理玄異聞録 第1話「封じられた標本」|第1章「特例事象観記掛 ――出会い」
第1話|第2章 人体系標本 ――脈動あり
墨の匂いが、静かに部屋に沈んでいく。
二人はしばらく、言葉を足さずに手を動かした。
札を揃え、帳面を分け、机から余計な紙を払う。
まだ誰のものでもない部屋に、少しずつ「仕事」の形が据えられていく。
観測室のほうへ伸びる廊下に、まだ誰の足も向かない。
今日は、そこまで手を伸ばすつもりはなかった。
そのときだった。
廊下の向こうで、足音が近づいてくる。一人分。何かを抱えた者の、慎重な歩幅。
墨を引いていた異紀の筆先が、紙の上でごく短く止まった。
顔は上げないまま、耳だけが廊下の気配を追う。
しばらくして、今度は足音だけが近づいてくる。
一人分。箱を抱えた者の、慎重な歩幅。
戸口のそばで、その足音が止まった。
戸枠を、遠慮がちに叩く音が、二つ続く。
「……失礼いたします。特例事象観記掛さま宛のお荷物をお持ちいたしました」
本館の職員だった。
両手で、厚みのある木箱を支えている。
大きくはない。ただ、ただ、足取りは鈍かった。
中へ入るまでの一歩が、ほんの少し遅れる。
手放したさが、歩き方ににじんでいた。
理一郎は席を立ち、戸のほうへ向かった。
促され、職員は敷居をまたいで、小卓の上へそっと箱を下ろす。
抱えていた腕をほどくまでに、わずかな間があった。
「こちらに、受領の印を……」
差し出された控えの紙片には、『人体系標本』とだけ書かれている。
その下に、小さく『脈動あり』と添え書きがあった。
理一郎は黙って印を押した。
職員はそれを受け取ると、深く頭を下げる。
「ほな、これにて失礼いたします。
中身の詳しいことにつきましては、箱に添えてございます書付のほうに……」
言いかけて、言葉を飲み込んだようだった。
それ以上は踏み込まず、「以後はお任せいたします」とだけ残して、足早に部屋を出ていく。
戸が閉まり、廊下の気配がふっと途切れた。
残ったのは、卓上に置かれた木箱だけだった。
箱の上掛けの板は厚く、四隅には鉄が打たれている。
鉄の角が冷たく光っていた。
理一郎は箱の脇にしゃがみ、蓋の角に貼られた札へ目を落とした。
『胸部内臓片 一。乾燥。』とある。その下に、細い字で一行だけ添え書きがあった。
『搏動様』
墨のかすれが、その一行を書きつけた者の躊躇いを物語っていた。
背後で、異紀が畳を踏み替える気配がした。
こちらへ寄るでもなく、退くでもない。
理一郎は、箱の下へ指を差し入れた。
慎重に、持ち上げてみる。
木と鉄だけの重さではなかった。
手の内で、わずかに重心が沈む。
「……この箱、どうされます?」
異紀は、卓から半歩ほど離れたところに立っていた。
視線が蓋の札に落ちる。
◇
理一郎の喉もとで、息が声になる手前で途切れた。
札から目は離さなかった。
(開けるか、置いておくか)
初日から蓋を割るつもりはなかった。
観測室もまだ整っていない。
筆も帳も、ここでようやく置き場所が決まりかけたところだ。
だが——「脈動あり」と書かれたものを、この部屋に一晩置く気にもなれなかった。
「……今日は開けん。だが、ここには置かないほうがいい」
言いながら、自分の中で折り合いをつける。
「観測室に運ぶ。場所だけでも、分けておいたほうがいいだろう」
異紀は、少しだけ目を細めて頷いた。
「それなら、観測室の鍵を出してきます。
明日使いそうなものも、まとめて運びましょうか」
棚の一段に、引き渡しの折に置かれた小さな木箱があった。
その蓋には、墨で『観測室』とだけ記されていた。
「……頼む。筆記の一式、
聴診器、それから秤も」
「分かりました。
道具も一緒に揃えます」
異紀は棚へ回り、鍵の箱を取り出した。
蓋を開けると、小さな鍵が二つ並んでいる。
一つを指でつまみ上げ、盆の端に静かに置いた。
続けて、『診療用』の箱を手に取る。
中には、巻かれた聴診器と、卓上に置ける小さな秤が収められていた。
箱ごと盆の反対側の端に据える。
続けて、筆と硯、紙束。
ほかにも必要そうな物を、音も立てずに盆の上へ集めていく。
盆の上には、いつの間にか、二人ぶんの道具が並んでいた。
そのあいだに、理一郎は箱に手をかけた。
落とさぬよう、今度は両腕でしっかりと抱え込む。
厚い板の角が、袖口に当たる。
腕にかかる重みが、さっき量った時よりも、わずかに増して感じられた。
「行くぞ」
短く声をかけると、異紀は盆を両手で支えたまま、戸のほうへ回り込んだ。
分館の廊下は、曲がり角もない簡素な造りだった。
執務室を出て、まっすぐ進めば突き当たりに観測室がある。
板張りの廊下に、二つの足音が落ちていく。盆の上の金具が、ときおり鳴った。
突き当たりの戸には、新しい札が掛かっていた。
「異類資料観測室」。
墨は新しいが、戸板の木目は古く沈んでいる。
「鍵を」
理一郎が箱を持ち直しながら言うと、異紀は足を止めた。
盆を片手に持ち替え、もう片方の手で、盆の端に置いていた鍵を取る。
錠前に差し込み、金属をひねる。
小さな音がして、錠が外れた。
「……開けます」
異紀が戸に指をかけ、横へ引いた。
木が軋む音が、廊下に低く伸びる。
理一郎は箱を抱えたまま、ほんの一拍だけ息を整えた。
今日は、ここへ運ぶだけのつもりだった。
中身を見るのは、明日でいい。
そう決めたはずだった。
それでも——木の殻の内側で、まだ名のつかないものが身じろぎしているような気配が、腕にかかる重みと一緒に伝わってきていた。