幕末——二人の志士の余燼録。
印ひとつ。冗談みたいな勘定が、いつのまにか整っていく。
寓居の昼。
陽はやわらかく差しているのに、座敷の真ん中には、紙の山だけが静かに積もっていた。
昨夜、伏見から戻った蓮也が、覚えちゅううちに印だけ先につけて放り出した紙束でもある。
蓮也は、その山の前に胡座をかいていた。
膝のあたりで、着物の裾がゆるく崩れている。
手には筆を持っているが、紙の上に落ちた墨は、黒い点がひとつきりだった。
「……蒼史郎」
呼ぶ声も、どこか間延びしている。
火鉢のそばで帳面をつけていた蒼史郎が、筆を止めずに顔だけこちらへ向けた。
火の赤が、頬のあたりをかすかに染める。
「ん」
「この数字、何やったか、忘れた」
蓮也は紙を持ち上げ、指先で端をつまむ。
小さな丸が、数字の横にちょこんとついていた。
「伏見の船着き場で数えた舟の数。
昨日、自分で数えたろう」
蒼史郎は、淡々と返す。筆先だけが、紙の上を静かに滑っていく。
「いや、それは覚えちゅう。
この丸が、わからんがやき」
「おまんが途中で『多そう』って思うて付けた印」
迷いのない言い切りだった。
蓮也はまじまじと、その丸を見つめる。
「……わし、こんな印つけちょったかえ」
「つけちゅう。
“ようけ”、“まあまぁ”、“少なめ”の三つ」
蒼史郎は、別の紙を一枚抜き出した。
そこにも、小さな丸や三角が、きれいに並んでいる。
「これは?」
蓮也が指さすと、蒼史郎は筆を持ったまま、視線だけそちらへ向けた。
「淀川筋の風と川面の具合。
“風つよい”、“ちょうどえい”、“静かに近い”」
障子越しの光が、二人のあいだにうっすらと筋をつくる。
蓮也は、感心とも不満ともつかない顔で、その紙と蒼史郎の横顔を見比べた。
「……わし、よう仕事しちゅうのう」
「印ばっかりな」
声は乾いているのに、火の揺れと一緒に、どこか柔らかさが混じる。
蓮也は肩を落とし、紙の山を眺めた。
墨の匂いが、薄く鼻に残る。
「ほんなら、この印の意味、全部覚えちゅうがは、おまんだけながか」
「そうやき、見直しゆう」
蒼史郎は帳面の端を添え木で揃え、静かに息を吐いた。
「……わしの仕事、減っちゅう?」
「おまんの“仕事した気”は、ようけ増えちゅう」
火鉢の炭が、ぱち、と小さくはぜる。
その音に紛れて、蓮也の口元がわずかに歪んだ。
「なんか、損しちゅう気がするがやけど」
「損にはなっちょらん」
蒼史郎は、そこでようやく筆を置いた。
紙束から一枚引き抜き、蓮也の手元の紙と並べる。
「印つけるがはおまん。
あとで意味見ゆうがはわし。
それぞれの持ち場やき」
「……それ、えいように聞こえんがよなあ」
蓮也はぶつぶつ言いながらも、紙を近くへ寄せた。
蒼史郎の指が、丸印のいくつかを軽く叩く。
「ここ。“ほんまにようけ”」
「どこでわかる?」
「印つけゆうときの顔」
蒼史郎は、さも当たり前のように言った。
「“ほんまにようけ”のときは、
口の端がちょっと上がっちょった」
蓮也は思わず頬に手をあてる。
「わし、そんな顔しちょったか」
「しちょった。
三十石舟も荷舟もようけ出入りしよって、わくわくしゆう顔やった」
蒼史郎の視線が、紙から蓮也へ、静かに移る。
茶化しきれない目つきが、一瞬だけのぞいた。
「“たぶんようけ”のほうは?」
「途中で面倒になっちゅう顔やったき。
そこは、裏取る」
「……顔まで見られゆうとは思わんかった」
蓮也は、火鉢のほうへじりじりと膝を寄せ、蒼史郎の隣に座り込んだ。
畳越しに伝わる熱が、じんわり足先をあたためる。
「なんか、わしの顔まで勘定に入れられゆう気がするがよ」
「顔は勝手に動くき、しゃあない」
蒼史郎は、少し息を笑いに混ぜた。
「わしは数字見る。
おまんは印と顔で、“だいたい”を先に置いちょき」
「それ、ほんまに役に立っちゅう?」
「立っちゅう」
返事は短いが、迷いがない。
「伏見の舟の出入りも、淀川の風も、
“だいたい”が見えちょったら、
どこ詰めたらえいか、早う決まるき」
蓮也は紙の山を見渡し、ゆっくりと息を吐いた。
「……ほんなら、わしは“だいたい役”かえ」
「うん。だいたい役」
間髪入れずに返ってきた声に、蓮也は眉をひそめる。
「ちっとは言い方考えいや」
「誉めちゅうがやけど」
蒼史郎は、火鉢の縁に軽く肘を預けた。
細い湯気が、二人のあいだをゆるやかに昇っていく。
「おまんの“だいたい”がなかったら、
わしは全部、一から数え直さんといかんなる」
障子の向こうで、風がわずかに鳴った。
紙が一枚、ふっと揺れる。
蓮也はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……それは、まあ、困るな」
「困るき、助かりゆう」
蒼史郎は、紙束をととのえ、ぽん、と指先で叩く。
「お互い、楽するところは楽して、
締めるところだけ締めたらえい」
「締めるところは、どこや」
「そこ考えるが、おまんの役目やろ」
筆を持った手で、蒼史郎は蓮也のほうを、ちらりと示した。
蓮也は一瞬むっとしてから、肩をすくめる。
「……わしのほうが、やっぱり仕事重うないか」
「気のせいや」
蒼史郎は、紙に目を戻す。
口元だけが、さっきよりわずかに緩んでいた。
寓居には、紙の擦れる音と、
火の奥で炭のはぜる小さな音だけが、静かに積もっていった。
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