執務室の障子が、端まで引かれている。
外は夏の朝の白さで、紙の端に湿りが戻っていた。
理一郎は羽織を椅子の背へ掛け、帳面の紐を結び直している。
異紀は窓際で、どこから持ってきたのか、細い笹の枝を机の横へ立てかけた。
「……それは、誰の許可を取った」
異紀は、短冊代わりに切った控え紙を指で押さえている。
「高槻さんが見たら、備品にしてくれるろう」
「せん」
「ほいたら、勝手に置いちゅうだけやね」
理一郎の眉間に、薄い皺が寄る。
紙は、まだ異紀の指の下にある。
短冊には、何も書かれていない。
「七夕か」
理一郎は、そこで窓の外へ目を向けた。
「星は見えるか、この湿気で」
「見えんでも、笹は笹やき」
異紀は筆に墨を含ませ、硯の縁で穂先を整えた。控え紙を一枚、理一郎の前へ滑らせる。
「志岐さんも書き」
「俺は特に願うことはない」
筆先が、硯の縁で止まった。
異紀は紙ではなく、理一郎の手元を見ている。
要らんと言ったあとも、指先は硬筆の柄へ寄っていた。
「肩だけ、意地張っちゅうで」
理一郎の指が、そこで止まる。
「……一言多い」
「短冊には入りきる」
窓の外で、風鈴が鳴った。
音は、すぐにほどけた。
理一郎は、しばらく黙っていた。
やがて紙を引き寄せる。
筆は持たず、硬筆で小さく書いた。
――本年の観測が、滞りなく済むこと。
異紀が覗き込む。
書かれた字を、しばらく見ていた。
「ちゃんと、仕事の願いや」
異紀の口元が、先に緩んだ。
理一郎は顔を上げず、書いた字の横に短い線を引いて消した。
「……七夕くらいは、外しておく」
「もったいない」
「もうえい」
異紀は自分の紙に、ゆっくり筆を落とした。
――飯がうまい日が増える。
理一郎が、その字を見る。少し遅れて、息が抜けた。
「……妥当だな」
「やろ」
笹の枝が、窓から入る風にかすかに揺れた。短冊にもならない控え紙が、机の上に伏せてある。
異紀が、もう一枚を指先で押し出した。
「余るねえ」
理一郎は紙を見て、それから硯へ目をやる。
「……書くなら、墨をこぼすな」
異紀の肩が、少しだけ揺れた。
「それ、願い事なが?」
「取扱注意だ」
異紀は返事をせず、余った一枚に筆を落とした。
――志岐さんに、願いがひとつ増えますように。
紙と墨の匂いのなかに、夏が混じっている。机の端で、笹が一本、細く揺れた。