
石のアーチは、木々の奥で冷えていた。
夏の日は梢の上にある。
遺構の内側へ入ると、足元の空気が重い。苔の匂いと古い水の気配が、草履の裏へまとわりつく。
理一郎は、折り畳んだ回付書を懐へ戻した。
『専門観測官不在。
専門官到着までのあいだ、現象の有無、危険性、反復条件のみ確認されたし。』
紙の角の感触が、まだ指に残っている。
「……便利に使われちゅうねえ」
異紀は、数歩先でアーチの奥を覗いていた。
枝の影が頬を横切る。
理一郎は返さない。
湿った地面を避け、石の際で足を止めた。苔の下に黒ずんだ筋がある。水の通り道にも、何かを擦った跡にも見えた。
「和州の人、戻らんがやね」
「北へ出ているとあった」
「その前は西やったろ」
理一郎の眉間が動いた。
「……人を増やせ」
異紀は声を立てずに笑った。
袖口を軽く押さえ、ぬかるみを避ける。
アーチの奥に、もう一つ暗い抜けがある。
そこだけ、木漏れ日の色が鈍い。
「志岐さん、あれも何か分かるが?」
理一郎は、苔の下の筋から目を離さなかった。
「……俺は考古学者やない」
「知っちゅう」
異紀は振り向かずに言った。
足が、次の一歩を測っている。
「けんど、手は出しかけたね」
理一郎は、湿った石へ伸ばしかけていた指を下ろした。
「鉱物なら、まだ筋がある」
異紀の目が、石ではなく理一郎の手元へ落ちる。
「そこは譲るがや」
理一郎は答えなかった。
草の根が、土を抱え込むように絡んでいる。
踏まれた跡はある。道として整ってはいない。
異紀が、アーチの奥へ視線を送る。
異紀は、奥の暗がりへ視線を送った。
「ほいたら、何があれば志岐さんの仕事になるがやろ」
低く、息が落ちる。
「……俺を呼ぶなら、木乃伊でも持ってこい」
異紀は笑いかけて、やめた。
奥の草が、風もないのに沈んでいる。
「……理一郎」
理一郎は顔を向けた。
草の根の下で、土が浅く崩れる。
湿った斜面の内側から、布の端が覗いた。
白ではない。
水と土を吸い、灰色に沈んでいる。
「下がれ」
異紀は一歩退いた。
視線が、布の端に残る。
理一郎は膝を折った。
土には触れない。
布の折れ、草の倒れ方、湿りの筋。
遺構の陰に、別の輪郭が立っていた。
異紀の息が落ちた。
「……人やね」
理一郎は答えない。
布の沈みに目を置いたまま、動かない。
アーチの奥から、冷えた空気がもう一度抜けた。
緑の匂いの下に、別のものが混じる。
理一郎は、布の端から目を離さずに言った。
「古いものやない」
異紀はしばらく黙っていた。
それまでの軽さは、袖の内側へ収まっている。
理一郎は草の倒れ方を見て、体の向きをわずかに変えた。
「久遠。足跡を増やすな」
異紀は、出しかけていた足を止めた。
踵が湿った土の手前で浮き、ゆっくり戻る。
理一郎は土の縁に膝を進めた。
土には触れない。
布の端。
骨の角度。
湿りの筋。
しばらくして、口を開いた。
「ここで死んだ身体やない」
異紀の指が、袖の内側で動いた。
「移されちゅう」
理一郎は布の折れへ目を寄せた。
「土のつき方が浅い。布も、残りすぎている」
異紀の筆先が紙に触れた。
「半年、一年の話やない」
異紀の息が、浅く落ちた。
「……志岐さん」
異紀の声が、少し違っていた。
理一郎は手元から顔を上げない。
「探偵みたいやねえ」
理一郎の手が止まった。
「……探偵とは何だ」
懐に手をやったまま、理一郎の横顔を見た。
「人の死に首を突っ込んで、足跡や灰や煙草の端やらを見て、最後にみんなを集めて喋る人やね」
「警務の仕事だろう」
「小説では、警吏よりよう気づく」
理一郎の眉が、わずかに寄った。
「……ろくな話ではないな」
「人気はあるで」
「亡骸の前で、娯楽の話をするな」
異紀の指が、袖の内側で止まった。
「粗末にしゆうわけやない」
理一郎は返さなかった。
布の折れを見ている。
異紀は足元の草へ目を落とした
「何が起こったか見んと、この人は、ただここに置かれたままになる」
風が、アーチの奥から抜けた。
梢がざわめき、奥の暗がりだけが遅れて揺れた。
理一郎は布の折れへ視線を戻した。
土には、まだ触れない。
しばらくして、低く言った。
「……残すぞ」
異紀は懐から帳面を出した。
異紀の筆先が、紙へ落ちる。
木漏れ日が、布の上で一度だけ動いた。