理玄異聞録 第8話「木鷽」|第3章 発語 ――抑え、緩む

 理一郎の言葉を書き留めようと、異紀が帳面へ戻りかけた、そのときだった。
 異紀の袖が観測台の縁をかすめきらぬうちに、背後から低い声が落ちた。

「離れるな」

 帳面へ向けた肩が、そこで固まった。遅れて振り返る。
 拡大鏡を置きかけた理一郎の手が、宙に残っていた。何かを継ごうとしたのか、唇が動いた。声にはならなかった。
 理一郎は、自分の口から出た言葉を測りかねているような目をしていた。

 どちらも、木鷽を見ていなかった。
 異紀は台の端へ手を添えて言った。

「ここにおる」

 理一郎の手が、ようやく下りた。
 拡大鏡が観測台へ置かれる。こつ、と台が鳴った。
 理一郎は重く息を吐いた。

「……言うつもりやなかった。だが、俺の内から出た」

 その瞬間、記録も、その先も、異紀の頭から抜けた。

 ――変わらぬ顔の底まで、同じであるとは限らない。
 それくらいは、異紀も知っていた。
 理一郎の沈黙のそばに、異紀は立ってきた。

 厭う様子を見せず隣にいてくれた。
 それだけでよかった。
 けれど、その奥から声が出た。
 拒絶ではなかった。

 これまでの沈黙を越えてきた。
 異紀は台へ添えた指先で、木の硬さを確かめた。

「……そうやったか」

 理一郎は木鷽の方を向いていた。
 その横顔へ、それ以上何を返せばよいのか、まだ決まらなかった。
 声に混じった登滄の音が、耳に残っている。
 理一郎の顎は、まだ固く引かれていた。

(今日、見ゆうのはわしの方や)
 台から手を離す。
『言葉にしたことは覚えておりますが、口へ出すつもりはなかった』
 昨日、治助から聞いた言葉が、いま目の前で起きたことと重なった。

「女中頭さんにも、覚えはあったがやろうか」
 異紀は木鷽へ目を戻し、嘴の合わせ目を追った。

「志岐さん。嘴、左右でずれちゅう?」
「いや。先まで合うちゅう。右の根元だけ、わずかに隙間がある」
 返事は早かった。
「知らんことを、外から入れゆうわけでもないね」
「……そうやな」
「出す前に止めるところが、緩むがかもしれん」
 理一郎の目が、わずかに細くなった。
「発語前抑制の低下か」
「ひとまず、そう書いちょく」
「仮や。まだ決めるな」

 高窓から入った風が、帳面の頁を一枚持ち上げる。
 紙はめくれず、元の場所へ戻った。

 異紀は顎へ手をやった。
 泣き出した者。腹を立てた者。癇癪を起こした者。
「子どもに戻る、わけではないね」
 理一郎の眉が寄った。
「ああ。判断は残っちゅう」
「そうやね」
「記憶もある。手順も分かる」
 理一郎は木鷽を見たまま続けた。
「何を言うたかも、分かっちゅう」
 異紀は、その言葉の終いを聞いた。
(郷里《くに》の言葉が抜けきれておらん)

「大人の顔が先に剥げるがやろか」
 彩色の褪せた胴の先で、嘴だけが鈍く光っている。
「今のは、かなり削ったな」
「芯は残したつもりや」
(頭で要ると分かっちょっても、口が拒むもんなら)
 理一郎の周りに増えたものをめぐる、昨日のやり取りが浮かんだ。

「この前、本館の人が来ちょったね」
「おったな」
「目ぇ赤うして、胃を押さえちょった人」
「二日酔いやった」
 返事は、まだ普段の範囲にある。
「志岐さん、薬を出しよった」
「職務上の処置や」
「飲んだ人、えらい顔しちょった」
「あれは、えぐみが残る」
 異紀は、もう一段踏み込んだ。

「普段の志岐さんなら、顔にも出さんで飲むろう」
 理一郎の顎が引かれた。
「おまえ、まさか」
 異紀は観測室の戸口へ目をやった。半歩そちらへ動く。

「やめろ」
 足を止めた。
「……今のでも、取れてはおる」
 拒みの方が、理屈より先に出ていた。
 これも、先ほどの仮説を支える一例にはなる。

「書くな」
 今の言葉も、記録にはできる。
「やき、別の形にする」
 結ばれた理一郎の唇を見た。
(これは、使わん)

「薬、こっちへ持ってくるで」
 異紀は返事を待たずに観測室を後にした。
 執務室の壁際にある薬棚から、大小二つの入れ物を下ろす。
 一つは、着任した頃からある小ぶりの薬箱。
 もう一つは、気づいたときには棚の一角へ当然のように収まっていた薬籠だった。引き出しがいくつもついている。本来は、医者が往診へ提げていくものなのだろう。持ち手を上げると、腕へずしりと重みがかかった。

 大小二つを抱えたところで、つづらを選ばせる鳥の話をふと思い出した。
(あれは雀やったか)
 片方には宝、もう片方には化けもの。
 あの鷽が出すものは、まだ分からない。
 それを、今から確かめる。
 観測室へ戻り、台の上に並べて置いた。

「どっちや」
 理一郎が、一瞬、薬籠の方を見た。
 異紀がそちらを引き寄せると、理一郎は軽く唇をかんだ。
(……素直には、言わんか)

 蓋を開けると、紙包みと小瓶が仕切りの中に並んでいた。
 目にしたことのない包みばかりだった。
 上の段から一つ取り上げる。
 顔は上げずに理一郎の方を見る。
 理一郎の目は、異紀が手にした包みを追ってはいたが、表情に変化はない。
 これは違う。
 包みの向きを変えて戻す。
 次の引き出しを開ける。
 そこでも一つ取り上げ、今度は端を揃えずに置いた。
 よそ行きの顔をしていた薬籠の中が、徐々に所帯じみていく。

 何度目かで、背後から声がした。
「黄連解毒湯や」
 向きを違えた包みが、引き出しの中で重なっている。
 理一郎なら、放っておけない並び方だった。
(とうとう、見ておれんなったんやね)
「どれや」
「二段目。右奥」
 異紀が手を伸ばす。
「黄色い包みのやつ?」
「半分でえい」
 包みを持ったまま振り返る。
「それでえいが?」
 口へ入れるだけにしては、半包は多く聞こえた。
「濃いのは、いやや」

 言い終えると、その目が包みから外れた。
 異紀の口から、息がひとつ漏れた。

「笑うたな」
「加減は、こっちで見ちょくき」
「あとで、どれだけ入れたか言え」
 異紀は黄色い包みを持ち直した。
「すぐ戻る」

 湯沸所へ回り、湯を運んだ。
 紙包みを半分開く。黄褐色の粉が湯へ落ち、表面に細い輪を作った。箸を入れると、底から濁りが上がってくる。
 立った匂いに、理一郎が顔を背けた。
 異紀は湯呑みを観測台の端へ置く。

 湯気が二人の間を上がり、北窓の方へ流れていく。
 何度か細長い白がほどけるのを見届けた後、理一郎が口を開いた。

「せめて、甘いものが先や」
 異紀の手が止まる。
 今しがた出た言葉が、湯気の消えたところに残っていた。
「何やったらえいが?たとえば」
 異紀は首を傾けた。
「団子とか、饅頭とか」
「練り切り」
 言ってから、理一郎の目が伏せられた。
 窓の外で蝉が鳴く。一度途切れ、別の木からまた声が上がった。

「練り切りかあ。さすがにすぐには用意できん」
「分かっちゅう」
 短く返したあと、理一郎は口を閉じた。
「けんど」
 異紀は袖の内へ手を入れた。指の先が包み紙の角に触れる。
 持ち歩いているうちに折り目が柔らかくなり、端が丸くなっていた。
「こんなんならあるで」
 小さな紙包みを台の上へ出す。中で、乾いた粒が触れ合った。
「……なんで」
 異紀は包みの端を開いた。
「この前、飴くれたろう」
 あのとき、寝台の脇にも、紙包みがひとつ残されていた。
「好きかと思うて」
 白と薄紅の金平糖が、紙の中で鳴った。
「渡しそびれちょった」
 理一郎はしばらく、開いた包みを見ていた。
「……覚えちょったがか」

 忘れるはずがなかった。
 二胡に喉を掴まれた異紀に、押し付けるわけでもなく、何か口にしろと渡してくれたものだった。
 飴の味より、掛け物の端を直した手の方を覚えていた。
「ずいぶん、沁みたきね」
 異紀は紙包みを理一郎の方へ滑らせた。
 理一郎は少し間を置いて、それを手元へ引いた。

「ありがとう」

 その言葉一つで、胸の奥にあったものがほどけた。
(届いたなら、それでえい)

 理一郎は白い金平糖をつまんだ。
 口に入れる。歯の奥で粒が割れた。残った甘みを飲み込んでから、薬湯を取った。
 ひと口、含む。喉が動いた。
 目の端が歪む。

「にがい」
「そう、出るがやね」
 理一郎は口の中の苦味を飲み下し、手に残った薬湯を見た。
「……役に立ったろう」

 昨日、口布を前にして置いたままになった話が、こんなところへ戻ってきた。
(まだ抱えちょったがか)
 異紀は、緩みかけた口元を結び直した。
 湯呑みを持つ理一郎の指に、力が入った。

「書くな」
「まだ筆も持っちょらん」
 理一郎は、湯呑みを台に置いて、木鷽へ目を戻した。
「ああ、いやや」
 片手で額を覆った。

◇

 薬湯を脇へ退け、別の湯呑みに少し冷ました湯を注ぐ。
 顔を覆っていた手が下りる。理一郎は湯をひと口飲んだ。
 しばらくして、紙包みへ手を伸ばす。
 白い粒だった。
 ひとつを舌へ置き、また湯を啜る。湯呑みを戻したあと、もうひとつ取った。
 三つ目も白かった。
 異紀はそのことには触れず、帳面を引き寄せて筆を取った。

「今の、鷽の影響やと思う?」
 理一郎は金平糖を口に含んだまま、木鷽へ顔を向けた。
「ほかの要因は考えにくい。だが、まだ確定はできん」
「開ける前は、まだ出ちょらんかったね」
「おそらくな」
「蓋を開けて、木鷽を見て、わしを呼んだ。わしが帳面を取りに行こうとした時には、もう――出ちょった。そう見てえい?」
 理一郎は湯呑みに残った湯へ目を落とした。
「……少なくとも、あの時には」
 異紀の筆が、帳面へ一行を加えた。

「始まりは、開けた時がいちばん近いが?」
「第一候補や。蓋を上げ始めた時か、完全に外した時か、その後かは切り分けられん」
「今も続いちゅうやろ」
 四つ目を取ろうとした指が、紙包みの縁で止まった。
「薬湯への反応を見る限り、可能性は高い」
「覚えちゅう?」
「全部な」
 異紀は帳面へ筆を戻した。

「問いの意味も分かっちゅう。考えは回る」
 理一郎はこめかみに手を当てた。
「言うたあとなら、何を言うたか考えられるし、言い直すこともできる。問題は、その前やな」
「――口へ出す前に、抑えたり整えたりしゆうところか」
「その二つが利きにくくなっている。現時点では、そう見るのが妥当や」
 異紀は筆先を次の頁に移した。

「さっきの『にがい』は、どう書く?」
 理一郎は口元を引き結んだ。観測台の前で見せる顔に近い。
 ただ、いつもより整いすぎていた。
「〔舌根部への強い苦味刺激が、発語前の随意的制止を経ず、直接言語表出へ移行した〕」
「『いやや』は?」
 間髪を入れず、理一郎は続けた。
「〔同刺激により惹起された不快情動および忌避傾向が、随意的統制を経ず、直接言語表出へ移行した〕」
 筆が文末で止まる。
(よう、そこへ逃がしたもんや)
「そっちは、そう書く」
 最後に、点を置いた。

 理一郎が湯呑みに手をかけた。
「気づいちゅうと思うけど、登滄の音も出ゆう」
 持ち上げた湯呑みが、口元で止まる。
「……分かっちゅう」
 その言葉にも、登滄の響きがあった。
「平時にも出る。これだけで作用の所見にはするな」
「それが、いつもより濃うなったことは?」
 理一郎は湯を飲んだ。
「〔本人に自覚あり。平時との差異は継続して観察〕」
「それでえい?」
「問題ない」
 異紀は最後の一行を書き足し、帳面を上から読み上げた。

「〔開封後、観測者志岐理一郎に平時と異なる発語を認む。木鷽の影響による可能性高し。発現契機は開封を第一候補とするも、時点未確定。記憶、理解及び判断、現時点にて明らかな低下なし。発語前の随意的制止、語の選別及び修飾に減弱の疑い。郷里の語調、平時より強く現る。本人に自覚あり。継続観察とす〕」
「それ以上は、まだ広げるな」
「仮置きにしちょく」

◇

 異紀が筆を置いたところで、窓から入り続けていた風が途切れた。
 持ち上がっていた頁の端が、台の上へ伏せる。
 葉擦れが消え、庭木の蝉の声が、開いた窓から容赦なく届いた。

 理一郎が眉を寄せ、首を軽く振った。
 低く束ねた髪が肩を擦り、襟足へ戻る。

「暑い」

 襟元へ指を入れ、首に沿う毛先を払う。
 結び目へ手をやり、束ねた根元を、粗く掴んだ。

「切りたい」
 言葉が出たあと、口元が固まった。
「いや、駄目や」
 そう言うと、顔を伏せた。

 窓の外で、ひとしきり続いた鳴き声が止んだ。
 髪紐を握った指は、結び目から離れなかった。

 その髪のことを、理一郎は言わず、異紀も訊かずにきた。
 どちらもその先には触れずにきた。

 それでも、見えていたことはある。
 異紀が渡した紐は、毎朝、理一郎の結び目にあった。

「結っちゃろか?」
 理一郎が異紀を窺うように見た。
「……やるがか」
 異紀の返事が、ひとつ遅れた。
「ほいたら、前向いて」

 理一郎は椅子を少し引き、異紀へ背を向けた。
 異紀は、その端へ初めて指をかけた。紐を引くと、巻きが緩んだ。
 絹が、手の中に戻ってきた。
 長い黒髪が肩を越え、背へほどけていく。
 うなじの際から髪をすくい上げる。湿気を含んでいても、毛束はまとわりつかず、梳き目に沿って分かれた。油の重さも残っていない。その奥から、すうと冷たいものが鼻を掠めた。

「よう手入れしちゅう」
 理一郎の肩が強張った。
「黙っちょれ」
 異紀は、髪を集め直した。いつもより高い位置へ持ち上げ、外した紐を二度巻いて結ぶ。片寄りを直し、結び目を締めた。
「きつうない?」

 理一郎は首を傾けて具合を確かめた。結び目は動かない。
 異紀が手を離すと、理一郎の手が後ろへ上がった。結び目には触れず、空いた襟足を撫でる。

「……涼しい」
 理一郎は目を細めた。

◇

 午前の記録を照らし合わせ終えた頃、正午を告げる鐘が鳴った。
 筆を置く。

「茶、淹れてくる」

 湯沸所へ入り、鉄竈から薬缶を取り上げ、茶を淹れた。
(よう湯を汲む日やな)
 普段は、朝先に来た方が鉄竈に火を入れ、あとは湯を取るたびにどちらかが見た。昼にも火を保たせるか、落とすかを決め、帰り際の確認だけは欠かさない。

(今日は、わしが気ぃつけんと)
 茶が少し冷めるのを待ち、湯呑みを二つ盆にのせた。
 執務室へ向かい、一つを理一郎の机へ置き、自分の席へ腰を下ろした。
 机の脇に伏せていた本を開く。
 腹は減っていなかった。
 書庫へ上がる用もなかったし、今日は理一郎を一人にしておく気にもならなかった。
 頁を半分も進まないうちに、目の端に、見慣れぬものが映った。
 その影を追うように異紀が顔を上げると、紺の布包みが音もなく机に置かれた。

「おまえの分や」

 理一郎が、こちらを見ていた。包みを置いた手は、すぐには引かなかった。
 頁の端で、異紀の指が止まった。返す前に、理一郎は続けて言った。

「食べてほしい」

 ――食べぬことを隠すために書庫にいたと知られてから、異紀は昼に席を外すのをやめた。
 腹が減らなければ、執務室で本を読んだ。
 書庫へ上がるのは、読むためか、眠るためになった。
 床で横になっているところを見られ、『寝るなら寝台を使え』と咎められたこともある。

 けれど、昼餉を食えとは、言われなかった。
 一度も、言われなかった。
 理一郎は、毎日弁当を持ってくる。借家で一人住まいだと聞いていた。
 手伝いも頼まず、家のことは全部ひとりで回しているという。弁当も自分で作っているらしかった。

 異紀の机の上にある布は、理一郎の弁当包みと同じ色をしていた。
 ただ、こちらへ置かれたものは、ひと回り小さい。
 異紀が包みへ目を落とすと、理一郎の喉が一度動いた。

「食べられるところだけでえい」

 その言い方には、覚えがあった。
 顔を上げる。理一郎は、それ以上何も足さなかった。
 異紀は本を閉じた。

「……ほいたら、少しずつもらう」
 包みを引き寄せると、理一郎の肩がわずかに下がった。
「昨日の鰹節や。削った分が余ったき」
 理一郎の目が自分の机へ戻った。
「俺のを作るついでに詰めただけや」

 異紀は、布を解いた。弁当箱の蓋を外す。
 飯の間には、醤油を含ませた削り節が薄く挟まれていた。卵焼きが二切れ、青菜と煮物が添えられている。飯は浅く、菜も数口ずつ。
 気兼ねなく、途中で箸を置ける量だった。

(これが、「ついで」ながか)

 寝台で桃を食べた日のことが浮かんだ。
 一切れ目を飲み込んだあと、次に差し出されたものは、前より薄く切られていた。
 弁当箱の中にも、あの時と同じ加減があった。
 異紀は箸を取った。持つ手が震えそうになるのを堪えた。

 長く、何を受けても表へ出さぬことを求められてきた。表情も、所作も、抑えるのは慣れている。考えるより先に、身体の方がそうする。
 何が遭っても、平然と振る舞ってきた。

 ……今は、「ついで」で作ったという弁当を口に運ぶだけだ。

 なのに、それが。
 それだけのことが。

 異紀は、ふ、と息を落とした。
 息とともに余計な力を抜く。
 理一郎には、笑ったように見えたはずだ。

「ふくにやったつもりやったがやけど」
「おまえが俺に渡したがやろ。それに、ふくやない。三福だ」
 理一郎は、自分の包みを解き始めた。
「あれは、猫にやるには上等すぎる」
「えいもん食わせてやりたかったんや」
「加減がある」
「人も、猫のおこぼれにあずかれるき」
「普通は逆やろう」
 異紀は卵焼きを一切れ口にした。
「うまい」
 掛け値なしの本心だった。

 理一郎の口元がほどける。
『俺のを作るついでに詰めただけや』
 一度口へ出た言葉は、あとから言い直せる。
 午前にまとめた通りだった。
(書けんね、これは)
 異紀は卵焼きの残りへ箸を伸ばした。

◇

 食べ終えた弁当箱に蓋をし、異紀は布を結び直した。
 向かいでも、理一郎が自分の包みを片づけている。

「戻ろか」

 二人は観測室へ移った。
 木鷽は、昼前と同じ場所にあった。
 被せ蓋は観測台の脇へ置かれ、古びた鳥が白布の上に露わになっている。
 北窓から入る光は朝と大きく変わらず、木肌の凹凸と褪せた彩色を均していた。

 異紀は帳面を開いた。
 形状欄には、まだ空きがある。観測台の端には物差しと秤が揃えてあった。
 心臓標本の時も、声が先だった。
 箱を開けたところから事が動き、形や寸法をきちんと取ったのは翌日だった。
 今回は、蓋を開けるなり理一郎の方が観測される側へ回った。

 木鷽そのものは、まだ測っていない。
 異紀は帳面から顔を上げた。

「計測する?」
 理一郎の眉が寄った。木鷽を見て、次に計測器具へ目をやる。
「……取っとくか」

 異紀は筆を手に取った。
 理一郎は木鷽の方を向いてはいる。
 しかし、立ち上がる気配がない。
 いつもなら、もう物差しを手に、計測結果を口にしている頃だった。
 今はまだ道具にも触れていない。

「癇癪起こした人もおる言いよったね」
「そうやな」
「志岐さんも、持ったらいきなり放るかもしれん」
「せん」
 返事は早かった。
 理一郎はもう一度、木鷽へ目を向けた。手は膝の上にあった。

「ほいたら、今日は素描にしとく?」
 理一郎がこちらを見る。
「わし、午前の分を清書しよるき」
「……それでいく」

 理一郎は紙と硬筆を取り、椅子を木鷽の方に向けた。距離はあまり詰めなかった。
 それからしばらく、二人とも書いた。
 紙の上に、木鷽の輪郭が増えていく。
 丸い頭。背から腹へ落ちる線。尾羽を模した刻み。喉元に残る朱。

 木目を拾い、嘴の根元へ線が移る。
 異紀は午前の脇紙を横へ並べ、帳面へ移した。
〔発語前の随意的制止、語の選別及び修飾に〕

「ここの続きは『減弱』でえい?」
 前の文を読み上げると、理一郎は頷いた。
「そのままでえい。だがまだ断定できん」

 異紀は筆をすすめた。目の端で、硬筆が動き始める。
 次の紙には、嘴の根元が大きく描かれていた。
 木と角質の継ぎ目。上嘴の被さり。下の縁。鼻孔の位置。
 午前に見たものと違わない。
 異紀が覚えているより、細かいところまで線になっていた。

「よう拾うちゅうね」
 理一郎の目が一度上がる。
「先に拡大鏡で見たろう」
「そんな細うまで残るが?」
「一度見れば十分や。ここからでも形は取れる」
「わしは、そこまで覚えちょらんよ」
 硬筆の先が、紙を離れた。
「……俺は、こういうのは忘れん」
(……今日やき、かもしれん)
 木鷽が緩めるものは、否むための言葉でもあるようだった。

 異紀は清書へ戻った。
 紙を擦る音が重なった。

 窓の外では蝉が鳴いている。
 北窓の明るさの下で、木鷽の姿は昼前と変わらない。

 理一郎は角度を変えて形を取り、見えているものを線へ移していった。
 線は途切れなかった。
 ただ、椅子と木鷽との間は最後まで縮まらなかった。
 やがて、理一郎が硬筆を置いた。

 異紀も行の末を書き終える。
 素描が数枚、理一郎の前に重なっていた。あとから数値を書き込めるように、空けてあった。
 異紀は筆を置き、観測台の脇にある木蓋を見た。

「一遍、蓋被せてみる?」
 理一郎は木鷽へ目を向けた。
「そうやな」
 だが、席を立つ代わりに低く言った。
「近づきとうない」
「なら、わしがやる」
 席を立ち、観測台の脇へ回る。木蓋の両側へ手を掛けた。

「片側から起こすな」
 脇から声が飛んできた。
 異紀は、蓋を真上へ持ち上げた。
「木鷽に当てるなよ」
 鳥の上へ運ぶ。
「右が下がっちゅう」

 異紀は腕の高さを直した。
 言われた分だけ寄せる。

「そこ。真っ直ぐ下ろせ」
「注文が多いねえ」
「見えゆうことを言うて何が悪い」
「やるがは、わしやろ」
「任せたがと、雑にやってえいがは別や」
 異紀の口元が緩む。
「はいはい、観測官殿」
「そこ、左」
「細かいねえ」
「当てたら直せんろう」
「それはそうや」

 異紀は慎重に腕を下ろした。
 木鷽の頭が影へ入る。喉元の朱が隠れ、胴が見えなくなる。最後に嘴の先が箱の内へ消えた。
 蓋の縁が底板へ重なる。木が、小さく鳴った。
 そのすぐあと、息の抜ける音がした。

「手を離せ。下がれ」

 思ったよりも声が近かった。
 異紀が振り返ると、理一郎はすぐ後ろにいた。眉間に皺が寄っている。
 目は異紀の手と、閉じた木箱の間にあった。

「あとは俺がやる」

 異紀は蓋から手を離し、身を引いた。
 空いた場所へ理一郎が入る。蓋の角へ手を置き、底板との合わせを見る。四辺に浮きがないことを確かめた。

「これでいい」

 理一郎は箱から手を離した。
 異紀は帳面に、蓋を被せた時刻を書き入れた。

◇

 蓋が下りた時、先に目へ入ったのは木鷽ではなかった。
 箱へ手を掛けたままの異紀だった。
 それまでは、自分が近づきたくない方が先だった。
 蓋が下りてからは、異紀をそこへ置いておく方が気になった。

 測れたのは、その差だけだった。
 ――少なくとも、同じではない。
 理一郎は席へ戻った。

「計測は明日に回す」

 異紀は数値欄を空けたまま、帳面を閉じた。
 理一郎は素描をまとめて、端を揃えた。
 それ以上、今日のことを二人でまとめ直すことはしなかった。

◇

 紙の字を追うには灯りが要る頃になった。
 異紀は鉄竈の火を見に行った。
 理一郎は観測室の戸を確かめ、執務室へ戻る。
 窓の掛金。薬棚の戸。机上に残した書類。いつもの順に見て回った。
 湯沸所から異紀が戻ってくる。机の脇から鞄を取り、昼の紺の包みへ手を伸ばした。

「それは、置いていけ」
 異紀が振り返る。
「洗うて返すよ」
「いい。持って帰る」
「そう?信用ないねえ」

 返事の代わりに、理一郎は包みを受け取った。朝より軽くなっている。
『――食べてほしい』
 朝、自分で詰めた時には、口へ出すつもりなどなかった。
 理一郎は包みを自分の鞄に入れ直した。鞄の中で、二つの包みが重なった。

 ふと、空いた手を後頭部へ回す。
 昼前から高い位置にある結び目へ触れた。紐は解かなかった。

 異紀が鞄を持ったまま、こちらを見ている。蓋を閉めてからの自分を確かめているのだと分かった。
 箱へ近づけた。手順も崩れていない。
 戸締りも、火の始末も終わっている。
 それ以上を、今ここで決める必要はなかった。
「今日は終いや」

 異紀は頷き、先に廊下へ出た。
 理一郎は執務室の中を一度見てから、戸を閉じた。