理玄異聞録 第8話「木鷽」|第5章 弁当 ――包み、二つ

 理一郎は席を立った。
「湯を取ってくる」
 卓上の湯呑みを取り、異紀の脇の一つも盆へ載せる。土瓶も添え、部屋を出た。

 鉄竈の前まで来ると、聞こえるのは湯の鳴る音くらいだった。
 理一郎は土瓶に湯を取った。
 静かになると、午前の声が一つ戻ってきた。
『こっちが恥ずかしい』
 眉間を押さえた。
(……もうえい)
 代わりに浮かんだのは、先ほど直した栞だった。

 盆の上の湯呑み二つを並べ直す。
(ようやる)
 土瓶を載せ、盆を持ち上げた。

◇

 執務室へ戻り、来客卓で茶を注ぐ。
 机へ置いた湯呑みに、異紀の手が伸びた。

 理一郎も自分の分を取り、机へ戻る。
 鞄を引き寄せ、留めを外した。
 自分の包みを取り出す。
 その下へ、もう一度手を入れた。指に同じ布が触れる。

 ――朝、自分の弁当箱へ飯を詰めた時、昨日の声が過った。
『おまえの分や』
『食べてほしい』
(ほんまに余計なことまで)
 いつもの手順で仕上げた後、伏せたままの小さな弁当箱が目についた。
『うまい』
 卵焼きを口にした異紀の顔が、ふと重なった。
 その箱は、空で帰ってきた。
(昨日は食うた)
 ――そして、箱は二つになった。
 理一郎は小さい方を取り出し、異紀の机の空いたところへ置いた。
 異紀が紺の包みへ目を落とした。

「……今日もあるが?」
 理一郎は自分の包みへ手を掛けた。
「食えんかったら残せ」

 異紀は湯呑みを置き、結び目へ指を掛けた。
 こぶが硬かったのか、何度か指が滑る。
 やがて結び目をほどきながら、
「鰹節一本で、二日も弁当が来るがか」
 と笑った。
「次は煮干しでも置いちょこうかねえ」

 理一郎は解けた結び目を見た。
「持ってこんでえい」

 ひとつ、間があった。
 包みはもう広げられていた。
「ほいたら、遠慮のうもらう」
 異紀が手を合わせ、ほんの束の間、目を閉じた。

 理一郎はその手元を見ていたが、異紀の顔が上がる前に自分の布を解いた。
 二つの箱の蓋が開く。
 異紀は箸を取り、煮物へ伸ばした。
 まず、一つ口へ運ぶ。次に飯。

 理一郎も箸を取った。
 箸と器の触れる音が続いた。
 異紀は黙々と食べている。
 煮物を取り、青菜へ移り、茶を飲む。
 無理に詰め込んでいる様子はない。

 ただ、時折こちらへ向きかけた目が、途中で弁当へ戻る。
 少しして、異紀が卵焼きを取った。一口噛んで、時間をかけて飲み込んだ。

「昨日と変えたが、嫌だったか」
「え?」
「味。濃かったか」
 異紀は息を吐いた。
「いや。そんなことない」
 今度は、真っ直ぐ理一郎を見る。
「うまいよ。ほんまに。ただ、」
 弁当に目を戻した。
「ちいと、まだ慣れんだけ」
「何に」
「色々」
 言うなり異紀は、卵焼きの残りを口へ入れた。
「……ならいい」
 理一郎も飯へ箸を入れた。
 目の端で、卵焼きがなくなったのが見えた。

「志岐さん」
「ん」
「おまん、いつから飯作りゆうが?」
 理一郎は箸を止めずに答えた。
「江都へ出てからや」
「家では?」
「せんかった」
「まあ、そうやろねえ」
 異紀は煮物を割った。

「どうした。急に」
「医者の家で、志岐さんが飯炊く必要なんぞなかったろ」
「まあな」
「江都の大学へ行ったんは、もう医者になってからやろ?人の一人くらい置けたんやないが?」
「そうだな」
「やのに、なんで?」
 理一郎は箸を止めた。
 問われるほどの理由だったか、少し考える。
「一人分だ。そのためにわざわざ人を家に入れる方が面倒だった」

 異紀がまじまじと理一郎の顔を見た。
「そこが先なが?」
「ほかに何がある」
「いや。坊ちゃんが急に殊勝な心掛けに目覚めたんかと」
「誰が坊ちゃんや」
「志岐家の長男坊」
「おまえな」
 登滄で志岐家といえば、医道の一族だった。理一郎の家だけでなく、親族一同、何らかの形で刀圭に関わっている。理一郎が江都の大学まで行けたのも、家の後ろ盾があってのことだと思っている。

「最初から、こんな作れた?」
「まさか」
「まずかった?」
「食えはした」
 異紀の口元が緩んだ。
「何がおかしい」
「いや。志岐さんにも、そんな頃があったがやと思うて」
「当たり前だろう」
 今度は肩が揺れる。
「今や、人に弁当作れるくらいになっちゅう」
 理一郎は煮物を一つ取った。
「……毎日口にするものを、まずいままにしとく理由がない」
「それで覚えたが?」
「作るたびに直しただけだ」
「卵も?」
「ああ」
「煮物も?」
「そうや」
「魚も?」
「いちいち聞くな」

 異紀はまだ笑っている。
 理一郎は茶を飲んだ。
 向こうの箱は、もう半分ほど空いていた。

◇

 昼休みを終え、二人は観測室へ戻った。
 木鷽は箱に納めたまま、観測台に据えてある。

「午前の分、合わせよか」

 異紀は将棋の頁を一度開いた。盤面に口を出したあと、駒まで動かしている記録がある。
 続けて、先日の聞き取りへ戻った。

「志岐さん。そもそも、言葉も駒も、出る前に止めようとしてた?」

 理一郎は記憶を辿った。
 言葉が出た時も、駒へ手を伸ばした時も、その前でためらった覚えはなかった。

「いや」
「止められんかった、いうがとは違うか」
 異紀は一つ二つ書き添え、帳面をめくった。女中頭が、縁談の席で口にした言葉が残っている。
「女中頭の話は、今ならどう見る?」
 理一郎は該当の箇所を読んだ。
「作用による発語と見ても筋は通る。ただ、本人の話が事実で、番頭の見立ても外れていなければな」
 筆をすすめながら、異紀が口を開く。
「まだ一個ある」
「どれだ」
「わしには、今んところ出ちょらんね」

 理一郎は箱を見た。一日目から今日まで、蓋を上げたのは自分だった。
 異紀はずっと、同じ部屋にいた。

「開けた者に現れているようには見える」
 異紀が返す前に、理一郎は続けた。
「だが、俺とおまえで繰り返しただけだ」
「別の人が開けたらどうなるかは、まだ分からんね」
「そこは空けておく」

 異紀は未確認の欄へ書き込んだ。
 理一郎は帳面から箱へ目を移した。
 一日目は作用の方へ手を取られた。物そのものは、まだ十分に見ていない。

「次、寸法を取る」
 異紀が筆を持ち直した。
「世話かけゆう鳥やね」

 理一郎は箱へ手を伸ばした。
「外から取れる分を先にやる」
 まず蓋をしたまま、折尺を当てる。
「縦、九寸ほど。横も九寸。高さ、七寸ほど」

 長さ、幅、高さ。異紀が数字を拾っていく。縦横はほぼ同じの、桐の被せ蓋だった。
 木地は年月を経て淡く色づき、角には細かな擦れがある。目立った割れや歪みはない。
 外側を取り終えると、理一郎は折尺を置いた。
 手袋をはめる。

「開ける」

◇

 蓋が上がった。
 異紀は木鷽より先に、理一郎に目を向けた。
 胸が動き、浅く息を吸うのが見えた。
 ――今は、吸うた。
 異紀は時刻の脇へ一つ印をつけた。

 理一郎は蓋を台へ置く。
「内法も取る」
 折尺が箱の内側へ入った。
「縦、八寸半ほど。横も同じ。高さ、六寸半余り」

 木鷽が据えられている底板は、縁が浅く立ち上がっていた。底には薄布が敷かれている。
 理一郎は木鷽の胴へ両手を添えた。
 持ち上がった胴の下に、平らな面が現れる。
「脚はなし。底を平らに削っちゅう」
 観測台へ下ろしても、木鷽は倒れなかった。

 異紀は底面の形を簡潔に帳面へ書いた。
 正式な素描には、後で理一郎に足してもらえばいい。
「これなら、どこに置いても座りはえいね」
「布は擦れ避けと見てよさそうだな」

 理一郎は折尺を取り直した。
「全長、七寸三分ほど」
 異紀が書く。
「最大高、六寸ほど。幅は五寸弱」

 理一郎が向きを変えるたび、異紀は数値を素描の余白へ加えた。
 次に秤が観測台へ出された。
 理一郎が木鷽を載せる。
 針が振れ、止まった。

「百八十七匁ほど」
「見た目よりあるねえ」
「木の塊やきな」

 重さを書き込む。
 理一郎は木鷽を秤から下ろし、折尺の端を嘴へ寄せる。

「嘴、三分ほど」

 異紀は、昨日理一郎が書いた嘴付近の素描を帳面の横に広げた。嘴の根元まで、細かな線で拾われている。
 以前、理一郎が手にしていた泰西の博物画を思わせた。
(心臓の時もなかなかやったけど、また上手うなっちゅうねえ)

 理一郎は正面と横から基部の幅、高さを取っていく。
「短い。基部が厚くて、深い」
「何の鳥か、分かる?」
「種を割る嘴だ。形なら、アトリの類に近い」
「鷽やないが?」

 理一郎は折尺を嘴から離した。
「条件には合う。ただ、ここには比較できる鳥の標本がない」
「生きたがを見るのは?」
「今頃は北の山や。ここで探して見つかる鳥ではない」
 言われてみれば、夏場にあの口笛のような声を聞いた覚えがない。
「本体の造形と伝来、嘴の形まで合えば、今回の扱いには十分だ」

 理一郎は折尺を置いた。
「〔鷽として矛盾なし〕、で置く」
 その通りに記した。
「けんど、本物より大きいがやね」
「生きた鷽なら五寸ほどだ」
 数字のやり取りは、そこで途切れた。

 異紀が次の行へ筆を移したところで、開け放した戸の向こうに三福の顔が覗いた。
 三福は二人を見比べ、部屋へ入ってきた。観測台の方へ足を向ける。
 理一郎が呼んだ。

「ふく――三福」

 三福が耳を動かした。
 その進路を塞ぐように、理一郎が観測台との間へ手を出す。

「そっちはいかん」

 三福は足を止め、差し出された指の匂いを嗅ぐ。その手がゆっくり戸口の方へ動くと、今度はついてくる。
 観測室の外まで三福を連れ出すと、理一郎も一歩廊下へ出た。
 三福は去らず、じい、と理一郎を足元から見上げた。

「朝、食うたろう」

 片膝を折りながら、袖へ手を入れる。小さな紙包みが出てきた。
 三福の頭がつられるように包みを追った。
 ふ、と、理一郎が笑う気配がした。顔は見えなかった。

「少しだけやぞ」

 廊下の端へ中身を置くと、三福はすぐに顔を伏せた。食べ終えると、ねだるように理一郎の手に頭を擦り付ける。
(――朝は、逃げられよったに)
 朝、分館へ来る途中、石敷きで三福へ手を伸ばす理一郎を見かけていた。

「また、明日来い」

 理一郎が声をかけると、それ以上はないと悟ったのか、三福はすっと身をひるがえした。
 三福が去ったのを見届けると、理一郎は観測台に戻ってきた。
 異紀は帳面に何か書きつける振りをした。
 振り返った理一郎の唇の端が上がっていたことは、書かなかった。

◇

 理一郎は木鷽を持ち上げ、薄布の上へ戻した。
 向きを確かめ、被せ蓋を下ろす。
 蓋が収まったところで、理一郎の胸がゆるんだ。
 息が、長く出る。

 異紀は筆を止めた。
 ――また、吐いた。
(蓋を上げた時には、吸うた)
 理一郎を見た。

「志岐さん。もう一遍、開けて」
「何かあったか」
「確認したい」

 理一郎は、黙って蓋を持ち上げた。
 胸が動き、短く、息が入る。
 異紀はそこだけを見ていた。
 ――やはり。

「久遠?」
「そのまま」
「何を――」
「――抱き寄せられし腰は――」
「やめろ」

 返りが早かった。
 異紀はもう一行拾った。

「褥に沈みし身を、なお深く――」
「やめろと言っておる!」
 語気が荒い。
「おまえ、ほんまに何ちゅうもん読んどる。測量術も読む、養蜂書も読む、講談本まで漁る。その上で艶本を諳んじるな。雑読にもほどがある!」

(何を言いゆうが、この人は)
 異紀は、鼻からひとつ息を抜いた。
「今までで、いちばん声出たねえ」
「はぐらかすな」
 存外、声が低かった。

 前の務めを思い返した。
 ほんの数年前のことなのに、今はずいぶん、遠い。
「……昔は、読むもんまで決まっちょったきね」
 それを聞いた理一郎の顔が曇った。
「だから、何でも読むのか」
 声にはもう、先ほどの勢いがなかった。
「今は、気になったもんを自分で取れるろ」
 異紀は続けた。
「やき、枕絵でも好色本でも、気になったら手ぇ出す」
「……もうえい」
(気にしゆうねえ)
 異紀はそれ以上言わず、帳面へ目を落とした。

「閉めてえいよ」
 理一郎は釈然としない顔のまま、蓋を戻した。
 木鷽が収まる。
 間を置かず、息が出た。

 異紀は時刻の脇へ、もう一つ印をつけた。
 開けば、吸う。閉じれば、吐く。
 何を示すかまでは、まだ書き添えなかった。

◇

 理一郎は蓋から手を離し、異紀の帳面へ目をやった。
 時刻の脇に、見覚えのない印が増えている。

「今、何をした」
「検証」
 異紀はあっさり答えた。
「何を」
「まだ言わん」
「理由を言え」
「言うたら、それが答えになるき」

 艶本のことも、話を切られたことも、まだ腹には残っている。
 だが、異紀が答えを伏せている理由は、そこにはない。

「……俺が知らん方がいいんだな」
「今はね」

 開けば変わる。閉じれば戻る。
 そこまでは、二日で何度も確かめた。
 理一郎は先日の聞き取りの頁を開いた。
 鳴海屋でも、年に二度、木鷽を出す。数日据えて、また納める。

「……合わんな」
「何が?」
「これが昔から同じなら、なぜ今になって続けて出た」
 鳴海屋の定め自体は、昨日今日に始まったものではなかった。
 少なくとも、先代の頃から続いている。

 異紀も頁を覗いた。
「木鷽の方が変わったかねえ」
「それか、扱いが変わったのか」

 箱の寸法も、本体の形も取った。
 開閉による変化も、ひとまず再現している。
「ここで見られるのは、持って来られたあとのことだけだ」
 残っているのは、この木鷽が家の中でどう扱われてきたかだった。

「一度、鳴海屋を見たい」
「――行く?」
「先に調査課を通す必要があるな」
 異紀が頷いた。
「書状はわしが用意する」
「扱いについて確認したいことがあると入れてくれ。差し支えなければ、女中頭本人にも話を聞きたい」

 異紀は帳面を閉じて立ち上がった。
 理一郎も手袋を外す。
 二人分の足音が廊下へ出た。
 次は、鳴海屋だった。