名のつかないものを観て、記録に残す。
観記掛は、そういう分室だった。
その夏、京洛の南寄りに、夜ごと灯の消えない座があった。
怪異と呼ぶには人の手が多く、ただの賭場と片づけるには、目の出方が妙だった。
表は遊芸、奥で賽が立つ。
その話が観記掛へ届くまでに、いくつかの局を経ていた。
◇
七月の京洛は、朝から暑い。
昼の白さが、まだ来ないうちから窓の外に溜まっていた。
執務室の戸は、風を入れるために開けてある。
それでも、紙の端は動かない。
開いた戸口の柱が、控えめに叩かれた。
乾いた音だった
廊下の向こうで足音が近づいた。
一度、止まる。
理一郎は顔を上げた。
異紀が冊子を伏せる。
その人影は、そこで軽く頭を下げた。
「朝からすんまへん。文部局調査課の早瀬でございます」
入ってきたのは、男だった。
額には細かな汗が浮いていた。
二十代の後半か、そのあたり。衣の合わせはきちんとしている。
役所にいる者の匂いがするが、まだ浅い。目の奥が定まらない。
理一郎は立ち上がる。
「志岐です。こちらは久遠」
異紀も軽く頭を下げた。
早瀬の目が、礼を終えた異紀の顔に残り、遅れて手元へ落ちた。
早瀬は勧められた小卓の前へ腰を下ろすなり、懐から折り畳んだ書付を取り出した。
「先に申し上げます。正式な回付ではありません」
異紀の片眉が上がった。
「朝から、えらい荷やねえ」
早瀬は肩をすくめた。否定はしなかった。
「高槻主事から回った報告書を拝見しました」
「二胡の件か」
「はい。あれを読んで、思うところがありまして」
早瀬は折り畳んだ書付の端を押さえた。
「それと、西村さんからも話がありました。分館の観記掛なら、一度聞いてみてもええんやないか、と」
「西村さん、またこっちへ荷札を付けたがやね」
早瀬は苦笑した。否定はしなかった。
理一郎は早瀬へ視線を戻した。
「要件を」
早瀬は小さく頷いた。
「京洛の南寄りに、夜ごと人の集まる座があります。表向きは遊芸の席です」
早瀬は書付を開いた。
「酒席、唄、手習いの余興。ただ、座を移すと、賽が立つ」
「表は遊びで、奥だけ目ぇが変わるがか」
「ええ。そこまでは、まあ、珍しい話でもありません」
早瀬は額の汗を指で拭った。
「そこは所轄が目ぇつぶっている座だそうでして。表で騒がん限り、酒席の中の余興で済む、と聞いております」
紙の折り目が、湿った指の下で沈む。
「ただ、近ごろ、妙な話が続いております」
理一郎は書付を受け取った。
小さな字で、聞き取りが並んでいる。
――はじめは勝った。
――あとで大きく取られた。
――隣の客は勝って帰った。
――警吏が来る前の日から、場が静かになった。
――卓下に箱。
――三賽。
理一郎は最後の二行で目を止めた。
「三つ賽か」
「ええ。丁半より遊びの多いものですな。場ではチンチロと呼んではるようです」
早瀬は、聞き取りの筋をたどるように続けた。
「聞き取りでは、はじめに勝つ者が多い。あとで張りを大きくさせる。負けた客は、だいたい同じところで落ちる」
異紀の口元が、声になる前にほどけた。
「遊びに見せて、道筋は決まっちゅう」
「そう見えます」
早瀬は頷いた。
「この件は、先に警務方へ回っております。けど、顔が割れてまして」
膝の上で異紀の指が浮いた。
「人が来る前に、座の方が襟を正すがやね」
早瀬は一瞬きょとんとして、それから肩を揺らした。
「まさに、それです。踏み込む頃には、酒席も賽も帳面も、みな綺麗な顔をしております」
理一郎は書付を小卓へ戻した。
「それで、なぜ文部局へ」
早瀬は、言いにくそうに顎を引いた。
「警務方に、うちの上役の古い知己がおりまして。そちらから話が来ました。調査課いうても、こちらで扱うのは物や習俗と、その来歴です。賭場の内を探るのは、本来うちの仕事やありません」
異紀が、早瀬を見て言う。
「つまり、回ってきた荷を、さらに回しに来たがか」
「……そうなります」
早瀬は、理一郎と異紀を順に見た。
「観記掛のお二人なら、場の癖を拾えるのではないか、と」
理一郎は目をすがめる。
「……ずいぶん荒い荷だな」
「承知しております。耳が痛いところです」
早瀬はそう言って、すぐに背を戻した。
理一郎は、一つ息をつく。
「……何を見ればいい」
「場の偏りを一度、見ていただけませんやろか」
早瀬は膝の上で指を組み直した。
「不正があるのか。あるなら、どこへ傾くのか。手口を暴けとは申しません。そこは警務方と調査課で引き取ります」
理一郎の声が、一段沈んだ。
「こちらが賽に触ることになる」
「少額で結構です。費用はこちらで持ちます」
異紀が、すっと口を挟む。
「勝ったら?」
早瀬が、言葉に詰まった。
異紀は涼しい顔で続ける。
「負けたら費用。勝ったら?」
早瀬は目を伏せた。
「……いったん、こちらの預かりということで」
「そこ、はじめに決めとかんと揉めますえ」
異紀の口調が、柔らかくなった。
理一郎の視線が、異紀へと動く。
早瀬は声色に気づいたようだった。だが表情は、すぐに仕事の色へ戻った。
「お二人は、まだあの座に知られておりません。
目の慣れた者では、かえって見落とすこともあります。
そこが、こちらとしては助かります」
早瀬は、言葉を継ぎ直した。
「ただ、今後のこともあります。顔を覚えられるのは、避けた方がよろしい」
早瀬は視線を小卓の木目へ落とした。
「大きく変える必要はありません。あとで同じ者やと辿られん程度に」
異紀が立ち上がり、理一郎の後ろへ回った。
髪の結び目を眺める。
「髪は隠さん方がえいやろね」
理一郎が、肩越しに振り返る。
「……これで通ると思うか」
「夏やき。覆うても目立つ。
結い方はそのままでえい。横を少し落としたら、顔の印象は変わるろう」
早瀬が、ほう、と小さく息を漏らした。
異紀は理一郎の肩越しに、今度は着物の色を見る。
「服は地味でえい。鼠か、鈍い藍か。
きれいにしすぎたら官の人やし、汚しすぎたら志岐さんが壊れる」
「どういう見立てだ」
「荒らした分だけ、嘘が先に立つがよ」
異紀は軽く返し、それから早瀬の方へ顔を向けた。
「この人は、黙らせといたら何かありげには見えますろう。
――口は、こちらで持ちます」
最後だけ、再び声の角が変わった。
京の座敷の奥にでもいるような、やわらかい調子だった。
理一郎の喉が、ひとつ動いた。
「……今のは何や」
異紀は、もういつもの顔に戻っていた。
「練習」
「何の」
「入口の」
早瀬は笑いかけて、理一郎の顔を見てやめた。
理一郎は、浅く息を吐いた。
「……場に合わせるつもりか」
「そういうことやね」
異紀はひらりと、手のひらで口元を隠すような仕草をした。
「先に札を作ったら、相手に読まれる」
「俺が合わせられるとは限らん」
「寄せるのは、わしの方やき」
理一郎は、早瀬へ向き直った。
早瀬は深く頭を下げた。
「では、今夜。日が落ちてからがよろしいでしょう。場所はこの書付に」
理一郎は頷く。
「偏りの出方を見る。勝ち分は調査課預かり」
「はい。手口はこちらで引き取ります」
早瀬は戸へ向かった。
閉める前に、振り返る。
「くれぐれも、お気をつけて。あの辺りは、気の荒い方も多うございますさかい」
戸が閉まる。
執務室に、暑さが戻った。
理一郎は異紀を見る。
異紀は机の端から小さな扇子を取り上げた。
いつから置いてあったのか、判然としない。
「……何や、その顔」
「嫌な予感がする」
「勘がえいねえ」
「否定しろ」
「嘘はよくない」
理一郎は書付を見下ろした。
紙には、賭場の場所が記されている。
七月の光が、窓の外で白く滲んでいた。
◇
日が落ちても、京洛の暑さは引かなかった。
町家の壁が、昼の熱をまだ抱えている。
軒の下には提灯がひとつ、低く灯っていた。
その奥から、笑い声と、酒に濁った声が漏れてくる。
理一郎は、地味な色の夏単衣を着ていた。
襟元はいつもよりゆるい。
髪は後ろで粗く一つに束ね、頬の脇に細い影を残してある。
官の整い方がひと息ぶん崩れていた。
黙って立てば、誰かの手先にも控えにも映る。
異紀は、淡い薄物をまとっていた。
布は肩から滑り、深く落ちた衿の間に、喉の影が細く立っている。
帯の結びは、腰のあたりでやわらかく沈んでいた。
扇子が返るたび、長い指のあいだで提灯の火が途切れた。
淡茶の短い髪はそのまま、耳も襟足もあらわになっている。
目元の紅は、伏せた瞼の際で色を深めた。
白粉越しに、頬の血色が薄く透けている。
提灯の灯を受けると、衿の陰が喉から頬へ這い上がった。
扇子が口元を隠せば、紅を帯びた目だけが残る。
下ろせば、さっきとは別のものに見える。
喉の骨も、短い髪も、隠れてはいない。
それでも異紀の姿は、男にも女にも収まらなかった。
理一郎の視線は、紅の端で行き場を失った。
「……化粧した方が、かえって目立たんのやな」
異紀は扇子で口元を隠した。
「失礼やねえ」
「輪郭が変わる」
「人を図版みたいに見んといて」
声はもう、京の座敷言葉に寄っている。
「その話し方、続けるのか」
「今夜だけどす」
「……やりにくい」
「アタシは楽しい」
「そこが不安や」
異紀は笑み浮かべ、理一郎の袖を軽く引いた。
「参りましょか」
一言落とし、先に入口へ向かう。
理一郎は半歩遅れて続いた。
並ぶと、異紀の肩が理一郎の袖をかすめた。
薄物の端が、歩くたび鼠色の単衣へ触れて離れる。
理一郎は歩幅を変えなかった。
目を、戸口へ戻す。
戸口には男がいた。
腕を組み、提灯の光に半分顔を出している。
異紀を見た瞬間、その目つきが変わった。
「見ん顔やな」
異紀は足を止めた。
畳んだ扇子の先を、胸元に添える。
目尻の紅が、灯のなかで細く動いた。
視線は男の顔をまっすぐ捉えず、喉元の手前で止まる。
男の腕が緩んだ。
「今夜、遊ばせてもらえますやろか」
声が、ひとつ落ちた。
語尾が柔らかくほどけ、提灯の下に残った。
入口の男は、言葉を返す前に喉を動かした。
「……そっちの旦那は?」
理一郎の指が、帯の下で硬くなる。
異紀は笑った。
それから、振り返りもしないまま、理一郎の袖へ指を添える。
釣られるように男の目がその指を追った。
「旦那やあらしまへん。アタシの色どす」
理一郎は息を止めた。
異紀の指が袖から離れる。
口を開きかけて、閉じた。
男の視線が、理一郎の襟元から髪へ上がった。
低く結んだ黒髪の影が、頬に濃く落ちている。
提灯の赤が、目元に薄く差していた。
「へえ。姐さん、えらい澄ました色連れてきはったな」
異紀は扇子の骨を指で撫でながら、ゆっくり理一郎を見上げた。
目が細まり、紅の端が上がった。
「せやから、ほどきに来ましたん。
口は重いけど、手は悪うあらしまへんの」
理一郎は黙っている。
黙るしかなかった。
男は理一郎をもう一度見た。
それから、半ば開いた骨の向こうへ目を戻す。
紅が、静かに残っていた。
男は下世話な笑いを漏らし、戸を開けた。
「入んなはれ。ええ目ぇ出るとよろしな」
異紀は軽く頭を下げる。
「おおきに」
扇子の陰で、理一郎へ目が流れた。
理一郎は、前を向いた。
戸口の男が中へ顎をしゃくる。
「奥、二人や」
返事とも笑いともつかない声が、暖簾の向こうから返った。
異紀が先に敷居を越える。
先を行く異紀の薄物が、土間の暗さに溶けかける。
土間は狭かった。
すぐ奥に、もう一枚、色の褪せた暖簾が下がっている。
その向こうで、木鉢が鳴る。
暖簾をくぐると、空気が変わった。
油。
酒。
人の汗。
古い木の湿り。
赤い火が、卓の上を低く照らしている。
三つの卓があり、奥の卓がいちばん賑わっていた。
胴元は、片眉が濃い男だった。
異紀は場を一瞥した。
出入口と、壁際の箱。胴元の指。客の膝のあたりと、奥に立つ男。
それから、扇子を奥の卓へ向けた。
「ここでええ?」
理一郎は卓の木目に目を落とす。
端の一箇所が白く擦れていた。
木鉢の縁に古い傷がある。
「……問題ない」
「そういう顔したらあきまへん」
異紀が京の声で囁く。
「もっと、連れてこられた男の顔して」
「俺に芝居を求めるな」
理一郎は異紀を見つめ、低く息を吐いた。
「今のでだいたい合うてます」
袖の内で指が曲がった。
胴元が顎で、卓の脇に空いた座を示す。
理一郎は動かず、異紀へ目をやった。
異紀が閉じた扇子で、その膝を軽く押す。
理一郎が腰を下ろすと、異紀も隣へすべり込む。
薄物の端が鼠色の袖から離れた。
近くの卓で、煙管をくわえた客が、賽の目を見落とした。隣の男に肘で突かれても、視線は紅を差した異紀の横顔に残っている。
胴元が賽を三つ、指の上で転がした。
「どっちが打たはるんや」
異紀が扇子の奥で笑った。
「この人、こういう席には慣れてはりませんの」
「見たら分かるわ」
異紀は扇子を畳み、膝へ伏せた。
「せやから、今夜は遊びを覚えさせよう思いまして」
胴元が息を漏らす。
「姐さんも物好きやな」
「堅い人を連れて歩くんも、退屈しませんえ」
理一郎の袖の中で、指が動いた。
胴元は笑い、木鉢を出した。
「ほな、軽う遊びましょか」
理一郎は銭を置く。
少なすぎず、多すぎず。
異紀も横から同じ額を置いた。
「アタシも」
「付き添いではなかったのか」
理一郎が低く言うと、異紀は目で笑った。
「色の前で退屈しとうないんどす」
胴元と客の肩が揺れる。
理一郎は黙った。
異紀の声だけが、卓の上を渡っていく。
賽が理一郎の手に渡る。
三つ。
角は揃っている。
重みの差は、掌では分からない。
面の擦れも大きくない。
少なくとも、手に取って分かるような細工ではなさそうだった。
理一郎は賽を木鉢へ戻した。
まだ、不正とは置かない。
癖があるなら、出方を見る。
振る。
伏せる。
中で賽が収まる音がした。
木鉢を上げる。
六。
六。
六。
隣の客が身を乗り出した。
「おお、いきなりかいな」
胴元が目を細めた。
「ええ色連れてはりますなあ」
閉じたままの扇子が、胸元で止まった。
「でしょ」
理一郎は賽を見た。
ぞろ目として見れば、三十六分の一。
六六六として置けば、さらに狭い。
だが、いま見るべきはそこではない。
一度なら、起こる範囲に置ける。
勝ち分がこちらへ押し戻される。
理一郎はそれを袖の内へ入れた。
異紀の視線は、胴元の手元へ向いている。
二度目。
胴元が、理一郎を伺い見る。
「今の目ぇなら、もっと張ってもええんちゃいますか」
銭は増やさない。
「同じで」
「あら、堅いなあ」
扇子の骨が、口元の前でひとつ鳴った。
「いつもこうどすのえ」
「そら、姐さんも骨折れるわ」
「けど、堅いほうが、持ちはええんどす」
また一段と卓の空気が緩む。
その間に、胴元の手が卓下へ下りた。
箱の縁が、ほんの少し鳴る。
理一郎は音を拾った。
異紀は指を見ている。
木鉢が渡る。
理一郎は振った。
伏せる。
上げる。
三。
三。
三。
卓の声がふつりと途切れた。
「……またぞろ目や」
客の一人が煙管を下ろす。
胴元の指が木鉢の縁を軽く叩いた。
理一郎は出目を頭の中へ置いた。
一度目は、ぞろ目。
六六六。
三十六分の一。
二度目も、ぞろ目。
三三三。
また、三十六分の一。
掛け合わせると――
そこまで考えて、理一郎は息を止めた。
指に残った銭の重みが、遅れて皮膚へ沈んでくる。
二度続けて勝ち分が押し寄せる感触に、皮膚が追いつかない。
こちらを乗せるために勝たせている。
その筋はある。
ただ、二度目の三も揃っている。
胴元の笑いが、硬くなる。
木鉢の縁を叩く指が、音を失う。
理一郎は、その手元を見つめた。
答えにはまだならない。
異紀が、横から柔らかく言った。
「この人、一気に熱うなる人やあらしまへんの」
「姐さんが、よう知ってはるな」
「火のつきどころくらい、知ってますえ」
理一郎は前を向いたまま、息を整えた。
隣を見たら負ける気がした。
胴元の手が、また卓の下へ消えた。
今度は音を立てなかった。
ただ、異紀の目はそちらへ動いた。
胴元の指。
壁際の男の膝。
隣の客が、次に誰へ目をやったか。
木鉢が理一郎の前へ出された。
胴元は、理一郎の前の銭へ目をやった。
「兄さん、今度こそ張ってみはったらどうです。
流れが来てますえ」
理一郎の手が、膝の上で止まった。
賭け金を変えれば、条件も変わる。
だが、ここで断れば、場の目が別のところへ向く。
その逡巡を、異紀が拾った。
「ほな、少しだけ景気つけまひょ」
異紀は自分の前の銭を二枚、理一郎の前へ滑らせた。
「今夜は、男前なとこ、見せてもらいたいんどす」
卓の端で、誰かが低く笑った。
「姐さん、煽りはるなあ」
異紀は笑みを崩さない。
「……久遠」
理一郎は前を向いたまま、声低く言った。
扇子の陰から、一度、理一郎に視線が流れる。
「アタシの分どす」
異紀は座の端へ、目を向けた。
笑いがひとつ増えた。
胴元の目が、銭から理一郎へ戻る。
理一郎は木鉢を受け取り、賽を掌へあけた。
三つの白い目が、手の上で乾いた音を立てる。
掌の中で、賽は冷えている。
夏の夜の卓に置かれていたものにしては、ほんの少し。
そこに仕掛けがあるとは、まだ言えない。
だが、ただの偶然として片づけるには、場の手つきが増えすぎている。
理一郎は何も言わない。
振る。
伏せる。
中で賽が収まった。
木鉢を上げる。
一。
一。
一。
卓の空気が、沈んだ。
提灯の火が、赤く揺れる。
誰かの膝が卓の下で動く。
胴元の笑みが消えた。
「……ピンゾロや」
客の一人が、声を落とした。
理一郎は賽から目を離さなかった。
三度目。
また、揃った。
——そこから先は、切った。
(偶然の箱からは、もう出る)
この場は、出目だけで動いていない。
賽、あるいは卓に仕掛けがある。
そこまでは、記録に収まる。
だが、自分の出した目だけは、まだ紙の上へ置けなかった。
「……兄さん」
胴元の声が硬くなった。
「よう持っていかはりますなあ」
理一郎は賽を見たまま、何も返さない。
「手ぇ、見せてもらおか」
異紀の扇子が、口元で止まる。
理一郎は黙って両手を開いた。
掌には何もない。
袖口を見られても、懐へ目を向けられても、手は開いたままだった。
「どうやってはるんです」
胴元が言う。
理一郎は、そこで顔を上げた。
「何も」
「三度続けて、そんな目ぇ出して、何もないは通りまへんやろ」
「出たものは出た」
「えらい落ち着いてはりますな」
理一郎は間を置いた。
「騒いでも、目は変わらん」
異紀が扇の裏で笑いを噛んだ。
胴元が、ぐっと身を乗り出した。
「兄さん、ほんまに初めてか」
理一郎は答えない。
異紀が、そこへ入った。
「この人、勝っても負けても顔が変わりまへんの。
可愛げがないでしょう」
「姐さん」
胴元の声が荒れる。
異紀は表情を変えない。
その手元で、開いていた骨が小気味よく閉じた。
「今夜は、このへんにしときます。
勝ちすぎても、お座が荒れますさかい」
理一郎は勝ち分をまとめる。
場の癖は見えた。
手口を追う必要はない。
その先は、調査課と警務方の仕事だった。
理一郎の淡々とした手つきに、かえって場がざわつく。
胴元はまだ理一郎を見ている。
「帰れるうちに帰りなはれ」
声を絞り、睨め付けた。
異紀の視線が、胴元の手元を離れ、壁際の男へ移った。
男の膝が、座の影でわずかに浮いている。
異紀が目を細めて一礼する。
「おおきに。
ほな、連れて帰ります」
理一郎は一言も置かず、立ち上がる。
背後で、賽が木鉢へ戻される音がした。
◇
外へ出ると、夜気はむっと肌にまとわりついた。
昼の熱が、石畳の下から戻ってくる。
祭の稽古らしい音が、遠くから聞こえてきた。
路地の奥に残った賭場の灯は、角を曲がるとすぐに見えなくなる。
異紀はしばらく歩いてから、扇子を胸元から下ろした。
肩の力が抜ける。
理一郎は黙っていた。異紀もすぐには口を開かない。
しばらくして、理一郎が声を落とした。
「……妙だった」
異紀は隣を見ずに返す。
「何が?」
京の座敷口調は、すでに剥がれている。
「場に偏りがあるのは、もういい。
最初は、こっちを乗せるために勝たせる気やと思った」
路地の熱が、言葉の後ろへ残る。
「一度目、二度目までは筋が通る。
客を乗せるために、勝たせるいうのはあるやろう」
異紀は小さくうなずいた。
「うん」
理一郎は声をもう一段沈める。
「だが、三度目まで続けるのは筋が悪い。
そこまで勝たせる利が、向こうに見えん」
数歩ぶんの沈黙。
「そのうえで、最後は俺の手を疑ってきた。
そこがもっと合わん。
勝たせるつもりだったなら、ああはならんだろう」
異紀の口元がゆるんだ。
「せやき、逆ながよ」
理一郎の目が動く。
「……逆?」
「最初の一つは、寄せ餌やね。あっちはどこかで志岐さんを負かすつもりやった。」
理一郎は何も言わない。
異紀は、夜の湿りを扇子でひとつ払った。
「三度目は、拾う気やったよ。
手ぇ替えて、流れ替えて、そろそろ取れる思うちょった。
せやのに、おまんが勝った」
理一郎の足が遅れかける。
異紀は肩をすくめた。
「向こうから見たら、よう分からん客やったろうねえ。
負かすつもりで組んだ場で、三度とも取り損ねた。志岐さんは平然と勝ちよるがやき」
理一郎は眉を寄せたまま、黙って歩き出す。
異紀は横目でその顔を見る。
「胴元の顔、見た?」
理一郎は返事をしなかった。
異紀は夜の先へ目をやった。
「自分らで敷いた筋から、客が外へ出た。
あれは、そういう顔やね」
理一郎の袖が、歩くたび異紀の方へ流れた。
しばらく歩いてから、理一郎がぽつりと落とす。
「……あの場に偏りがあった。そこまでは、読み違えてはおらんな」
異紀が目で笑う。
「そこは、外れちゃあせんろうね。
せやけど、今夜いちばん場を壊しちょったんは、たぶん賽やのうて、志岐さんやね」
理一郎が顔をしかめる。
「やめろ」
「事実やき」
「その語で済ませるな」
「ほいたら、何で置くが
“志岐理一郎という現象”かえ?」
理一郎は返す言葉をひとつ失った。
その顔を見て、異紀の肩が小さく揺れた。
「……よう分からん人やねえ」
理一郎は鼻先で息を吐いた。
「面倒な話や」
「ほんまにねえ」
理一郎は足を止めた。
異紀も数歩先で止まる。
扇子を持つ手が、ゆっくり下りた。
理一郎の視線が、異紀の背で止まった。
「……それと」
理一郎の声は低い。
「何や?」
「色とは何だ」
異紀はしばらく黙った。
路地の向こうで、鉦がひとつ鳴った。
それが消えるのを待ってから、異紀はいつもの声で言った。
「あの場では、一番聞かれにくい札やったろ」
「ほかに言い方があった」
「あったねえ」
「……わざとやな」
ぱち、と閉じた骨が掌で鳴った。
「志岐さん、黙ったらそれらしかったき」
理一郎の目が細くなる。
「久遠」
「そんな顔せんでも。通ったろ」
「そこではない」
異紀はまた笑う。
今度は、悪びれたような気配があった。
「でも、助かったやろ。
志岐理一郎として見られるより、誰かの色の方が、あの場ではずっと楽ながよ」
理一郎は黙った。
その理屈は通る。
——余計に、始末が悪い。
異紀は、理一郎の髪へ目をやった。
後ろで束ねた黒髪は、夏の湿気を含んで背へ落ちている。
目は、根元に巻かれた髪紐で止まった。
「……それにしても」
異紀が言う。
「よう勝ったねえ」
「運やろう」
返した声が、夜気の中で硬く落ちた。
異紀はそれ以上踏み込まない。
ただ、扇子の端で自分の口元を隠した。
「そうやね。
運やねえ」
異紀の声が、路地の湿りに混じった。
理一郎は振り返らない。
袖の内で、銭がまた鳴る。
髪紐の端が、歩くたび背中で揺れた。
◇
翌朝、調査課の小部屋には、朝から風がなかった。
窓は開いている。
紙の匂いが、机の上に溜まっている。
小袋の口紐が、白い光を拾った。
早瀬は、それを見たまま、しばらく動かなかった。
「……志岐さん」
「はい」
「これは」
「昨夜の勝ち分です」
早瀬は目を閉じた。
異紀が、横で扇子を開く。
紙の端が、朝の空気を小さく押した。
「調査課預かり、やったねえ」
「久遠さん」
早瀬は小袋から目を逸らさない。
「そこを正しく言われると、こちらが困ります」
理一郎は眉を寄せた。
「……そう決めたはずだが」
「取り決めました。……そやけど、です」
早瀬は、指先で机の端を叩いた。
「それをこちらへ渡されますと、帳面が生まれます」
理一郎の視線が、早瀬へ止まる。
「そちらの目は、都合で変わるのか」
「ええ。せやから、こちらへ持ち込まんといてほしいんです」
異紀の肩が、小さく揺れた。
早瀬は小袋を押し戻した。
「元の調査費だけ、お返しください。
それ以上は、私は見ておりません」
「見えてはいるだろう」
早瀬は机の木目へ目を落とした。
「見ておりません」
「目の前にある」
「困ったことに、今日は役に立ちません」
理一郎は早瀬を一瞥して言った。
「――診ようか?」
「結構です」
早瀬は、きっぱりと答えた。
理一郎は小袋を見下ろした。
昨夜の賽の音が、布の内側へ残っているような気がした。
「では、この金はどう扱う」
「そこは、そちらで何とかしていただきたい」
小袋から目を逸らしたまま、異紀へ顔を向けた。
「……久遠さん、何か」
異紀は扇子をひらりと返した。
「お寺の富札でも買うたらえいがやない?」
早瀬の顔が、ぱっと明るくなる。
「それです」
「即決するな」
理一郎が言う。
異紀は涼しい顔をしている。
「帳面には出ん。寺には入る。誰の懐にも残らん」
「博打の勝ち分で富札を買うのか」
「浄めになるろう」
「帳尻を寺に預ける気か」
早瀬が、両手を膝の上でそろえた。
「行き先としては、悪くありません」
異紀が小袋を指先でつついた。
「東の寺の復興富、札を出し始めたばかりやろ」
早瀬は小さく頷く。
「一昨日からです。富突きは、来月の末と聞いております」
「ほいたら、それやね」
理一郎は異紀を見る。
「……それで通す気か」
「今朝は、それがいちばん角が立たんろう」
早瀬は黙っている。
理一郎は小袋を取った。
布越しに、小銭の縁が手のひらへ触れる。
「元の調査費を、お返します」
「はい」
「残りは、こちらで処理する」
「はい」
「あなたは見ていない」
早瀬は、深く頷いた。
「何も」
異紀が扇子を閉じる。
「賽なら、もう目ぇ出ちゅう顔やね」
早瀬は聞こえなかったふりをした。
窓の外で、蝉が鳴きはじめる。
机の上の紙が、暑さの中で反った。
制作環境:ChatGPT
校正協力:Claude