午後になると、理一郎の机は、開いた医書で埋まっていた。
流行病の症例集、精神の変調を扱った本、黴や菌類による中毒を記した訳書。
午前の回付書にあった「平素なき発言」を引き起こすものがないか、片端から当たっていた。
窓側では、異紀が聞き取り用の帳面を用意していた。日付と『木鷽発語異常一件』の表題を書き、吸取紙を挟む。
硯の横へ筆を二本置いたところで、玄関の呼鈴が鳴った。
理一郎は本へ栞を入れた。
「来たな」
「茶を淹れてくるね」
異紀は帳面と筆記具を応接間へ運びにいき、湯沸所へ回った。
玄関には、鼠色の布包みを両腕に抱えた男が立っていた。
六十をいくつか越えているだろう。薄物の羽織も帯も、長く客前に立ってきた商家の者の着方だった。
「呉服商の鳴海屋で番頭を務めております、治助と申します。お調べいただきたい品をお持ちしました」
理一郎は身を引いて、道を空けた。
「特例事象観記掛の志岐です。こちらへ」
治助は履物を揃え、包みを抱え直して廊下へ上がった。
理一郎が先に立って進み、応接間の戸を開ける。
室内の中央には応接卓があり、その周りに四脚の椅子が置かれていた。壁際には茶器台がある。
治助は持参した品を卓の端へ下ろし、勧められた椅子へ腰を掛けた。
異紀が茶を載せた盆を持って入ってきた。白い湯気が、歩みに合わせて揺れていた。
治助の前へ湯呑みが置かれる。
治助は礼を返そうとそちらへ顔を向けた。傾きかけた頭が、異紀を見たまま一瞬止まり、遅れて下がった。
異紀は残りの茶を配り、盆を壁際の茶器台へ置いて一礼した。
「書記官の久遠異紀です。お話は、こちらで記録します」
治助の返事が、半拍遅れた。
「……治助と申します。どうぞ、よろしゅうお願いいたします」
異紀は理一郎の隣へ座り、先に置いていた帳面を開いた。
筆先が紙の上へ来たのを見て、理一郎は午前の回付書を卓へ出す。
「まず、お持ちになった経緯から、聞かせてください」
治助は包みへ手を添え、中央へ寄せた。
「こちらは、鳴海屋に古くから伝わる木鷽でございます。年に二度、定めの日に箱から出しまして、家の奥へ据えております」
「定めの日というのは、いつです」
「鷽替えの定めと申しまして、一月七日と七月一日に。三日、長ければ七日ほど、置いております」
「七月一日?」
理一郎が聞き返すと、異紀も帳面から顔を上げた。
「鷽替えは、一月にするものと思うちょりました。夏にもするがですね」
「わたしも、鷽替えそのものは正月の行事と承知しております」
治助はゆるく首を傾げた。
「なぜ鳴海屋では七月にも行うのか、由来までは存じません。奉公に上がった頃には、すでにこの日取りでございました。先代も、物心ついた頃にはあったと申しておりました」
異紀は、日取りと由来不詳の旨を帳面へ加えた。
「この七月も、いつもと同じように?」
「はい。一日に出しまして、奥へ据えました」
治助は卓上の布包みへ目を落とした。
「その頃、うちのお嬢様の縁談がございまして。先様をお迎えした席で、女中頭が、口にしてはならんことを申しました」
「何と言ったんです」
治助の口元が引き結ばれた。
「――『お嬢様には、お慕いしておいでの方がございます』、と」
筆が紙から浮きかけたが、止まらず次の字へ進んだ。
縁談の相手を迎えた席で出た言葉なら、当人同士の問題に留まらない。
家の信用にも、商いにも触れる。
異紀が顔を上げた。
「その方は、どんなお人ですか」
「娘の頃から、うちへ奉公に上がっております。お嬢様がお生まれになってからは、ずっとおそばについてまいりました」
治助の答えには迷いがなかった。
「奥の事情をよう知っておりますが、それを軽々しく口へ出すような者ではございません。家にも、お嬢様にも長う仕えてくれた、信用の置ける人間です」
奉公の年数と当主の娘との関わりが、帳面へ書き留められていく。
「そのあとは、どうなさったんです」
「旦那様は、すぐに暇を出すことはなさいませんでした。長くそばに置いてきた者です。まず事情を確かめるようにと」
治助は喉に絡んだものを払うように、一度咳をした。湯呑みには手をつけることなく、話を続けた。
「女中頭本人も、なぜあの場で申したのか分からんと言うております。言葉にしたことは覚えておりますが、口へ出すつもりはなかったと」
記憶はある。意識も失っていない。本人の認識では、言うつもりのなかった内容が発語へ出た。理一郎は口を挟まず、異紀が書き終えるのを待った。
「初めは、誰もこの品を疑っておりませんでした」
治助は包みの方へ顔を向けた。
「ところが、このたびの話を家の者同士でしておりましたら、そういえば、と申す者が出てまいりまして」
治助は間を置かずに続けた。
「何年か前、帳場の若い者が、ほんの些細なことでひどく腹を立てたことがございました。声を荒らげ、手近の算盤を投げたそうです。普段は、滅多なことで怒る者ではございませんでした。その折は、虫の居所でも悪かったのやろうと、それで済ませております」
筆が頁の下へ移った。
治助の言葉が切れたところで、理一郎が口を開いた。
「ほかにも、似たことはありましたか」
「別の年には、奥へ仕える者が、仕事の途中で急に泣き出しました。何が悲しいのか尋ねても、本人にも分からんと申したそうです。疲れが出たのやろうと、その日は休ませました」
他の年でも、人前で癇癪を起こした者がいたという。いずれもその場では本人の機嫌や疲れとして扱われ、家内で長く問題にされることはなかった。
「三件とも、別の者ですか」
「はい。時も、人も、ばらばらでございます」
異紀が三件を分けて記す。
「このたびのことがなければ、どれも思い出さんままやったかもしれません。話をしているうちに、どれも木鷽を出していた頃やったと分かりまして」
現れたものは、怒り、涙、癇癪、言うつもりのなかった発言。人も時も揃わず、木鷽を据えていた時期以外の共通点は、まだない。
理一郎は話の向きを変えた。
「それで、こちらへ?」
「鳴海屋は、昔から公家方や大名家へ反物を納めてまいりました。今も、その頃から続くお付き合いが幾つかございます」
ここで初めて、回付書にあった旧華族家とのつながりが見えた。
「家内のことでもございますので、旦那様が、なかでも古くからお付き合いのあるお方へ、内々に話をなさいました」
治助は言葉を切った。
「先方でも、つい先頃、ある品のことで調査課へ相談なさったことがあったそうです。そのご縁で、この話もお取り次ぎくださったと聞いております」
――二胡のことか。
理一郎が回付書へ目を落とすのと、異紀の筆が止まるのは同時だった。
向かいの治助はそれに気づかず、持参した包みへ両手を伸ばした。
「品は、いつもこの箱へ納めております。こちらが、その――」
治助は風呂敷の結び目をほどき、四隅を卓上へひらいた。鼠色の布の中央に、古い木箱が現れた。深い被せ蓋が底へ重なり、黒ずんだ角は長年の扱いで丸くなっている。
「木鷽は、この中にございます」
治助の両手が、蓋の左右へ掛かった。
「待ってください」
理一郎が手を上げた。
治助の指が、蓋の縁で止まる。
「発言に異常が出たなら、箱の中に原因がある可能性もあります。黴や薬の類かもしれません」
治助は蓋から手を離した。
「開けるのはこちらでやります。少し離れていてください」
異紀は筆を置いて席を立った。治助とともに壁際へ下がる。
理一郎は懐から薄い紙包みを取り出した。中の濾気口布を鼻口へ当て、左右の紐を後頭部で結ぶ。
それから、箱の合わせ目へ指を掛け、片側をわずかに上げた。内側の空気を逃がす。
粉塵も、薬や腐敗を思わせる異臭も認められない。
蓋をもう少し持ち上げる。
白い敷布の上に、鳥の形をした品が一体納められていた。
目につく欠けや崩れはない。
理一郎は箱を開けただけにとどめた。
「この品で間違いありませんね」
治助が離れた位置から箱内を確かめる。
「はい。そちらでございます」
理一郎は蓋を戻した。
木の縁が重なり、内側が閉じる。
口布を外した。喉にも胸にも異変はなく、頭の重さもない。
「中へ、防虫の薬や香を入れることは?」
「ございません。箱の外を拭くことはありますが、中へは何も」
「では、このままお預かりします」
異紀は席へ戻ると、開封の時刻、箱の状態、治助の返答を帳面の末尾へ加えた。
続けて別紙に、〔木鷽一体、木箱入り〕と記す。
「こちらをお改めください」
治助は記載を確かめ、末尾に名を入れた。
理一郎は帳面の脇へ、〔異臭・粉塵ともに認めず〕と短く書き添える。
筆を置くと、治助はようやく一息ついた。
「これで、何か分かりますでしょうか」
「まず箱と品を調べます。今日のところは、蓋を閉じたまま保管します」
治助は頭を下げた。
「お願いいたします」
それから湯呑みを取り、一口だけ茶を飲んだ。
理一郎が治助を玄関まで送って応接間に戻ると、異紀は帳面を読み返していた。
◇
二人は木箱と帳面を執務室へ移した。
理一郎は木箱を来客卓へ置き、使用済みの濾気口布を新しい薄紙へ移した。
「志岐さん。そんなもん、前からあったかえ」
「先月、備品に入れた」
「そういや、薬棚も中身が増えちゅうねえ」
作業中に足をひねった西村を手当てしてからというもの、本館から分館へ怪我や不調が持ち込まれるようになった。
「診せに来る者がおるなら、使えるものは置いておく」
異紀の目が、理一郎の机の横文字の本へ移った。
「その本も、前からあったかえ」
「資料だ」
異紀は口布へ目を戻し、理一郎を見た。口元に、何か言いたそうな色がある。
「何だ」
「いや。よう揃えちゅうなと思うて」
理一郎は木箱へ向き直りかけて、言い足した。
「現に役に立った」
◇
八月十日、午前九時十五分。
「観測条件。場所、京洛博物館・異類資料観測室。天候、晴。北窓、および廊下側の戸を開放。室内に火気、香、薬剤の使用なし」
理一郎が口にする条件を、異紀の筆が一行ずつ帳面へ移していく。
観測台の中央手前には、前日預かった木箱が据えられていた。鼠色の風呂敷は外され、代わりに観測室の白布が下に敷かれている。
「木箱は前日の受領確認以後、開封なし」
異紀が書き終えるまで待ち、理一郎は薄紙の包みを開いた。
中から濾気口布を取り出し、鼻口へ当てる。左右の端を後頭部で結び、布の縁を指で押さえた。
「久遠、戸口まで下がれ」
異紀は筆を置き、開け放した戸のそばへ移った。
理一郎は被せ蓋の左右へ手を掛けた。
「開ける」
蓋の片側を浮かせる。すぐには持ち上げず、合わせ目から内側の空気が抜けるのを待った。
粉は舞わない。異臭もない。理一郎は蓋をもう少し上げた。
――これより、志岐理一郎は観測対象につき、書記官久遠異紀の目をもって記す。――
蓋が上がりきった。
鳥の羽ばたきに似た音が、異紀の耳の内に触れた。
異紀は理一郎を見た。蓋を手にする理一郎の姿に変わりはない。別のものが重なった気配もない。
ただ、蓋が上がる前とは違っていた。それは分かった。
今から理一郎に何が起こるかは、まだ分からない。
それが何であれ、受ける。そう決めていた。
理一郎はしばらく待っていた。喉と胸の具合を確かめてから、口布を解く。外した布を新しい薄紙へ載せた。
「粉は出ん。臭いもない。もうえい」
異紀は戸口を離れ、観測台へ戻った。
木鷽は、両手に収まるくらいの大きさだった。木鷽と聞いて思い浮かべていたものとは、造りが違った。
古い彩色は木肌へ沈み、羽に刻まれた筋の底へ黒が残っている。喉元には、褪せた朱が見えた。
理一郎は触れぬまま見る角度を変えた。
背から尾へ。腹の丸みから頭へ。光の当たり方を追いながら、正面へ回る。
嘴の前で動きが止まった。
異紀も横から覗き込む。
胴へ落ちた光は、木目に沿って途切れている。嘴だけは表面が滑らかで、乾いた艶を返していた。
理一郎は拡大鏡を取り、根元へ寄せた。
「……ここだけ、木やない」
「嘴が?どこで分かった?」
「塗りなら、下の木目が残る。根元から先まで、角質の筋が通っちゅう」
拡大鏡の向きが変わる。
「鼻孔も、木へ彫った穴やない」
嘴の上下に、細い合わせ目が走っている。
「木へ継いじゅう」
「何を?」
理一郎の喉が動いた。
「実物の、鳥の嘴や」
木の身に、鳥の口が残されている。
木では、足りなかったのか。
(呪い《まじない》もんや)
長年の用心が、考えるより先に働いた。
これまで観記掛に持ち込まれたものは、結果としてそう在ってしまったものだった。
心臓も、眼球も、更紗も、あの二胡でさえも。
だが、この木鷽は違う。明らかに造り手の意図がある。
――そういったものを、異紀は十数年と見てきた。
身の内で、古い芯が据わった。