幕末——二人の志士の余燼録。
長崎の座で、上がるのは値だけではない。
長崎・丸山町から少し外れた蔵座敷だった。
板張りの床に筵が敷かれ、その中央に、反物の束や木箱が積まれている。
梁のあたりには、まだ潮の匂いがうっすら残っていた。
「……よう集まっちゅうの」
座の端に腰を下ろしながら、蒼史郎はそっと周りを見た。
町の問屋、船持ち、それに各藩の蔵元筋――
土佐の男たちより、声も笑いもいくぶん賑やかだ。
「そいはそうたい。山崎屋さんの蔵払いげな」
前列のほうで、誰かが小声で笑った。
「よか品ば、まとめて出すげな」
「困っとるときに出す荷は、値ごろたいねぇ」
どれも、港町らしい西国の言い回しだった。
けれど、耳を澄ませば、その底にある温度は決して軽くない。
(……“値ごろ”かや)
蒼史郎は、静かに息を吐いた。
山崎屋の名は、蒼史郎の帳面の端に、たびたび書きつけられていた。
長崎で古くから続く商家で、いざというときに勘定を融通してくれる相手のひとつでもある。
その山崎屋が、ここ数月で立て続けに船を痛めた。
風向きの悪さと、海賊まがいの連中のせいで、荷が戻らんかった便もあると聞いた。
(蔵払い言うたち……身を切る蔵払いになっちゅう)
蒼史郎は、座の隅に並べられた反物の束へ視線を滑らせた。
手前から順に、質の落ちるものほど前に、上物は奥に――
そういう並べ方をしているのが、見れば分かる。
「最初ぁ、あんまり値ぇ上げんどこうかね」
「そうそう。こがん荷ば、わざわざ高う買う義理ぁなかけん」
近くの商人が、顔を寄せて囁き合っている。
口では『困っとるときは助けちゃらんといかん』と言う
けんど、その「助ける」は、「安うで買うて、自分らの商いに回す」ところまでのようやった。
(値が上がらんままやったら……助かるどころか、沈むばあや)
蒼史郎は、膝に置いた手の指先に、わずかに力を込めた。
「……まぁ、見ちょけや」
隣から、ゆったりした声が落ちた。
蓮也が扇子を片手に、いつものように背を少し崩して座っている。
長崎ことばが飛び交う座の中で、ひとり土佐の声のまま、飄々と笑っていた。
「わしらの財布が軽いき言うて、座まで軽うなるとは限らんき」
「財布が軽いがは、言い返さんがよ」
蒼史郎が低く返すと、蓮也は肩を揺らして笑った。
「そこは、ちくと庇うてくれ」
扇子の先で、さりげなく蔵の奥の反物をさす。
「今日の本命は、あっちやき」
山崎屋の番頭が、蔵の口で控えている。
額には、見えない汗が張り付いているように見えた。
競りが始まると、最初の数点は、あっさりと値が決まった。
どれもそれなりの品だが、本来なら、もうひと声ふた声は高くてもおかしくない。
「ほら見んか」
「思うた通りの値やな」
周りの商人たちの目が、どこか計ったように細くなる。
誰も大声で値を吊り上げようとはしない。
ほんの少しずつ、遠慮がちな刻みでしか値が進まない。
(……初めに“安う買える”空気を固めていくきか)
蓮也は、扇子を閉じて膝の上に置いた。
正面から競り人を見る目だけは、笑っていない。
「次ぃ――山崎屋さん預かり、阿波木綿の反物、十反」
競り人の声が蔵座敷に響いた。
ざわ、と小さなどよめきが起きる。
「お、出したとね」
「こいはよう売れとったと。これまでよう隠しとった」
阿波木綿――
船に積みやすく、売り先も多い。
山崎屋の番頭の顔には、「ここだけはまともな値で売らんといかん」という色が浮かんでいた。
蒼史郎は、番頭の横顔を一瞥し、その手前に座る蓮也の横顔へと視線を滑らせた。
(……ここでだけでも息つかせちゃらんといかん、ちゅう顔や)
「さぁ、こっからいくらで出すとね」
競り人がわざとらしく笑った。
「――二十両から」
その額が告げられた瞬間、いくつかの眉が動いた。
高くはないが、安すぎもせん、ぎりぎりの線だ。
「……二十一」
座の端から、抑えた声が上がる。
「二十二」「二十三」と、少しずつ値が積み上がっていく――が、
どれも慎重で、誰も大きく飛び込もうとはしない。
(三十までいかんかったら……山崎屋の帳面は、まだ赤のままや)
蒼史郎は、胸の内で勘定をつけた。
阿波木綿十反。ふつうの値なら、もう少し上までいける。
ここで三十を切ったら、山崎屋はまだ息が上がらん。
「二十四……二十五……」
そこで、ぴたり、と値が止まった。
周りの空気が、どこか様子見になる。
「……動かんな」
蓮也が、扇子で膝をとん、と叩き、声を少し落とした。
「三十までは、ここの連中も出せるがよ。
けんど“困っちゅう山崎屋から、そこまで出したら損や”言うて、足並み揃えゆうがや」
「損やない値のほうが、損ちゅうことか」
「そうよ。ようある話や」
競り人が、もう一声を促すように、阿波木綿の束を叩いた。
「どげんね、二十五両。よか品たい。もうちっと出しても――」
「三十」
柔らかい土佐の声が、その上からすっと被さった。
座が、一瞬ざわついた。
「三十両入りました。……ほかにおらんね?」
「……誰ね、今の声」
「土佐の人間やろか」
周りがささやく中、蓮也は特に名乗りもしない。
扇子も使わず、ただ真っ直ぐ競り人を見ているだけだった。
蒼史郎は、その横顔を盗み見た。
(……ここで三十、か)
山崎屋が息を継ぎ直せる、ぎりぎりの線。
そして、こちらが「無茶ではない範囲で」手を伸ばせる、ぎりぎりの線。
「三十両。他に――」
「三十一」
反対側から、やや苛立った声が飛んだ。
江戸から来たらしい男が、鼻を鳴らしている。
「土佐さんよ。あんた、そんなに出してどうするんだい」
「どうすると言われてものう」
蓮也は、ゆっくりとそちらを向いた。
目だけが、笑っている。
「えい木綿は、えい値で買うたらえいがよ。
それにな――」
そこで言葉をひとつだけ折る。
「山崎屋が潰れたら、この先どこの帳面頼りにするつもりか、ちゅう話やき」
座のあちこちで、かすかな笑いが漏れた。
どこか気まずさを誤魔化すような笑いだった。
笑いながらも、誰もすぐには値を重ねない。
「三十二」
蓮也が、淡々と続けた。
競り人が慌てて声を張る。
「三十二両入りました。他には――」
江戸言葉の男が、しばらく唇を噛んでいたが、やがて肩をすくめた。
「……いいさ。そこまで出すなら、あんたの顔を立てておくとするか」
「かまんかまん。顔立ててもろうたら、こっちもいずれ借り返すき」
蓮也は、扇子を閉じたまま膝に置き、もう指先ひとつ動かさんかった。
「三十二両。……三十二両で、よかね? ……落とし!」
競り人の小槌が、板の上を打つ。
乾いた音に、潮の匂いがふっと戻った。
山崎屋の番頭が、深く頭を下げた。
その額の汗が、先ほどより少しだけ淡く見えた気がする。
(……三十二。帳面をひっくり返すには足らんかもしれん。
けんど、沈むところからは、首出せる額や)
蒼史郎は、胸の内でだけ計算を終えた。
蓮也の膝の上の扇子が、ふたたび静かに開かれる。
その後も競りは続き、山崎屋の品は、先ほどより少しだけましな値で落とされていった。
終わるころには、蔵座敷の空気も、当初の熱っぽさを少し失っていた。
買い手たちは、それぞれ帳面を抱えて散っていく。
外に出ると、長崎の夕暮れの風が頬を撫でた。
港のほうから、かすかに異国船の汽笛が響いてくる。
「――さっきは、ようあそこまで出したの」
坂道を降りながら、蒼史郎が口を開いた。
蓮也は、ひらひらと扇子を畳む。
「出さないかんところで出さんかったら、わしらも山崎屋も、両方沈むき」
「わしらのほうは、もうちっと沈み慣れちゅう気がするが」
「それはそうよ」
即答されて、蒼史郎は思わず吹き出した。
蓮也は、満足そうに片眉を上げる。
「阿波木綿はな、肥前のほうで欲しい言いゆう庄屋の話が、ひとつあったがよ。
船さえ出せたら、三十二よりちぃとは上で捌ける」
「最初から、それ見込んで入れたがかえ」
「見込んだいうほどでもない。
船が出られんなったら、わしが袴でも着物でも、みんな木綿に変えりゃえいき」
「どれだけ巻き付ける気や」
蒼史郎が呆れながらも笑うと、蓮也も一緒になって笑った。
その笑いが、坂道の石畳に軽く響いて消えていく。
「……山崎屋さんは、あれで、しばらく首つながるろうか」
「つながる。あそこはのう、帳面だけやのうて、港の口もよう知っちゅう。
今日“ああ、困っちょるときに値ぇ上げてくれた”いう顔しちょったろ」
蓮也は、手で自分の胸を軽く叩いた。
「こういうときに、ひとつ“土佐はあてになる”いう顔が残るろう。
――ほいたら次ぁ、向こうから声が来るき」
「山崎屋も、わしらも、同じ縄でくくっちゅう、いうことか」
「そうそう。一本の縄で結んじょいたら、どっちかが引き上がるとき、もう片っ方もつられて上がるき」
蒼史郎は、少しだけ歩を緩めた。
蓮也の言うことは、今日も調子ばかりよく聞こえる。
けんど、指折り数えちゅう勘定が、その奥にいつも隠れちゅうことも、蒼史郎はよう知っちゅう。
「……どこも、自分の縄、離さんように握り締めちょったがや」
「自分の縄ばっかり握り締めちょったら、手ぇ痺れてしまうき」
蓮也は、前を行きながら、振り返らずに笑った。
「時々こうして、よそ様の縄にも結び目作っちょいたら、
落っこちかけたとき、どっかから引っ張ってくれる」
「――それでも、阿波木綿三十二両は、えらい賭けやったと思うが」
蒼史郎が言うと、蓮也は少しだけ肩をすくめた。
「賭けやけん、おもろいがよ」
「まっこと、そういうとこがあるき、始末が悪い」
ふっとこぼした言葉は、風に紛れて、蓮也の耳に届いたかどうか分からない。
ただ、坂道を一歩降りるたびに、胸の奥にあった重さが、
ほんの少しずつ、やわらいでいくのだけは確かだった。
「蒼史郎」
少し先で、蓮也が振り返った。
「なんちゃあ心配いらん。
山崎屋も、わしらもな」
「当てはあるがか」
「……おまんが帳面見て眉寄せてくれる間は、大丈夫やと思うて」
照れもなく言われて、蒼史郎は目を瞬いた。
喉の奥でほどけた息を、白くもならない長崎の夕空へ、そっと吐き出す。
(……ああいうとこがあるき)
心の中だけで、もう一度だけこぼす。
(まっこと、敵わん)
「行くぞ、蒼史郎。
阿波木綿の行き先、さっさと決めてこんと、今度はわしらが競りに出されるき」
「それは断る。落とされても困るき」
「高う売れると思うがよ?」
「黙れ」
短いやりとりが、夕暮れの坂道に軽く転がった。
異国船の汽笛が、遠くで小さく鳴った。
ふたりの足音は、それに重なるようにして、長崎の町のほうへと消えていった。
制作環境:ChatGPT5.1/5.2