午後。
理一郎は、午前と同じ手順で指を下ろした。
置いて、数えて、二寸ぶん滑らせる。
指先の下で、細かい粒をまとめたようなざらつきが立った。
撫でたあとで手を離す。
掌をひっくり返しても、何も付いていない。
それでも、右手が自然と「払う」動きをした。
異紀が、帳面の向こうからその仕草を拾った。
「……粉やね」
声が、紙の向こうからこちら側へ寄ってくる。
顔は紙に向いたまま、目が、振られたばかりの指のあたりを一度なぞる。
理一郎の目が、遅れて自分の右手へ落ちた。
(見られちょったか)
「付着は無い」
条件のほうを先に立てる。
「指の方が、勝手に逃がしよる」
異紀は、墨を含ませたばかりの筆先で、紙の端をちょんと突くまねをした。
「……さらさら?」
その二音を、軽く上げた。
「《さらさら》とは呼ばん」
理一郎は布から目を外さずに切った。
「ほいたら、《しゃりしゃり》?」
「米やない。音は立たん。織り目の上で、指が細かく止まるだけや」
間髪入れずに切ってから、理一郎は内心舌を打った。
異紀は考える風にして小首を傾げた。
「——《ざりざり》まで行ったら、さすがに書けるろうかね」
「その辺は、砂の標本にでも回せ」
そこでようやく、理一郎は視線を異紀に向ける。
「《さらさら》でも、《しゃりしゃり》でも、《ざりざり》でもない。音を立て札にしたら、そこから先が全部、遊びになる」
異紀は「遊び」という言葉に、口の端で笑った。
「ま、今んところ――」
筆先が、空の欄の上ですべっていく。
「《さらさら》、《しゃりしゃり》、《ざりざり》、の三候補か」
ため息まじりに一拍置いて、
「……粉三昧やねぇ」
と落とした。
理一郎の手が、布の端の上でぴたりと止まる。
「……音も三昧も要らん」
異紀の指先が、紙の端をとん、と叩く。
「ほいたら、《粉まつり》」
「祭も要らん」
即座に返した自分に、また内側で小さく舌打ちを飲む。
「《粉尽くし》」
「尽くしも、だ」
ここまで来ると、もう止まらない。
異紀は筆をくるりと回し、まっすぐ続けた。
「ほいたら、いっそ粉は抜いちょこうか。帳面、すっと見通せるで」
「粉は外さなくていい」
理一郎は、声を低くした。
「そこまで外したら、今日の分は紙しか積まれん」
異紀の肩が揺れた。
「紙の重さも、記録やきねえ」
そう言い添えて、ようやく筆先を事象欄へ戻す。
墨の線は真面目に整い、その端で口元の笑いがまだくすぶっていた。
「順番を先に書け。付着無し。……触った側に、粉っぽい感触が残る」
「《感》はまた外で括っとくがやろ?」
「当然だ」
「なら――」
異紀は素直に筆先の向きを変え、「付着無し」と行を埋めていく。
墨がすっと伸びて、欄の端で止まった。
「ちゃんと書くほうには、『粉気あり』くらいにしといたるき」
「《気》も、外括弧だ」
「わかった。外で震わせちょく」
そう言い置いて、異紀の目線はまた帳面へ沈んだ。
理一郎はそれ以上何も言わず、布の端へ指を戻す。
(……もう一言も乗らん)
そう決めたものの、先ほどのやり取りが、指先のざらつきと同じところに、薄く残っていた。
◇
懐中時計の短針が、二と三のあいだを三寄りに指していた。
高窓からの光が、紅を平たく撫でる。
理一郎は、先ほどと同じ角へ指を戻した。
置いて、数えて、二寸ぶん滑らせる。
——不意に、指先の下で、織り目の粒がいったんほどけた。
代わりに、布の下で、織り目の上に薄く綿を敷いたような層が、ふっと浮く。
押し返してくる力は弱い。
丸くて、空気を含んだ手応えが、指の腹に残った。
(……なんや、これ)
指を離す。
手のひらをひっくり返しても、やはり何も付いていない。
それでも、これまでの粒立ちとは違う「やわさ」が、皮膚の内側に残っていた。
「……ふわ——」
喉の奥で零れた音に、自分で気づいたのは、その一拍あとだった。
(……言うた)
胸の奥が、ほんのわずか冷える。
言葉を引き返すには、遅すぎる。
異紀の筆が、その隙を逃さなかった。
帳面の上で墨が小さく走り、事象欄の端に、迷いなく字が立った。
『ふわふわ』
「……書くな」
理一郎は、異紀を一瞥し、声低く制した。
異紀の口の端が、わずかに揺れた。
「ほいたら、言うなや」
筆先で『ふわふわ』の横をちょん、と突く。
「観る人が先に口に出したら、帳面のほうも耳立てるき」
「……名札には据えるな」
理一郎が刺すように言う。
異紀は黙って、筆先をすっと動かした。
書いたばかりの二文字のうしろに、小さく括弧が足される。
『ふわふわ(仮)』
「……《仮》付けたら済むいう話やない」
理一郎は、ため息ともつかない息を一つ、喉の奥でほどいた。
「その二文字ごと、帳面の外に出しておけ」
異紀は「外」というところで、喉の奥でくくっと笑いかける。
今度は笑いを飲み込まず、そのまま筆を持ち替えた。
「外回し、ね」
筆先が『ふわふわ(仮)』の下をかすめた。
二文字の下に、細い横線がすっと敷かれる。
少し離れた余白に、小さく『※外』と添えられた。
「……きょうの分、それで埋められるのは御免だ」
理一郎はぼそりと付け足した。
異紀が、帳面のほうを見たまま、軽く笑うように言った。
「墨の減りは、だいぶ抑えられるがね」
筆先を宙で止めて、視線を理一郎のほうへ流した。
「代わりに、ため息が増えるき」
「ため息を書く欄は無い」
言い終えてから、胸の底で身じろぎした。
乗せられたと悟るのが、半拍遅い。
異紀は肩で笑って、筆先を軽く持ち直した。
下線を引かれた二文字のとなりには、それまでに埋めた数字と条件が、きちんと揃って並んでいる。
墨の線は静かに乾いていくが、その端で、細い横線と『※外』の小さな印が、まだじんわりと目に残った。
理一郎は、その印を一瞥して、布のほうへ視線を戻した。
(これ以上、音を口に乗せたら、また拾われる)
息をひとつ整え、同じ角へ、指を下ろした。
◇
気がつけばとうに四時を越えていた。
理一郎は、布を整え直す。
音を拾われた角から一息置き、縁より半分ほど内側の折り目を取る。
指を置き、短く数える。
ひとつ。ふたつ。
二寸ぶん、一定の速さで滑らせる。
指の腹の下で、織り目の頂きが一度揃って浮いた。
細い格子の枠が、まとめて指を受ける。
つい先ほどまで指を逃がしていたやわらかいふくらみよりも、組んだ筋のほうが前に出る。
(……さっきとは、筋が違う)
沈み方と止まり方の筋をなぞる前に、先に名のほうが喉へ上がってきた。
「ガーゼ……いや、密度が違う」
自分で漏らした名に応じるように、指先へ意識を戻す。
「……筋が途中で受ける」
ぼそりと口にしてから、もう一度、今度は少し圧を増やし、速さを落としてなぞる。
「逃げる余地が少ない代わりに、戻りが早い」
言いながら、自分の手の記憶のどこかを探るように、同じ場所を往復する。
覚えのある止まり方が、奥でざわついた。
「段の高低が浅い。山と谷の角が立たん。糸のあいだに含んでいる空気も浅うて、押した端から下がすぐ当たる」
喉の奥で、先に出した名をいったん飲み込む。
医理院の手術場で扱ったガーゼは、もっと粗い。
「……圧定に耐えるよう寄せた布やき、手触りも揃う」
押せば角が順番に当たって、滑らせれば段差が「とん、とん」と拾える。
ここには、その一拍ごとの段差がない。
短く息を落として、指をいったん離した。
掌を返しても、やはり何も付いていない。
向きを変え、今度は織り目を横切るように滑らせる。
同じ速さで、布の上をゆっくりなぞった。
表の糸が一度、ざらりと逆立ちかける。
その下で、別の層が均一に受け止めている気配がある。
押し込んだ瞬間と最後まで、抵抗はほとんど変わらない。
(……どこかで、あとからざらつきが出るはずの手触りやったかと思たが)
ふと、別の名が頭をかすめる。
「リントの手触りだったら——」
指を滑らせたまま、低く続けた。
「リントだったら、織り目削った細かい繊維が、指に絡んで離れん。 押いたところから綿が浮いて、時間置くほど指の腹がざらついてくる」
目の端で、異紀の筆が半拍ほど遅れて追いかけてくる気配があった。
指の腹を止め、そのまま数呼吸、待つ。
何も増えない。
最初に感じた引っかかりのまま。抵抗の強さはずっと揃っている。
押している間も、離したあとも、指に乗るざらつきは、薄い一枚のままだ。
ただ奥の筋が冷たく締まっている。
「——それが、出てこない」
布の上に置いた手を、引き上げる。
同じ条件で触れているのに、指の内側に残る像は、どちらの布にも寄っていかない。
「ガーゼにも、リントにも——今の像は寄りきらん。どっちの名札にも、今の手応えは素直に並ばん。」
口に出したところで、筆の音がふっと途切れた。
異紀の筆先が、「初圧」の行に降りかけては、「時間変化」の方へとわずかに逃げる。
「……《時間を置いても、ざらつきが増えん》」
異紀が拾い上げ、筆が紙をなぞる。
行の白さが、ひと呼吸ぶん伸びる。
「そこは『時間変化』の行だ」
理一郎は、異紀の方に目をやった。
「置く前と後で変わらん。それだけ書け」
異紀は小さく「あい」と返し、『時間変化』の欄の頭に筆を置いた。
行と行のあいだで揺れていた筆先が、今度は迷いなく紙の上を走る。
『指腹抵抗前後で差なし』と細く記し、墨の筋をひとつ増やした。
理一郎は、その隙に、先ほど感じた冷たい芯を思い描く。
表の綿(めん)のような層の下で、もう一段締まった筋が、まっすぐ受け止めていた。
(……綿やない。麻か、その手の類やろう)
そこまでは、内側で言葉になる。
けれど、断じるには、まだ手元の記憶が足りなかった。
「……見本が要るな」
区切るように、ぽつりと言う。
異紀が顔を上げた。
筆先は紙の上で待たせたまま、目がこちらへ向く。
「療治の筋から揃うかね?」
「いや」
理一郎は、布の下にいた芯を指先に思い出す。
「今出た名は、記憶の札や。そこへ寄せると手が狂う」
そこで一拍おいて、視線を布へ戻した。
「——見たいのは、その逆や。この布のほうから辿れる標準が要る」
異紀の口の端が、少し上がった。
「ほいたら、布んほうの帳面やねえ」
そう言って、帳面の隅に筆を運ぶ。
小さく『見本要請』と一行書き入れる。
「布も紙も扱いゆう古物商に、一軒あてがあるき。必要そうなもんは、そこから見本を回してもろうちゃおう」
その言葉に、理一郎のまぶたが動いた。
朝方見かけた机の白が、ふと脳裏をかすめる。
(……布も、紙も)
胸の奥でそうなぞって、欄外の字を横目に拾った。
「……任せる」
紅の上に指を置き直す。
見本が揃うまで、名は置かん。
そう胸の内で線を引いた。
◇
懐中時計の短針が、いつの間にか五へ寄っていた。
高窓の光はまだ残っているのに、机の白がわずかに沈んで見える。
「……今日は、ここまでにしよう」
理一郎は観測台の前で言い、布から指を離した。
台の脇へ手を伸ばす。
畳んで置いてあった薄い木綿をほどく。
白がふわりと開いて、乾いた綿の匂いが一度立った。
紅の上へ、白布を落とす。
下の花の並びが、かろうじて透ける薄さ。
四隅に小さな重しをひとつずつ置き、端が浮かないのを確かめる。
更紗は、黙したまま木綿の下で眠っている。
異紀は椅子に腰を掛けたまま、最後の行をゆっくりと埋めていた。
「とりあえず――」
筆先が、行頭に小さく触れる。
「『時刻によって、触りの筋に変化あり』。『ただし、出方は今のところ揃わん』。こんなところかね」
読み上げる声は淡々としている。
墨の線は、紙の白を押し広げるように伸びた。
「怪我も、痺れも出でいない」
理一郎は、観測台から机の前へ移りながら続けた。
「触れた手に異常はなし。今のところは、危険兆候は見当たらん」
「ほんなら、《現時点で外傷所見なし》で一行足しちょこう」
異紀は筆を少し持ち上げて、欄の端に細い字を滑らせた。
『外傷所見なし』。
墨が沈む間に、紙がうっすらと反る。
理一郎は紙束を一枚めくり、今日増えた頁の厚みを指でなぞった。
時刻ごとに刻まれた短い行が、まだ粗い縞のまま縦に伸びている。
「触感が変わる時刻も、決まりきらん」
視線で線を追いながら、小さく言葉を落とす。
「同じ刻限で同じ筋に乗るとは限らん。もう少し、刻みを増やす必要があるな」
帳面の上で筆が一度止まる。
「ほいたら、三十分ごとに、一遍触れてみよか」
「……それで見ておいてくれ」
異紀は筆を硯に戻し、乾きかけの墨の色を、指先で確かめた。
そのまま顔を理一郎のほうへ向ける。
「見本の段取りやけんど」
「……ああ」
「明日の昼にでも、一回、向こうに当たってみよか。織りも紙も、まとめて頼んでみる」
理一郎は少し考えるように目を伏せた。
「……お前のほうが、通りがいい」
顔を上げ、続ける。
「手の空いたときでいい。向こうへ当たってみてくれ」
「ほいたら、明日、様子見て寄ってみる」
異紀はそう言って立ち上がった。
椅子の脚が板を擦る音が、低く鳴った。
「見本が揃うまでは、こっちはこっちで触るしかないきね」
「半月なり一月なり、観測は続ける」
理一郎は、懐中時計を閉じた。
金属の蓋が噛み合う。
観測室の空気は、日の高い時分よりも冷えていたが、身を縮めるほどではない。
異紀は戸口へ向かい、戸板に指を添えた。
木戸が開くと、廊下の薄い明るさが一筋滑り込む。
足音は板張りの向こうへ吸われ、分館はまた静かになった。
理一郎は戸を引き寄せ、鍵を回す。
金具が小さく噛む音がした。
鍵を帯へ戻し、観測室をあとにする。
掛け布の白さが、夕方の光の中に四角く残っていた。