理玄異聞録 第8話「木鷽」|第1章 回付書 ——件、届く

 窓際で、頁が一枚返った。続いて、綴じ本の背が机にこつりと触れた。
 昨日まではなかった音だった。
 理一郎は帳面の欄を端まで埋めてから、顔を上げた。

 久遠異紀は、休暇へ入る前と変わらぬ姿勢で、見覚えのない厚い綴じ本を読んでいた。
 題箋には『蒸気機関略説』とある。見開きには汽缶と弁の図が並び、余白には細かな注記が詰まっていた。
 筆筒はいつもの位置に戻っていた。
 机の右脇には、紺の厚布で仕立てた手提げ鞄が置かれている。口と底を焦茶の革で補った、異紀が普段使っているものだった。今朝は中身を出し切っていないらしく、被せの端が持ち上がっている。

 異紀は頁を押さえ、脇へ置いた紙に何事かを書きつけていた。
 理一郎も帳面へ視線を戻した。

 ――と。
 開いた戸口の外で、何かが止まった。
 敷居の向こうから、三色の頭が覗いている。

 見覚えのある猫だった。
 春先から、分館の裏には猫が出入りしていた。声だけの日もあれば、母猫らしい姿が庭を横切ることもあった。

 初夏に入ってからは、三毛猫が一匹、たびたび分館の裏を通るようになった。
 近づけば距離を取り、床下へ潜る。
 戸を開けた隙に分館に入り込むこともあったが、悪さはしないので放っておいた。
 鼠が減るなら、害ばかりでもない。
 その三毛が、今日は、執務室の敷居に前脚を掛けていた。鼻先がゆっくり持ち上がる。

 脚の毛に泥はついていない。
 刃物は抽斗の中、薬瓶も栓をして棚にしまってある。
 観測中の品はない。
 猫が中へ入った。
 理一郎は筆を止めなかった。

 三毛は入口近くの床を嗅ぎ、来客卓の脚をひと巡りした。初めて踏む場所を確かめるように、鼻が、床板の継ぎ目で何度か止まる。
 そのうち、進む先が定まった。
 異紀の机の前を横切る。

 足元を過ぎたところで、異紀は頁から顔を上げ、片手を下ろした。
 三毛はその脇を抜け、机の右側に置かれた鞄へ向かう。
 鼻先で被せを押し上げて、口の隙間へ顔を寄せた。

 異紀が身を屈めた。
「おまん、何を見つけたが」

 鞄の留め具が鳴る。
 三毛が前脚を掛けるより先に、異紀が持ち手を引いた。
 被せを開くと、中から細長い紙包みが現れた。
 三毛の鼻が、その動きについて上がる。

「これが欲しかったがか」
 異紀が包みを取り出した。
 包みの紙に、中身の角張った輪郭が出ている。

「何だ、それは」
「鰹節。登滄で買うてきた」
 異紀は包みを猫の前へ下ろした。
「こいつが好きそうやったき」
 三毛が紙へ鼻を押しつける。

 理一郎は包みへ目をやった。
「一節、丸ごとか」
 異紀は猫と包みを見比べた。
「これじゃいかん?」
「そのままじゃ歯が立たん。削ってやらんと食えん」
「ほいたら、削っちゃって」
 包みが理一郎の方へ差し出される。理一郎の手が、先に包みを受け取っていた。
 三毛も包みを追って、机の下までついてきた。

「俺に持って帰れと」
「慣れちゅう人に頼む方が早いやろ」
「餌をやったら、居つくぞ」
 異紀は、理一郎の足元にいる猫を見た。
「もう、来ちゅうやん」

 三毛は机の脚元で腰を下ろし、小さな顔を上げた。丸い目が、理一郎の手と顔のあいだを行き来する。
 理一郎は包みを机へ置いた。

「ふわ、こっち」
 異紀が呼ぶと、今度は耳だけがそちらへ動いた。
「……まだ言うか」

 理一郎が古渡更紗を前に漏らした「ふわ」は、異紀の筆で「朧紗」となり、古物商へ渡った。
 それで済んだはずが、先日も、「ねこ、みた、ふわふわやった」と書かれた紙を目にしたばかりだった。

「ほいたら、志岐さんなら?」

 理一郎は三毛を一瞥した。
 前に一度、裏庭へ下りていくところで、立てた尾の下を見ている。

「雄の三毛か。……なら、三福《みふく》とでもしておけ」
「雄なが?よう気づいたねえ」
「見れば分かる」
 三毛は二人の話には構わず、前脚を舐め始めた。

「三福かあ」
 異紀が足元へ手を差し出した。猫がその指先を嗅ぐ。
「ふくふくしちゅうし、えいねえ。ふく」
「縮めるな」

 三毛が頭を寄せると、異紀はその耳の後ろへ指を入れた。目を細め、喉の奥を低く鳴らす。
 ひとしきり撫でられてか、来た時と同じように戸口で立ち止まり、廊下の先へ尾を消した。
 理一郎は帳面へ戻った。
 窓際から、また頁を繰る音がした。

◇

 戸口の柱が、こつこつと二度鳴った。
 理一郎が顔を上げる。異紀も本から目を離した。
 開いた戸口に、書類挟みを抱えた早瀬が立っていた。

「目の具合はどうだ」
「おかげさんで、医者いらずです」
 早瀬は澄ました顔で答えた。
「よう見えゆうがやね」

 異紀が本を伏せ、来客卓を示した。
 早瀬は室内へ入ると、きちんと頭を下げた。
 理一郎も席を立ち、卓の向かいへ移る。
 腰を下ろすや否や、早瀬は書類挟みから一通を取り出した。封の表を向け、理一郎の前へ置く。
 表には調査課の印と、高槻の署名があった。

「今日は、正式なが?」
「はい。今回は、印もございます」
 「今回」に、力が入っていた。

 理一郎は封を切った。
 件名は、『木鷽発語異常一件』。
『旧華族某家の家令より、内々の照会あり。出入り呉服商某家所蔵の木鷽につき、年中の定めによりこれを出した折、家人に平素なき発言が重なるとの申立て。本日午後、同家番頭が品を持参予定。取扱いは調査課預かりとし、家名及び紹介元は通常記録に記載せざること。』

「民間の家内のことを、観記掛へ回す理由は」
「先日の縁談の席で、差し障りのあることを口にした者が出たそうです」
 早瀬は膝の上の手を、一度握り直した。
「前にも似たことがあったとか。それらも、木鷽を座敷へ出していた頃だと。それで、先方は品との関わりを疑っております」
「何を言った」
「私に渡されたのは、この回付書までです」
 早瀬は首を振った。
「先方と話したのは高槻主事です。どこまで聞いたかは、私にも分かりません」

 異紀が回付書を覗いた。
 墨が載っているのは、上半分までだった。
「肝心なところは、白いままやねえ」
「その方が、運ぶには助かります」
 神妙そうに答える。

 理一郎は回付書を卓へ置いた。
「品は調査課か」
「いいえ。まだ先方の家にございます。午後、番頭さんがこちらへ持参されます」
「現物を見ずに回したのか」
「主事が申立てを聞いた上で、品の確認はこちらへ、と判断しました」
 早瀬は書類挟みを閉じ、紐へ手を掛けた。一度結びかけてから、また開く。
「……こちらもございました」
 小さく折った紙を一枚、回付書の横へ置いた。
「高槻主事からです」

 理一郎は添書きを開いた。
『品との関わりは、先方の推測に留まります。家内の事情は、通常記録へ移す前にご判断ください。』
 それだけだった。
 早瀬は今度こそ、書類挟みの紐を結んだ。立ち上がり、二人へ頭を下げる。

 戸口へ向かう途中で、早瀬の目が理一郎の机の右端に留まった。紙に包まれた鰹節がある。口が一度開きかけたが、早瀬は理一郎を見ただけで廊下へ出た。向こうで、足音が曲がる。
 机には、回付書と添え書きが残った。

 ――正式な一枚には、書けることが少ない。
 ――正式でない一枚には、用心だけが書かれている。

 異紀が回付書を取り上げた。
「今度は立派な荷札がついちゅう」
「当てにはならんがな」
「釣り書きどおりでも、付き合いとうないねえ」
「来るもんは選べん」
 開いた戸口の向こうを、三毛の尾が横切った。