理一郎は席を立った。
「湯を取ってくる」
卓上の湯呑みを取り、異紀の脇の一つも盆へ載せる。土瓶も添え、部屋を出た。
鉄竈の前まで来ると、聞こえるのは湯の鳴る音くらいだった。
理一郎は土瓶に湯を取った。
静かになると、午前の声が一つ戻ってきた。
『こっちが恥ずかしい』
眉間を押さえた。
(……もうえい)
代わりに浮かんだのは、先ほど直した栞だった。
盆の上の湯呑み二つを並べ直す。
(ようやる)
土瓶を載せ、盆を持ち上げた。
◇
執務室へ戻り、来客卓で茶を注ぐ。
机へ置いた湯呑みに、異紀の手が伸びた。
理一郎も自分の分を取り、机へ戻る。
鞄を引き寄せ、留めを外した。
自分の包みを取り出す。
その下へ、もう一度手を入れた。指に同じ布が触れる。
――朝、自分の弁当箱へ飯を詰めた時、昨日の声が過った。
『おまえの分や』
『食べてほしい』
(ほんまに余計なことまで)
いつもの手順で仕上げた後、伏せたままの小さな弁当箱が目についた。
『うまい』
卵焼きを口にした異紀の顔が、ふと重なった。
その箱は、空で帰ってきた。
(昨日は食うた)
――そして、箱は二つになった。
理一郎は小さい方を取り出し、異紀の机の空いたところへ置いた。
異紀が紺の包みへ目を落とした。
「……今日もあるが?」
理一郎は自分の包みへ手を掛けた。
「食えんかったら残せ」
異紀は湯呑みを置き、結び目へ指を掛けた。
こぶが硬かったのか、何度か指が滑る。
やがて結び目をほどきながら、
「鰹節一本で、二日も弁当が来るがか」
と笑った。
「次は煮干しでも置いちょこうかねえ」
理一郎は解けた結び目を見た。
「持ってこんでえい」
ひとつ、間があった。
包みはもう広げられていた。
「ほいたら、遠慮のうもらう」
異紀が手を合わせ、ほんの束の間、目を閉じた。
理一郎はその手元を見ていたが、異紀の顔が上がる前に自分の布を解いた。
二つの箱の蓋が開く。
異紀は箸を取り、煮物へ伸ばした。
まず、一つ口へ運ぶ。次に飯。
理一郎も箸を取った。
箸と器の触れる音が続いた。
異紀は黙々と食べている。
煮物を取り、青菜へ移り、茶を飲む。
無理に詰め込んでいる様子はない。
ただ、時折こちらへ向きかけた目が、途中で弁当へ戻る。
少しして、異紀が卵焼きを取った。一口噛んで、時間をかけて飲み込んだ。
「昨日と変えたが、嫌だったか」
「え?」
「味。濃かったか」
異紀は息を吐いた。
「いや。そんなことない」
今度は、真っ直ぐ理一郎を見る。
「うまいよ。ほんまに。ただ、」
弁当に目を戻した。
「ちいと、まだ慣れんだけ」
「何に」
「色々」
言うなり異紀は、卵焼きの残りを口へ入れた。
「……ならいい」
理一郎も飯へ箸を入れた。
目の端で、卵焼きがなくなったのが見えた。
「志岐さん」
「ん」
「おまん、いつから飯作りゆうが?」
理一郎は箸を止めずに答えた。
「江都へ出てからや」
「家では?」
「せんかった」
「まあ、そうやろねえ」
異紀は煮物を割った。
「どうした。急に」
「医者の家で、志岐さんが飯炊く必要なんぞなかったろ」
「まあな」
「江都の大学へ行ったんは、もう医者になってからやろ?人の一人くらい置けたんやないが?」
「そうだな」
「やのに、なんで?」
理一郎は箸を止めた。
問われるほどの理由だったか、少し考える。
「一人分だ。そのためにわざわざ人を家に入れる方が面倒だった」
異紀がまじまじと理一郎の顔を見た。
「そこが先なが?」
「ほかに何がある」
「いや。坊ちゃんが急に殊勝な心掛けに目覚めたんかと」
「誰が坊ちゃんや」
「志岐家の長男坊」
「おまえな」
登滄で志岐家といえば、医道の一族だった。理一郎の家だけでなく、親族一同、何らかの形で刀圭に関わっている。理一郎が江都の大学まで行けたのも、家の後ろ盾があってのことだと思っている。
「最初から、こんな作れた?」
「まさか」
「まずかった?」
「食えはした」
異紀の口元が緩んだ。
「何がおかしい」
「いや。志岐さんにも、そんな頃があったがやと思うて」
「当たり前だろう」
今度は肩が揺れる。
「今や、人に弁当作れるくらいになっちゅう」
理一郎は煮物を一つ取った。
「……毎日口にするものを、まずいままにしとく理由がない」
「それで覚えたが?」
「作るたびに直しただけだ」
「卵も?」
「ああ」
「煮物も?」
「そうや」
「魚も?」
「いちいち聞くな」
異紀はまだ笑っている。
理一郎は茶を飲んだ。
向こうの箱は、もう半分ほど空いていた。
◇
昼休みを終え、二人は観測室へ戻った。
木鷽は箱に納めたまま、観測台に据えてある。
「午前の分、合わせよか」
異紀は将棋の頁を一度開いた。盤面に口を出したあと、駒まで動かしている記録がある。
続けて、先日の聞き取りへ戻った。
「志岐さん。そもそも、言葉も駒も、出る前に止めようとしてた?」
理一郎は記憶を辿った。
言葉が出た時も、駒へ手を伸ばした時も、その前でためらった覚えはなかった。
「いや」
「止められんかった、いうがとは違うか」
異紀は一つ二つ書き添え、帳面をめくった。女中頭が、縁談の席で口にした言葉が残っている。
「女中頭の話は、今ならどう見る?」
理一郎は該当の箇所を読んだ。
「作用による発語と見ても筋は通る。ただ、本人の話が事実で、番頭の見立ても外れていなければな」
筆をすすめながら、異紀が口を開く。
「まだ一個ある」
「どれだ」
「わしには、今んところ出ちょらんね」
理一郎は箱を見た。一日目から今日まで、蓋を上げたのは自分だった。
異紀はずっと、同じ部屋にいた。
「開けた者に現れているようには見える」
異紀が返す前に、理一郎は続けた。
「だが、俺とおまえで繰り返しただけだ」
「別の人が開けたらどうなるかは、まだ分からんね」
「そこは空けておく」
異紀は未確認の欄へ書き込んだ。
理一郎は帳面から箱へ目を移した。
一日目は作用の方へ手を取られた。物そのものは、まだ十分に見ていない。
「次、寸法を取る」
異紀が筆を持ち直した。
「世話かけゆう鳥やね」
理一郎は箱へ手を伸ばした。
「外から取れる分を先にやる」
まず蓋をしたまま、折尺を当てる。
「縦、九寸ほど。横も九寸。高さ、七寸ほど」
長さ、幅、高さ。異紀が数字を拾っていく。縦横はほぼ同じの、桐の被せ蓋だった。
木地は年月を経て淡く色づき、角には細かな擦れがある。目立った割れや歪みはない。
外側を取り終えると、理一郎は折尺を置いた。
手袋をはめる。
「開ける」
◇
蓋が上がった。
異紀は木鷽より先に、理一郎に目を向けた。
胸が動き、浅く息を吸うのが見えた。
――今は、吸うた。
異紀は時刻の脇へ一つ印をつけた。
理一郎は蓋を台へ置く。
「内法も取る」
折尺が箱の内側へ入った。
「縦、八寸半ほど。横も同じ。高さ、六寸半余り」
木鷽が据えられている底板は、縁が浅く立ち上がっていた。底には薄布が敷かれている。
理一郎は木鷽の胴へ両手を添えた。
持ち上がった胴の下に、平らな面が現れる。
「脚はなし。底を平らに削っちゅう」
観測台へ下ろしても、木鷽は倒れなかった。
異紀は底面の形を簡潔に帳面へ書いた。
正式な素描には、後で理一郎に足してもらえばいい。
「これなら、どこに置いても座りはえいね」
「布は擦れ避けと見てよさそうだな」
理一郎は折尺を取り直した。
「全長、七寸三分ほど」
異紀が書く。
「最大高、六寸ほど。幅は五寸弱」
理一郎が向きを変えるたび、異紀は数値を素描の余白へ加えた。
次に秤が観測台へ出された。
理一郎が木鷽を載せる。
針が振れ、止まった。
「百八十七匁ほど」
「見た目よりあるねえ」
「木の塊やきな」
重さを書き込む。
理一郎は木鷽を秤から下ろし、折尺の端を嘴へ寄せる。
「嘴、三分ほど」
異紀は、昨日理一郎が書いた嘴付近の素描を帳面の横に広げた。嘴の根元まで、細かな線で拾われている。
以前、理一郎が手にしていた泰西の博物画を思わせた。
(心臓の時もなかなかやったけど、また上手うなっちゅうねえ)
理一郎は正面と横から基部の幅、高さを取っていく。
「短い。基部が厚くて、深い」
「何の鳥か、分かる?」
「種を割る嘴だ。形なら、アトリの類に近い」
「鷽やないが?」
理一郎は折尺を嘴から離した。
「条件には合う。ただ、ここには比較できる鳥の標本がない」
「生きたがを見るのは?」
「今頃は北の山や。ここで探して見つかる鳥ではない」
言われてみれば、夏場にあの口笛のような声を聞いた覚えがない。
「本体の造形と伝来、嘴の形まで合えば、今回の扱いには十分だ」
理一郎は折尺を置いた。
「〔鷽として矛盾なし〕、で置く」
その通りに記した。
「けんど、本物より大きいがやね」
「生きた鷽なら五寸ほどだ」
数字のやり取りは、そこで途切れた。
異紀が次の行へ筆を移したところで、開け放した戸の向こうに三福の顔が覗いた。
三福は二人を見比べ、部屋へ入ってきた。観測台の方へ足を向ける。
理一郎が呼んだ。
「ふく――三福」
三福が耳を動かした。
その進路を塞ぐように、理一郎が観測台との間へ手を出す。
「そっちはいかん」
三福は足を止め、差し出された指の匂いを嗅ぐ。その手がゆっくり戸口の方へ動くと、今度はついてくる。
観測室の外まで三福を連れ出すと、理一郎も一歩廊下へ出た。
三福は去らず、じい、と理一郎を足元から見上げた。
「朝、食うたろう」
片膝を折りながら、袖へ手を入れる。小さな紙包みが出てきた。
三福の頭がつられるように包みを追った。
ふ、と、理一郎が笑う気配がした。顔は見えなかった。
「少しだけやぞ」
廊下の端へ中身を置くと、三福はすぐに顔を伏せた。食べ終えると、ねだるように理一郎の手に頭を擦り付ける。
(――朝は、逃げられよったに)
朝、分館へ来る途中、石敷きで三福へ手を伸ばす理一郎を見かけていた。
「また、明日来い」
理一郎が声をかけると、それ以上はないと悟ったのか、三福はすっと身をひるがえした。
三福が去ったのを見届けると、理一郎は観測台に戻ってきた。
異紀は帳面に何か書きつける振りをした。
振り返った理一郎の唇の端が上がっていたことは、書かなかった。
◇
理一郎は木鷽を持ち上げ、薄布の上へ戻した。
向きを確かめ、被せ蓋を下ろす。
蓋が収まったところで、理一郎の胸がゆるんだ。
息が、長く出る。
異紀は筆を止めた。
――また、吐いた。
(蓋を上げた時には、吸うた)
理一郎を見た。
「志岐さん。もう一遍、開けて」
「何かあったか」
「確認したい」
理一郎は、黙って蓋を持ち上げた。
胸が動き、短く、息が入る。
異紀はそこだけを見ていた。
――やはり。
「久遠?」
「そのまま」
「何を――」
「――抱き寄せられし腰は――」
「やめろ」
返りが早かった。
異紀はもう一行拾った。
「褥に沈みし身を、なお深く――」
「やめろと言っておる!」
語気が荒い。
「おまえ、ほんまに何ちゅうもん読んどる。測量術も読む、養蜂書も読む、講談本まで漁る。その上で艶本を諳んじるな。雑読にもほどがある!」
(何を言いゆうが、この人は)
異紀は、鼻からひとつ息を抜いた。
「今までで、いちばん声出たねえ」
「はぐらかすな」
存外、声が低かった。
前の務めを思い返した。
ほんの数年前のことなのに、今はずいぶん、遠い。
「……昔は、読むもんまで決まっちょったきね」
それを聞いた理一郎の顔が曇った。
「だから、何でも読むのか」
声にはもう、先ほどの勢いがなかった。
「今は、気になったもんを自分で取れるろ」
異紀は続けた。
「やき、枕絵でも好色本でも、気になったら手ぇ出す」
「……もうえい」
(気にしゆうねえ)
異紀はそれ以上言わず、帳面へ目を落とした。
「閉めてえいよ」
理一郎は釈然としない顔のまま、蓋を戻した。
木鷽が収まる。
間を置かず、息が出た。
異紀は時刻の脇へ、もう一つ印をつけた。
開けば、吸う。閉じれば、吐く。
何を示すかまでは、まだ書き添えなかった。
◇
理一郎は蓋から手を離し、異紀の帳面へ目をやった。
時刻の脇に、見覚えのない印が増えている。
「今、何をした」
「検証」
異紀はあっさり答えた。
「何を」
「まだ言わん」
「理由を言え」
「言うたら、それが答えになるき」
艶本のことも、話を切られたことも、まだ腹には残っている。
だが、異紀が答えを伏せている理由は、そこにはない。
「……俺が知らん方がいいんだな」
「今はね」
開けば変わる。閉じれば戻る。
そこまでは、二日で何度も確かめた。
理一郎は先日の聞き取りの頁を開いた。
鳴海屋でも、年に二度、木鷽を出す。数日据えて、また納める。
「……合わんな」
「何が?」
「これが昔から同じなら、なぜ今になって続けて出た」
鳴海屋の定め自体は、昨日今日に始まったものではなかった。
少なくとも、先代の頃から続いている。
異紀も頁を覗いた。
「木鷽の方が変わったかねえ」
「それか、扱いが変わったのか」
箱の寸法も、本体の形も取った。
開閉による変化も、ひとまず再現している。
「ここで見られるのは、持って来られたあとのことだけだ」
残っているのは、この木鷽が家の中でどう扱われてきたかだった。
「一度、鳴海屋を見たい」
「――行く?」
「先に調査課を通す必要があるな」
異紀が頷いた。
「書状はわしが用意する」
「扱いについて確認したいことがあると入れてくれ。差し支えなければ、女中頭本人にも話を聞きたい」
異紀は帳面を閉じて立ち上がった。
理一郎も手袋を外す。
二人分の足音が廊下へ出た。
次は、鳴海屋だった。