理玄異聞録 第5話「胡聲」|第4章 奏者声音 ――喉、寄る 

理玄異聞録 第5話「胡聲」|第3章 女声成立 ――別層、立つ

七月五日。

理一郎は前日の控えをひらいた。
終わりの方に置いた行を見る。

『長保。返り。微動。』
『女声、成立。』

新しい紙の端へ、時刻を落とし、続ける。

『前日成立条件にて再試。』

異紀は二胡を膝へ納めていた。
昨日ほど探る手つきではない。
胴の位置を合わせ、棹を立て、弓を取る。
前日の道筋が、手の内に残っている。

「昨日の条件から入る」

理一郎は言った。

「……うん」

返事は短い。
最初の数本で、昨日の線はすぐ戻った。
長く保ち、返りを含め、そこへごく小さな揺れを足す。
二胡が再び、女の声で鳴った。

硬筆の先が止まる。
紙の上に黒が溜まる前に、理一郎は時計へ目を落とした。

『九時五十八分。』
『微動上げ戻し・中・返りあり。』
『女声、立ち上がり早し。』

同じ条件で、もう一度。
また女声は立った。

異紀は弓を下ろさなかった。
音の切れたところで、一拍息を置く。
それから、同じ条件へ戻る。

『同条件反復。』
『女声、再成立。』

幾度か、同じ条件で繰り返す。
その度に、二胡は女の声で鳴いた。

理一郎は、条件の脇に時刻だけを落としていく。
もはや、探っているというより、すでに開いた道をもう一度なぞっているようだった。

理一郎は硬筆を握り直す。
黒鉛が鈍く光った。

条件は整いつつあった。
理一郎は、硬筆を紙から浮かせた。
同じ条件で女声は立つ。そこまでは、もう見えた。

「戻りを、少し残してくれ」

異紀の手が、弓の上で止まる。

「上げて戻すところを?」

「ああ。急がなくていい。戻りだけ、少し見る」

「分かった」

弓が入る。
平らに保った音が、ごく浅く持ち上がる。
戻る。

予想通り、その返りで声が立った。
女の声として聞こえる。
形は崩れていない。
けれど、消える手前で、ほどけきらない。
女の声のまま、息の落ちる場所が、知らない場所へ落ちた。

理一郎はすぐには書かない。
音が切れたあとの空気を拾うように目を細めた。

『微動上げ戻し・中・返りあり』
『女声、輪郭差あり』

文字を書きつけた指先に力を込める。

「同じ形で」

異紀は何も言わずに、弓を弦へ戻した。
二胡へ落とす目が深くなる。
声が立つ。
今度は、落ちた先から戻らなかった。

声の奥に、低い芯がある。
女声、と置くには、終わり際が重い。
別の名を据えるには、まだ遠い。
硬筆の先が、少し遅れて紙へ降りた。

『同条件反復』
『女声内、低声様の芯あり。』

低声様。
その語を書いたあとも、音の端はほどけなかった。
観測室のどこにも残っていないはずのものが、ただ細く鳴り続けている。

「もう一度」

弓が、再び入る。
女の声の形は、まだ残っている。
けれど、その奥の芯が、こちらへ寄る。 
記憶の端に触れる。
触れたものが何かまでは、まだ見えない。
硬筆が、紙へ戻る。

『同条件反復』
『女声内、低声様残る。既聴感あり。』

――既聴感。

書いてから、その語が遅れて目に入った。
硬筆の先は、まだ紙を離れない。
三文字が、紙の上で冷えた。

異紀は二胡を見ていた。
顔色は変わらない。
ただ、次の音へ入るまで、間があった。

理一郎は、紙の端を指で押さえた。

異紀は次の指示を待たなかった。
もう一度、同じ条件。
弓が引かれる。

音が保たれる。
浅く持ち上がり、返る。
当たり前のように声が立つ。
女の声の形をしている。
ただ、その奥の息の置き方が、耳に残る。
まだ遠い。
けれど、知らないものとしては、通せない。

異紀が小さく息を吐いた。

「……残るね」

声のしまい際が、耳の端にかかった。
紙の上の『既聴感』の三文字が目に刺さった。

異紀が普段、低く言葉を落とすとき、語尾の奥に残るもの。
先ほどの女声の底に滲んでいたのは、その息の落ち方だった。
耳が、遅れてそこへ届いた。
理一郎の喉の奥で息が止まる。

異紀は弓を構えたままだった。
じっと、音の消えた先を見つめている。

理一郎は、耳の残った声の端を辿るように、一字ずつ書いた。

『十一時十八分。』
『微動上げ戻し・中・返りあり』
『女声終端、奏者平時声音に近し。』

書き終えても、硬筆はすぐには離れなかった。

異紀はそこで、ようやく弓を膝へ伏せる。
音はもうない。

観測室は静かだった。
ただ、理一郎の耳の内では、まだその終わり際がほどけなかった。
理一郎は懐中時計を閉じる。

午前の観測は、そこで途切れた。

***

午後、異紀は戻ると、すぐ席へついた。
袖を払う音も短い。
筆を取り、午前の控えへ目を落とす。
筆先が帳面を埋めていく。
やがて、筆が止まった。

『十一時十八分。』
『微動上げ戻し・中・返りあり。』
『終端に、奏者平時の声音に近き収まりを認む。なお再試を要す。』

異紀は筆を持ったまま、その行を見ていた。

理一郎も同じ行を見た。

どちらも、名前は出さない。

「……近き、で置くがやね」

帳面の行には、誰の名もない。

『奏者』という二字が残っている。

「午前の観測では、そこまでだ」

異紀は目を伏せた。
それ以上は聞かなかった。

「……その形で残す」

そう言って、行の末を整える。

『同条件下、要再試。』

その一行で、帳面はかろうじて観測の形を保った。
二胡はここにはない。
それでも、その行を読むたび、二胡の声が紙の上へ滲んだ。

異紀は控えの余白へ短く書き添え、印盒を開けた。
朱が、行の脇へ落ちていく。

ことり、と陶の蓋が嵌まる音が、執務室に残った。

***

七月六日。

控えの終わりに近い一行で、視線が止まる。

『女声終端、奏者平時声音に近し。』

その下へ、今日の時刻を置いた。

異紀は二胡を膝へ納めている。
目は伏せられていた。
胴を合わせ、棹を立て、弓を取る。
手順に乱れはない。

「昨日の形から」

弓が引かれる。
音が保たれ、浅く持ち上がり、返る。
声は立った。
そこはもう、通る。
短く返せば寄りは薄い。

『返り短。』
『寄り薄し。』

「戻りを長く」

異紀は目を閉じたまま、弓を置き直した。

女声が立つ。
終わり際に、低いものが滲む。
そこまでは昨日と同じだった。

理一郎は硬筆を構えたまま、音の端を待った。

――今度は、終わり際だけでは済まなかった。

返りの途中から、女の声の底が変わった。
声の形はまだ女のものだった。
ただ、内側で沈む響きが、昨日より近い。

異紀のまぶたは下りたままだった。
息が深く落ちる。
弓の道は乱れない。
ただ、次の弓へ入るまでの間が、前日よりわずかに長い。

理一郎はその肩先を見た。
肩の沈みが、戻りきらない。
それ以上は、まだ名がつかない。
硬筆が、遅れて戻る。

『返り長。』
『女声、保続中より奏者平時声音へ近し。』

書いたあと、理一郎はその行を見た。
近し。
まだ、その語で紙の上は保てる。
昨日より深い。
だが、名を据えられるほどではない。

「同じ形で。保ちは長めに」

異紀は返事をしなかった。
弓が弦へ戻る。
音が入る。
細く伸びる。
浅く持ち上がり、返る。

女声が立った。
はじめは、女の声だった。
高く、細く、前日から続くあの声の形をしていた。

理一郎は、再び終わり際を待った。

だが、今度は声の途中で変わった。
声がまだ伸びているうちに、奥が変わった。
女の声の形は保たれている。
けれど、底に触れる息は、もう別の方へ寄っていた。

低い。
けれど、そこで止まらなかった。
声の奥に沈むもの。
語尾を落とすときの、息の癖。

耳が、そこへ引かれていく。
女声の底に、奏者の声の癖に触れる息が残った。

――異紀が低く言葉を落とすときの、あの声だった。

硬筆が紙に触れたまま止まる。

異紀は目を閉じている。
まぶたも、口元も動かない。
弓の道は乱れない。
ただ、言われたとおりに弾いている。
音が切れる。
異紀は、まだ弓を伏せない。

理一郎は、硬筆を紙に落とした。

『同形反復。』
『女声保続中、奏者声音として聴取。』

奏者声音。
その語でしか置けなくなった。
『近し』と添えるには、もう声の形が立ちすぎていた。
理一郎は次の条件へ移した。

「短く切る」

音はすぐに途切れた。
女声は立ちきらない。湿りが残る。

『短保。』
『女声未成立。別層残る。』

外れる条件は、まだある。

「中で。返りは残す」

声が立つ。
今度は、立ち上がりから低かった。
女声として開く前に、奥の響きが奏者の方へ傾く。

理一郎の硬筆が止まる。

昨日は、終端だった。
先の一本では、保たれている途中だった。
今度は、立ち上がりから近い。

『中保・返りあり。』
『立上りより奏者声音へ寄る例あり。』

異紀は、何も言わなかった。
弓の毛が弦のそばで、次の指示を待っている。

理一郎は条件を戻す。

女声のまま収まるものもあった。
短く切った音は、声になる前でほどける。
返りを残すと、同じ底へ落ちる。
浅く動かした一本には、薄い影が残る。 
条件は外している。
それでも、寄るときは、どれも同じ方へ落ちていく。

控えの端に、似た語が増えていく。

『寄り薄し。』
『奏者声音残る。』
『立上りより寄る。』
『女声にて収まる。』
『固定には至らず。』

理一郎は、そこで硬筆を止めた。

異紀の姿勢は変わらない。
言われれば、まだ弾く。

理一郎は弓を持ったままの異紀の手を見た。

次の条件は、もう紙へ降りなかった。

***

午後、異紀は午前の控えを帳面へ通した。

『複数条件反復。』
『返りを含む条件、および中保以上にて、女声内に奏者平時声音を聴取する例あり。』
『立上りより寄る例を認む。ただし短保にて未成立、また女声にて収まる例もあり、固定とは断じ難し。』

筆は、そこで止まった。

理玄異聞録 第5話「胡聲」|第5章 空席 ――息、掴む