。
 数えて、半分を懐紙へ移した。
 数が合わない。一つ戻す。
 懐紙の端を折り、台の端へ寄せておいた。

 外の蝉が近い木へ移ったらしい。声が大きくなる。
 理一郎は盤へ目を戻した。
 玉の逃げ場は二つ。どちらへ寄っても、その先は塞がる。
 異紀が最後に置いた銀へ目が行った。

 廊下から足音が戻ってきた。
 異紀は本を何冊か抱えていた。観測台へ下ろす。
 理一郎はその中の一冊に目を止めた。見覚えがあるどころではない。
 自分の机に置いてあった本だ。
「……それは、俺の本だ」
「知っちゅう」
 言いながら、異紀は先ほど広げた懐紙へ目を落とした。
「分けてくれたんやね」
「やれと言ったのはおまえだろう」
「もろとくね」
 懐紙を片手に、席へ戻る。
 理一郎は口を開きかけて、閉じた。

 異紀が盤の上を見た。
 次に帳面へ目を落とし、最後に木箱へ顔を向けた。
「志岐さん」
「何だ」
「もう一遍、開けてくれる?」
「何回やるつもりだ」
「分からん」
 理一郎は、黙って木箱の前へ立ち、蓋の角へ手を添えた。

◇

 理一郎の喉元が、ひとつ動いた。
 異紀は帳面へ時刻を記した。
 理一郎が席に戻ると、再び駒を一枚取り、将棋盤へ置いた。
 本に載っていた盤面を、頭の中で一枚ずつ辿る。
 駒の動きは知っているが、指したことはない。
 だから、頁の通りに並べていく。
 二枚目を置く。

「久遠」
「なに」
 三枚目。
「そこは違う」
 手は止めなかった。
「どう違うが」
 理一郎が盤の一角を指した。
「そこへ置くなら、香が利く」
 異紀は次の駒を取った。
「ほうか」
 淡々と四枚目を置いた。玉の逃げ場が減った。
「まだ置くのか」
 答えず、次を取る。
「そっちばっかりやないか」
 一枚置く。あと一手。
 異紀は最後の駒をつまんだ。
「……もうえいやろ」

 構わず盤の上へ運ぶ。
 盤へ触れるより先に、理一郎の声がかかった。

「そこへ置いたら詰む」
「そうやね」
「分かっちょってやるがか」
「よう見えちゅうね」
 異紀は手を引いた。それ以上は何も言わなかった。

 理一郎は盤を見つめていた。
 しばらくして、銀へ手を伸ばした。
「ここを退けたら、まだ逃げられる」
 一枚動かす。盤面を見て、今度は金へ指を掛けた。
「いや、先にこっちやな」
 置き直す。また少し考える。
「この香も、ここにおらんでもえいやろ」
 香をつまむ。
 理一郎は返事を待つ様子もなく、香を動かした。
 続けて、別の駒へ手を伸ばす。
 一枚。また一枚。
 塞がれていた玉の周りに、逃げ道が戻っていく。
「これでえい」
 手を離した。だが、すぐに盤へ戻る。
 金を一つつまみ、別の升へ置いた。
「……いや。こっちの方が」
 理一郎は盤面を見渡した。最後に玉の脇へ一枚寄せる。
 じっと眺めてから、ようやく手を引いた。

 異紀はそこで筆を取った。
 理一郎の目が、帳面へ移る。
「それまで書くがか」
「遊んだだけになるろ」
 筆が行を埋めていく。

「将棋は、もう終いでいいのか」
「わし、将棋はよう分からんき」
 理一郎の眉が寄った。
(納得いかない顔しゆう)
「知らんのに、俺を負かす手順だけ覚えてきたがか」
「仕事はしゆうろ?」
「まったくな」

 異紀は金平糖を一つ、自分の懐紙からつまんで口へ入れた。
「まあ、そう言わんと。志岐さんも甘いもんでも食べ」
「子ども扱いするな」
 言いながらも、指が紙包みへ行く。指先が白い一粒を拾った。
 理一郎は盤へ目を戻しつつ、もう一粒つまんだ。
 また、白だった。昨日も、同じだった。
 異紀も懐紙からもう一粒取り、木鷽へ目をやった。

「志岐さんも、そろそろ仕事して」
 理一郎が顔を上げた。
「俺はずっとしゆう」

 異紀は木箱の方へ顎を向けた。
 つられるように理一郎は立ち上がり、木鷽に蓋を被せた。
 すぐあと、短く息を吐く音がした。

◇

 理一郎が席へ戻ると、異紀が帳面へ何行か書き足していた。
 行の脇にも、短い書き込みが増えている。
 盤は、自分が直した形のまま残っている。
 途中から、異紀がただ駒を並べているわけではないことには気づいていた。

 こちらを見て、何かを取ろうとしている気配があった。
 それでも、理一郎は口を出し、最後には手まで出した。
 異紀の筆が止まった。帳面がこちらへ向けられる。
 頁を追った。

『そこは違う』
『そっちばっかりやないか』
『もうえいやろ』
 口元に力が入る。
 覚えている。どれも、自分が言った。

 改めて文字にされると、ずいぶん余計なことまで口にしている。
 一度、頁から目を外した。

「この三つは、まとめていいと思う」
「どう書く?」
 問われて、帳面へ目を戻す。

「〔盤面の進行に伴い、配置に対する訂正要求及び継続への忌避を反復して言語表出〕」
 筆が動く。『そっちばっかりやないか』も、『もうえいやろ』も、同じところへ収まっていく。
「〔その後、最終手の配置を制止。盤上を指示したのち、自発的に複数の駒へ接触し、配置を変更〕」
 異紀は言われたとおりに書き取った。

「手ぇまで出るとは思わんかった」
「それでよく最後まで通したな」
「途中で止めても分からんきね。閉じちゅう時は?」
「見てはいた。触れてはいない」
 その一行が加えられる。

 理一郎は前日の記載へ目を移した。
「これだけでは足りんかもしれんな」
 異紀が顔を上げる。
「昨日は、口だけやったきね」
「ただ、先に言葉が出てる」
「言うた勢いで、そのまま続いたがやろか」
「その可能性はある」

 理一郎は盤の方を向いた。
「手を出さんようにする方も、同じように利きにくくなったか」
 異紀の手が止まる。
 理一郎の頭に、治助の話が浮かんだ。
 異紀が前の頁をめくった。治助から聞き取った箇所を開き、頁を押さえた。
「声を荒らげて、算盤を投げた、言うちょったね」
「口が先で、手が後や」

 理一郎もその記載を見た。
 その場の勢いで算盤まで投げたのか。帳場の件でも、二つは分けられない。
 今日の盤も同じだった。
 閉じていた時も、逃げ道は見えていた。どの駒を動かせば形が変わるかも分かっていた。
 だが、自分が触る理由はなかった。手は膝の上にあった。

「……まだ決められんな」
 異紀は頁を戻した。
「これ、どう置く?」
 理一郎は帳面の白いところを見つめた。
「今日は、〔発語に続いて自発的な動作の変化を認めた〕、くらいで置いておく」
 異紀が筆を含ませた。
「前のはそのままでえい?」
「消すほどではない」
 頁を見たまま続けた。
「ただ、あれで全部だとはまだ言えん」
 異紀は余白を残して一行を書き、筆を置いた。

「さて」

 異紀は積んだ本へ手を伸ばし、理一郎の側へ寄せた。
 それから一冊を抜き取り、頁を開く。

「何をしている」
「休憩」
 異紀は頁へ目を落としたままだった。
「閉めちゅう間は出ん、とも決まっちょらんろ」
 理一郎は返す言葉を探して、やめた。

「何か出るかもしれんき、普通にしちょって」
「……そのために持ってきたのか」
 異紀が頁をめくる。
「やき、志岐さんの分もある。用意えいろ」
 寄せられた山の中に、先ほどの自分の一冊がある。

「さっきのもあるよ」
「さっきの、とは」
「『春宵枕競べ』」
 理一郎は無言で医書を引き抜いた。
 異紀もそれ以上は言わず、自分の本へ戻る。
 しばらく、頁をめくる音だけが続いた。
 活字を追いながら、時折、向かいに積まれた本が目の端へ入った。
 栞が半端なところから覗いている。

 しばらくして、異紀が本を伏せ、立ち上がった。
「茶にしよか」
 金平糖が載った自分の懐紙を、理一郎の方へ押した。
「これも食べ」
「中身は同じやろう」
「ほうやね」
 異紀は手を引かなかった。
 理一郎は異紀を見た。それから、一粒取った。
「もっと食べ」
「太らせて食う気か」
「泰西の本に、そんな話があったねえ」
 仕方なく、もう一つ手前のものをつまむ。それを見届け、異紀は出ていった。
 理一郎は医書へ目を戻した。
 開いた頁の向こうで、白と薄紅の金平糖が、懐紙に散っていた。

 小半刻ほどして、異紀が帳面を引き寄せた。
「どう?」
 理一郎は医書から目を上げた。
「何が」
「なんかあった?」
「ない」
「ほう」
 異紀は一行だけ記した。それから窓の外へ目をやった。
「まだ時間あるね。志岐さん、もう一回開けてみて」
「またやるのか」
「昼までには終わるき」
 理一郎は木箱の前へ立った。
「これで最後だろうな」
「午前はね」

 理一郎が振り返ると、異紀は本を開いたままだった。
 何も言わず、箱へ向き直る。蓋へ手を掛ける。
 木鷽が露わになる。

◇

 理一郎の襟元が動いた。
 異紀は再び帳面の端へ時刻を書いた。
 理一郎が席へ戻る。

「何をする」
「さっきの続き」
 異紀は頁をめくった。
「開けたときも何もないかもしれん」

 理一郎は再び、医書を開いた。
 観測室に、紙をめくる音が戻った。
 異紀も本へ目を落とす。茶は温くなっていた。
 観測台には、読みかけの本と、空になりかけた湯呑みと、金平糖を載せた懐紙がある。

 理一郎が頁を送る。一枚、また一枚と頁がめくられていく。
 その手が、ふと止まる。
 異紀は顔を上げなかった。ただ、目はそちらに向いた。
 積まれた本の山から、栞の端が覗いている。
 昨日、異紀が斜めに挟んでおいたものだった。

 理一郎の視線がそこへ落ちた。
 一度は医書へ戻り、一行ほど追う。また栞を見る。
 手が伸びた。栞を抜き、向きを直して挟み直すと、医書へ戻った。
 少しして、懐紙から一粒つまんだ。白だった。
 頁を二枚ほど送って、もう一度。
 今度も白だった。
 異紀は本へ目を落としたまま、脇の手控えへ手を伸ばした。
 余白に、短く二つだけ書いた。

『白』
『白』

 昼の鐘までは、もうさほどない。
「そろそろ、終わりにしよか」
 理一郎が医書を置き、木鷽に蓋を被せた。
 すぐあと、短く息を吐く音がした。
 まただった。

◇

 理一郎は席へ戻った。
 傍らでは、異紀が積んだ本を片づけ始めていた。そのうちの一冊を手に取る。
 先ほど、理一郎が栞を差し直した本だった。
「そういや」
 異紀は本の間から覗く栞へ目を落とした。
「これ、昨日からずらして挟んじょったき」

 理一郎は本を見た。斜めに覗く端は、朝から何度か目に入っていた。気にはなった。
 だが、他人の本だ。触る理由はない。
 にもかかわらず、蓋を開けた自分は、手を入れた。
 異紀へ目を移す。
「……そういうことか」
 異紀は本を重ねた。
(……どこが休憩や)
 昼の鐘の音がした。