朝の陽は、すでに分館へ続く石敷きまで差していた。
玄関まであと数歩というところで、植え込みの下から三毛が出てきた。
理一郎は足を止めた。
「……三福」
三福はこちらへ寄ってくる。
「聡いな」
理一郎は袖口から紙包みを出した。
昨夜、鰹節を削った折に、三福の分だけ別へよけておいたものだった。
紙を開こうとすると、三福は鼻先を寄せてきた。
「待て」
中身を取り出し、石敷きの端へ置く。
三福の頭が下がった。削り節は、すぐに尽きた。顔を上げた三福の鼻先が、今度は紙包みへ向く。
「もう終いや」
三福はその場を動かなかった。
「食わせすぎてもよくない」
理一郎は紙を畳んだ。
餌が目当てなら、もう離れてもよさそうなものだった。
三福の顎の下へ手を差し出す。
指先が届く寸前、三福はするりと身を沈め、その下を抜けていった。
「…………」
二歩ほど先で、三福が振り返った。
理一郎は手を下ろした。
「持ってきたのはあいつだが、食えるようにしたのは俺だぞ」
三福は植え込みへ入っていった。
葉の間へ尾が消える。
(余計なことを言うたな)
紙を袖へ戻しかけた手が止まった。
木箱は、昨日から閉じたままだ。
ただ口に出しただけか。まだ作用が残っているのか。
――今のは、どちらだ。
包みを袖へ入れ、理一郎は玄関へ向き直った。
朝から、既に暑い。
高く結んだ髪の下、開いた首筋を風が抜けた。
◇
分館へ入り、執務室へ向かう。
戸は開いていた。
普段なら、この時刻には異紀の方が先に来ていることが多い。
けれど、今日は席が空いていた。
理一郎は足を緩めた。
(まだか)
鞄を自分の机へ置く。
遅いというほどの時刻ではない。
それでも、窓際の席へもう一度目が向いた。
本が昨日のまま机に積まれていた。栞が一枚、斜めに飛び出している。
ほどなく、廊下から足音が近づいてきた。
開いた戸口に異紀が現れる。
「おはようさん」
「おはよう」
今日は、いつもの鞄に加えて、風呂敷を抱えていた。
理一郎は茶鼠の布包みを見た。
包みの四隅は硬く角ばっている。
「何を持ってきた」
異紀は自分の机の端へ包みを置く。
「ちくとね」
置かれた包みが、机の上で低く鳴った。
「随分、重そうだが」
「持てんほどやないよ」
それ以上は言わず、鞄を椅子の横へ下ろした。
茶鼠の包みが、机の上に残った。
異紀は素知らぬ顔で、本の山を脇へ寄せた。
◇
観測室へ移ると、異紀は観測台の脇へ先の包みを置き、帳面を開いた。
木箱は観測台の上にある。
前日の観測を終えてから、蓋には触れていない。
理一郎は異紀の隣から、末尾の記載を見た。
〔発現契機は開封を第一候補とするも、時点未確定〕
異紀がその行を指で示した。
「昨日の分、まだ仮置きでえい?」
「それでいい。記憶も判断も落ちてない」
薬湯の名も、どこにあるかも答えられた。
木鷽の扱いも、記録の手順も崩れてはいない。
「だが、その前が利かなくなっている」
昨日、紙の上に並べた、制止、選別、修飾。
今のところ、それを崩す材料はない。
「ほいたら、今日は条件の方やね。いつから始まって、いつ戻るのか」
昨日は、箱を開けたあとに発語が変わり、閉じたあとには収まったように見えた。
だが、一度きりでは、開閉による変化かどうかはまだ決められない。
「昨日は一回やったきね」
「条件にするには足りない。蓋か、時間か。ほかに何かあったかもしれん」
理一郎は木箱を見た。
「だから、まず再現を取る。開けたあとに同じ変化が出るか。納めたあとに収まるか」
「閉じちゅう今は?」
「納めたままなら、出ないはずだ」
口にして、朝の石敷きの一言が頭をかすめた。
あれにも、まだ答えがない。
「少なくとも、昨日と同じ出方はしてない」
「出ん、はどこへ書くが?」
発語がなかった。それだけでは、作用がないとは言えない。
その時、口へ出るものがなかったのかもしれない。
「……印がないな」
異紀は空いた行を残して、筆を置いた。
「何もせんと始まらんき」
異紀は席を立ち、木箱へ手を伸ばす。
「待て」
振り返る。
「わしが開けたらいかん?」
「ひとまず、他の条件は揃えておく」
少しの間、異紀は理一郎を見ていた。
それから、箱へ伸ばしかけた手を下ろした。
「始めるぞ」
理一郎は懐中時計を開く。
「啓治二十七年八月十一日、午前九時三十分。木鷽発語異常一件、第二日観測」
筆が追いつくのを待った。
「前日観測終了後より木箱未開封。本日は、前日認めた発語異常の再現、並びに発現及び収束条件の確認を行う」
理一郎は木箱の前へ立った。
粉も臭いも、昨日のうちに見ている。口布は出さなかった。
昨日、自分が何を言ったかは覚えている。
言うつもりのなかったことまで、異紀は聞いた。あとから考え直すことも、言い換えることもできた。
だが、出る前へは戻せない。
どれも、自分の内にあったものだった。
また同じことをする。
蓋へ手を掛ける。
ゆっくりと持ち上げた。
◇
木鷽が露わになる。
異紀は理一郎を見ていた。
蓋が上がりきる前に、その胸が動いた。
理一郎は、蓋を置くなり、顔を背けた。
「見るな」
「じろじろは見ん」
筆は動かなかった。
これを一つ目にはしたくない。
ほかに、平時と比べられるものはないか。
理一郎は、まだこちらを向こうとはしない。
帳面は白いままだった。
記憶を辿った。
濃い緑の表紙。金の箔押し。
その向こうで、戸口の理一郎は足を止めていた。
『……それを、わざわざ声に出すな』
あの時の返しなら、覚えている。
異紀は、似た調子の一節を拾った。
「――息は乱れ、褥は鳴りて、もはや声を抑ゆるすべも――」
「やめろ」
早い。異紀はそこで止めた。
「えい声で言うたつもりやけんど」
「こっちが恥ずかしい」
前は、こんな言葉は出てこなかった。
あの時は、読む場所だの、声に出す必要だの、別のところへ話を持っていった。
今日は違う。
「これで、どうやろ」
「何が」
「昨日と同じようなんが、今日も出た」
理一郎は木鷽を見た。
「俺は、御免だ」
理一郎は、昨日のことを全部覚えている。
言わなくていいこと、知られたくないことを口にしてしまうものだと、身をもって知っている。
それでも、箱を開けるまでは、異紀を近づけさせようともしなかった。
(嫌やったに。それでも、わしには、させんかった)
「わしで取ってもえい」
理一郎がこちらを向いた。
「おまえはえい」
「比較にはなるろう」
異紀は木箱に近づこうとした。
理一郎の口が先に開いた。
「それは、いやや」
場が止まった。
理一郎も、自身の一言に追いついていなかった。
観測台に置いた手の指が、ひとつずつ掌へ収まった。
「……まず、俺で取る」
息が、喉の手前でつかえた。
(……ほんに。自分は御免や言うたのに)
異紀は背を正した。
「さっそくやけど、いっぺん蓋してくれる?」
理一郎が片眉を上げた。
「今、開けたところや」
「そうやね」
理一郎がこちらを見た。
視線がぶつかったが、どちらも外さなかった。
先に理一郎が小さくため息をついた。
蓋へ手を伸ばす。木の縁が重なった。息が抜け、肩から力が下りた。
◇
異紀は台の端の風呂敷包みを引き寄せ、結び目をほどいた。
布を広げ、中の将棋盤を理一郎の前へ据える。駒箱も取り出し、風呂敷を脇へよけた。
箱を開け、盤へ駒を並べ始めた。
理一郎は、並んでいく駒を目で追った。
玉が一つ。金と銀。それに香。
数は多くない。初めから指すための並びではなかった。
「何をしている」
「並べゆう」
「それは分かる」
一枚。また一枚。
玉の周りが狭くなる。一枚動かせば、逃げ道は増える。
理一郎は膝の上で手を組んだ。
異紀は最後の一枚を置くと、盤面を眺めて一人頷いた。
「終いか」
「まだ」
「何を確かめる気だ」
「後で言う」
理一郎は口を閉じた。
異紀が袖の内へ手を入れた。出てきたのは紙包みだった。
昨日と同じ折りだが、ひと回り大きい。中のものが触れ合う音がした。
「待っちょる間、これでも食べちょって」
「観測中やぞ」
今度は懐紙入れを取り出した。
「わしも食う」
懐紙を一枚抜く。
「半分、こっちへ分けちょいて」
理一郎は包みを見た。
昨日も異紀は同じものを袖から出した。
渡しそびれていた、と言った。
「……なぜ今だ」
「待つ間があるき」
異紀は紙包みに懐紙を添えて、理一郎へ渡した。
それで用が済んだというように、異紀は立ち上がった。
「ちょっと外す」
「どこへ」
「すぐ戻る」
そう言って、足早に観測室を去っていった。
残ったのは、閉じた木箱と将棋盤、それから手元の金平糖だった。
理一郎は紙包みの口をひらいた。
思ったより粒が多い。
数えて、半分を懐紙へ移した。
数が合わない。一つ戻す。
懐紙の端を折り、台の端へ寄せておいた。
外の蝉が近い木へ移ったらしい。声が大きくなる。
理一郎は盤へ目を戻した。
玉の逃げ場は二つ。どちらへ寄っても、その先は塞がる。
異紀が最後に置いた銀へ目が行った。
廊下から足音が戻ってきた。
異紀は本を何冊か抱えていた。観測台へ下ろす。
理一郎はその中の一冊に目を止めた。見覚えがあるどころではない。
自分の机に置いてあった本だ。
「……それは、俺の本だ」
「知っちゅう」
言いながら、異紀は先ほど広げた懐紙へ目を落とした。
「分けてくれたんやね」
「やれと言ったのはおまえだろう」
「もろとくね」
懐紙を片手に、席へ戻る。
理一郎は口を開きかけて、閉じた。
異紀が盤の上を見た。
次に帳面へ目を落とし、最後に木箱へ顔を向けた。
「志岐さん」
「何だ」
「もう一遍、開けてくれる?」
「何回やるつもりだ」
「分からん」
理一郎は、黙って木箱の前へ立ち、蓋の角へ手を添えた。
◇
理一郎の喉元が、ひとつ動いた。
異紀は帳面へ時刻を記した。
理一郎が席に戻ると、再び駒を一枚取り、将棋盤へ置いた。
本に載っていた盤面を、頭の中で一枚ずつ辿る。
駒の動きは知っているが、指したことはない。
だから、頁の通りに並べていく。
二枚目を置く。
「久遠」
「なに」
三枚目。
「そこは違う」
手は止めなかった。
「どう違うが」
理一郎が盤の一角を指した。
「そこへ置くなら、香が利く」
異紀は次の駒を取った。
「ほうか」
淡々と四枚目を置いた。玉の逃げ場が減った。
「まだ置くのか」
答えず、次を取る。
「そっちばっかりやないか」
一枚置く。あと一手。
異紀は最後の駒をつまんだ。
「……もうえいやろ」
構わず盤の上へ運ぶ。
盤へ触れるより先に、理一郎の声がかかった。
「そこへ置いたら詰む」
「そうやね」
「分かっちょってやるがか」
「よう見えちゅうね」
異紀は手を引いた。それ以上は何も言わなかった。
理一郎は盤を見つめていた。
しばらくして、銀へ手を伸ばした。
「ここを退けたら、まだ逃げられる」
一枚動かす。盤面を見て、今度は金へ指を掛けた。
「いや、先にこっちやな」
置き直す。また少し考える。
「この香も、ここにおらんでもえいやろ」
香をつまむ。
理一郎は返事を待つ様子もなく、香を動かした。
続けて、別の駒へ手を伸ばす。
一枚。また一枚。
塞がれていた玉の周りに、逃げ道が戻っていく。
「これでえい」
手を離した。だが、すぐに盤へ戻る。
金を一つつまみ、別の升へ置いた。
「……いや。こっちの方が」
理一郎は盤面を見渡した。最後に玉の脇へ一枚寄せる。
じっと眺めてから、ようやく手を引いた。
異紀はそこで筆を取った。
理一郎の目が、帳面へ移る。
「それまで書くがか」
「遊んだだけになるろ」
筆が行を埋めていく。
「将棋は、もう終いでいいのか」
「わし、将棋はよう分からんき」
理一郎の眉が寄った。
(納得いかない顔しゆう)
「知らんのに、俺を負かす手順だけ覚えてきたがか」
「仕事はしゆうろ?」
「まったくな」
異紀は金平糖を一つ、自分の懐紙からつまんで口へ入れた。
「まあ、そう言わんと。志岐さんも甘いもんでも食べ」
「子ども扱いするな」
言いながらも、指が紙包みへ行く。指先が白い一粒を拾った。
理一郎は盤へ目を戻しつつ、もう一粒つまんだ。
また、白だった。昨日も、同じだった。
異紀も懐紙からもう一粒取り、木鷽へ目をやった。
「志岐さんも、そろそろ仕事して」
理一郎が顔を上げた。
「俺はずっとしゆう」
異紀は木箱の方へ顎を向けた。
つられるように理一郎は立ち上がり、木鷽に蓋を被せた。
すぐあと、短く息を吐く音がした。
◇
理一郎が席へ戻ると、異紀が帳面へ何行か書き足していた。
行の脇にも、短い書き込みが増えている。
盤は、自分が直した形のまま残っている。
途中から、異紀がただ駒を並べているわけではないことには気づいていた。
こちらを見て、何かを取ろうとしている気配があった。
それでも、理一郎は口を出し、最後には手まで出した。
異紀の筆が止まった。帳面がこちらへ向けられる。
頁を追った。
『そこは違う』
『そっちばっかりやないか』
『もうえいやろ』
口元に力が入る。
覚えている。どれも、自分が言った。
改めて文字にされると、ずいぶん余計なことまで口にしている。
一度、頁から目を外した。
「この三つは、まとめていいと思う」
「どう書く?」
問われて、帳面へ目を戻す。
「〔盤面の進行に伴い、配置に対する訂正要求及び継続への忌避を反復して言語表出〕」
筆が動く。『そっちばっかりやないか』も、『もうえいやろ』も、同じところへ収まっていく。
「〔その後、最終手の配置を制止。盤上を指示したのち、自発的に複数の駒へ接触し、配置を変更〕」
異紀は言われたとおりに書き取った。
「手ぇまで出るとは思わんかった」
「それでよく最後まで通したな」
「途中で止めても分からんきね。閉じちゅう時は?」
「見てはいた。触れてはいない」
その一行が加えられる。
理一郎は前日の記載へ目を移した。
「これだけでは足りんかもしれんな」
異紀が顔を上げる。
「昨日は、口だけやったきね」
「ただ、先に言葉が出てる」
「言うた勢いで、そのまま続いたがやろか」
「その可能性はある」
理一郎は盤の方を向いた。
「手を出さんようにする方も、同じように利きにくくなったか」
異紀の手が止まる。
理一郎の頭に、治助の話が浮かんだ。
異紀が前の頁をめくった。治助から聞き取った箇所を開き、頁を押さえた。
「声を荒らげて、算盤を投げた、言うちょったね」
「口が先で、手が後や」
理一郎もその記載を見た。
その場の勢いで算盤まで投げたのか。帳場の件でも、二つは分けられない。
今日の盤も同じだった。
閉じていた時も、逃げ道は見えていた。どの駒を動かせば形が変わるかも分かっていた。
だが、自分が触る理由はなかった。手は膝の上にあった。
「……まだ決められんな」
異紀は頁を戻した。
「これ、どう置く?」
理一郎は帳面の白いところを見つめた。
「今日は、〔発語に続いて自発的な動作の変化を認めた〕、くらいで置いておく」
異紀が筆を含ませた。
「前のはそのままでえい?」
「消すほどではない」
頁を見たまま続けた。
「ただ、あれで全部だとはまだ言えん」
異紀は余白を残して一行を書き、筆を置いた。
「さて」
異紀は積んだ本へ手を伸ばし、理一郎の側へ寄せた。
それから一冊を抜き取り、頁を開く。
「何をしている」
「休憩」
異紀は頁へ目を落としたままだった。
「閉めちゅう間は出ん、とも決まっちょらんろ」
理一郎は返す言葉を探して、やめた。
「何か出るかもしれんき、普通にしちょって」
「……そのために持ってきたのか」
異紀が頁をめくる。
「やき、志岐さんの分もある。用意えいろ」
寄せられた山の中に、先ほどの自分の一冊がある。
「さっきのもあるよ」
「さっきの、とは」
「『春宵枕競べ』」
理一郎は無言で医書を引き抜いた。
異紀もそれ以上は言わず、自分の本へ戻る。
しばらく、頁をめくる音だけが続いた。
活字を追いながら、時折、向かいに積まれた本が目の端へ入った。
栞が半端なところから覗いている。
しばらくして、異紀が本を伏せ、立ち上がった。
「茶にしよか」
金平糖が載った自分の懐紙を、理一郎の方へ押した。
「これも食べ」
「中身は同じやろう」
「ほうやね」
異紀は手を引かなかった。
理一郎は異紀を見た。それから、一粒取った。
「もっと食べ」
「太らせて食う気か」
「泰西の本に、そんな話があったねえ」
仕方なく、もう一つ手前のものをつまむ。それを見届け、異紀は出ていった。
理一郎は医書へ目を戻した。
開いた頁の向こうで、白と薄紅の金平糖が、懐紙に散っていた。
小半刻ほどして、異紀が帳面を引き寄せた。
「どう?」
理一郎は医書から目を上げた。
「何が」
「なんかあった?」
「ない」
「ほう」
異紀は一行だけ記した。それから窓の外へ目をやった。
「まだ時間あるね。志岐さん、もう一回開けてみて」
「またやるのか」
「昼までには終わるき」
理一郎は木箱の前へ立った。
「これで最後だろうな」
「午前はね」
理一郎が振り返ると、異紀は本を開いたままだった。
何も言わず、箱へ向き直る。蓋へ手を掛ける。
木鷽が露わになる。
◇
理一郎の襟元が動いた。
異紀は再び帳面の端へ時刻を書いた。
理一郎が席へ戻る。
「何をする」
「さっきの続き」
異紀は頁をめくった。
「開けたときも何もないかもしれん」
理一郎は再び、医書を開いた。
観測室に、紙をめくる音が戻った。
異紀も本へ目を落とす。茶は温くなっていた。
観測台には、読みかけの本と、空になりかけた湯呑みと、金平糖を載せた懐紙がある。
理一郎が頁を送る。一枚、また一枚と頁がめくられていく。
その手が、ふと止まる。
異紀は顔を上げなかった。ただ、目はそちらに向いた。
積まれた本の山から、栞の端が覗いている。
昨日、異紀が斜めに挟んでおいたものだった。
理一郎の視線がそこへ落ちた。
一度は医書へ戻り、一行ほど追う。また栞を見る。
手が伸びた。栞を抜き、向きを直して挟み直すと、医書へ戻った。
少しして、懐紙から一粒つまんだ。白だった。
頁を二枚ほど送って、もう一度。
今度も白だった。
異紀は本へ目を落としたまま、脇の手控えへ手を伸ばした。
余白に、短く二つだけ書いた。
『白』
『白』
昼の鐘までは、もうさほどない。
「そろそろ、終わりにしよか」
理一郎が医書を置き、木鷽に蓋を被せた。
すぐあと、短く息を吐く音がした。
まただった。
◇
理一郎は席へ戻った。
傍らでは、異紀が積んだ本を片づけ始めていた。そのうちの一冊を手に取る。
先ほど、理一郎が栞を差し直した本だった。
「そういや」
異紀は本の間から覗く栞へ目を落とした。
「これ、昨日からずらして挟んじょったき」
理一郎は本を見た。斜めに覗く端は、朝から何度か目に入っていた。気にはなった。
だが、他人の本だ。触る理由はない。
にもかかわらず、蓋を開けた自分は、手を入れた。
異紀へ目を移す。
「……そういうことか」
異紀は本を重ねた。
(……どこが休憩や)
昼の鐘の音がした。