理玄異聞録 第5話「胡聲」|第2章 分館昼景 ――声、預かる
七月四日。
観測室は、朝からひどく静かだった。
卓の中央には、白布を敷いた上に二胡が置かれていた。
胴の縁が、窓の明かりを鈍く返している。
形はきちんと収まっているのに、そこだけ沈んで見えた。
理一郎は観測台の脇へ立った。
異紀は帳面を開いていた。筆は手の内にあり、目は帳面の上を離れない。
「……啓治二十七年七月四日、午前九時四十分」
その声のあと、理一郎は二胡へ目を落とす。
「場所、京洛博物館地方分局・異類資料観測室。北向き高窓一枚。窓硝子越しの外光のみ。灯火なし。天候、晴れ」
異紀の筆が、帳面の上で静かに走る。
声を追う速さで、墨の線が白へ沈んでいった。
理一郎は折尺を手に取った。
白布の端をならし、二胡の棹の先から胴の底まで目盛を追う。
「全長、二尺六寸五分」
折尺を引き、今度は胴を見る。
「胴、縦三寸八分。横三寸五分」
弓は別に測る。
「弓、二尺五寸」
異紀の筆が、二尺五寸のところで止まり、すぐにまた進んだ。
理一郎はそこで二胡を両手で持ち上げる。
見た目より軽い。だが、支える手には胴の近くの重みが先に乗る。
棹の長さより、胴の方へ重みが偏っている。
白布へ下ろすと、布が擦れた。
理一郎が折尺を畳むと、異紀は最後の一画を払い、筆を静かに筆置きへ戻した。
そこで初めて顔を上げる。
卓の白布の上には、測り終えた二胡がまだそのまま置かれている。
異紀はその前へ身を寄せ、二胡を両手で抱え上げた。
そのまま腰を落とす。
棹へ触れ、胴の位置を直し、弓を取る。
指の置きどころに迷いが少ない。
昨日より先に、手がそこへ収まる。
膝の上へ納まったあと、袖口がわずかに遅れて落ちた。
理一郎はその動きを見てから、控えの紙を手前へ引いた。
硬筆を取る。紙端をそろえ、ひとつ息を置く。
そのとき、前日の声が遅れて戻る。
――弾きながら帳面は無理やきね。
――最初は、志岐さんが拾うて。あとで、わしが整える。
昨日、二胡を膝へ置いたまま、異紀はそう言った。
理一郎はその場で頷いている。
書記官の手が塞がるあいだは、理一郎が拾えばよかった。
理一郎はそのまま書きつける。
『前日試鳴にて、弾奏中の逐次記録は困難と認む。本観測は観測者控をのちに書記官が整理するものとす。』
そこまで書いて、硬筆を置いた。
紙の上には必要なことは残っている。
余った白が、まだ硬く見えた。
異紀は二胡を膝に置いたまま待っていた。
構えへ入る前の静けさはあるが、まだ弾き手の顔にはなりきらない。
弓の毛先が弦のあいだで止まり、離れ、また寄る。
どこまで保てばこの楽器が起きるのか、手の内で探っているような間だった。
理一郎は懐中時計の蓋を押し上げた。
秒針がひと目盛り進むのを見て、紙の端へ時刻を落とす。
『九時四十五分、弾奏開始。』
まず一本、高さを変えずに保たせるところから入る。
どこで鳴りが変わるかを見るためだった。
乾いた弦のまま終わるか、別の気配が混じるか。
見るのはそこだった。
異紀もそこは分かっているらしかった
まずは同じ高さのまま、乾いた一本を中ほどまで保った。
細い。
擦れた音がまっすぐ伸び、すぐ痩せる。
理一郎は控えへ短く落とす。
『単音・中・返りなし』
『弦擦れ強し。変化立たず。』
異紀はもう一度、同じ高さで引いた。
今度は先より長い。
音は途中で切れない。
消え際の端で、弦の擦れる感じが薄れる。
まだ何と呼べるものではない。
けれど、そこで終わりきらない。
消える前の端に、口を開きかけた気配が残る。
理一郎は時計へ目を落とす。
秒針がひと目盛り、もうひと目盛り進む。
『単音・長・返りなし』
『消え際、別層ごく薄し。』
異紀の視線は手元を離れない。
同じ高さのまま、長さを変えていく。
短く切るもの。
ひとつ長く保つもの。
そこからさらに伸ばすもの。
曲にはしない。節もつけない。
どの長さで、弦の音の奥に別のものが触れてくるか、その境を探っているようだった。
いくつかで変化が現れた。
短いものは、擦れたまま乾いて戻った。
喉の内側を湿りがひと撫でするような、柔らかさが乗る。
理一郎はその差を拾っていった。
『十時二十二分。』
『十時三十七分。』
紙の端に、時の刻みが増えていく。
十一時にかかるころには、異紀の手が落ち着いてきた。
入りの揺れが減り、返す位置も外れなくなる。
理一郎はそこで、次の段へ移る。
「……次、少し動かしてくれ」
異紀が目を上げる。
「上げて、すぐ戻すがか」
「ああ。浅くでいい」
「分かった」
左手が棹の上を浅くずれた。
平らに続いていた音の縁が、わずかに持ち上がって、すぐ元へ戻る。
その動きで、末端に残っていたものが鳴りの途中へ滲んだ。
楽器の音で閉じるには薄すぎるものが、一枚向こうから差してくる。
黒鉛が、紙の上へ落ちた。
『微動上げ戻し・中・返りあり』
『別層、鳴りの中途にごく薄く差す。』
異紀は、ごく短い二音で試した。
続けてもう一度。違う長さで。
片方はすぐ切れ、片方はわずかに尾を引く。
行きで立った音が、戻りの側でほどけきらない。
継ぎ目のところが、耳へ残る。
「……よう拾うようになってきた」
異紀が息にまぎれるように言う。
「そう取れる」
理一郎は短く返した。
異紀は頷きもせず、次の弓を置いた。
今度は返りを長く取る。
返りへ入ると、音が消えずに耳へ差してくる。
その継ぎ目に、先の一本より濃い気配が残った。
ただの弦の鳴りとしては、もう聞き過ごせない。
理一郎はまだ細かく縛らない。
どこを越えると変わるのか、まだその境を見ていたかった。
『単音・長・返りあり』
『返り側にて変化残る。』
『十一時十一分。』
長く保った一本の戻りで、喉の手前のようなものが、今度ははっきり耳に残った。
一度きりなら聞き過ごせたかもしれない。
似た保ち、似た返しで、同じものがまた立つ。
異紀の眉が、ひとすじ寄る。
次はそこを外すように短く切った。
鳴りはすぐ元へ戻る。
理一郎はその差を見る。
短ければ何も残らない。
少しでも保たせると、先ほどの気配が前へ来る。
毎回まったく同じではない。
だが、起きる場所は確実に寄ってきていた。
紙の上に、また一行。
『単音・短・返りなし』
『変化なし。』
似た保ちと返りを重ねるうち、残る場所が少し前へ寄った。
理一郎は、その分を控えへ足す。
『単音・長・返りあり』
『別層、前寄り。』
そこから先は、もう少し自由に鳴らさせる。
長く引くもの、途中で切るもの、節になりかけてやめるもの。
先に理一郎が切った範囲の内で、異紀は自然に鳴りやすいところへ寄っていく。理一郎はそれを止めずに見ていた。
そのうちのひとつで、ついに女の声が立った。
来る、と耳が先に身構えた。
長く保った音の返りの手前で、薄い気配がひとつにまとまる。
崩れずに残ったそれを、今度は女の声として聞いた。
理一郎の硬筆が、そこで止まる。
異紀は弓を落とさなかった。
次をすぐには行かず、ひと呼吸置く。
弾き足すでもなく、逃がすでもなく、ただ音の抜けた先を見ていた。
「……出たねえ」
異紀は弓を持ったまま言った。
理一郎は頷き、ようやく紙へ落とす。
『十一時二十一分。』
『女声、成立。』
『前段として、長保・返り・微動にて変化前寄り。』
異紀の視線が理一郎のところまで上がる。
目は静かだった。
その奥に、これまでなかった硬さがある。
置いたばかりの『女声、成立。』が、妙に目についた。
音が切れる。けれど、消えきらないものが、観測室に残っていた。
異紀は二胡を構えたまま動かないでいた。
理一郎はその手元を見て、口を開く。
「休むか」
異紀は首を横に振る。
「いや。もう少しやれる」
言い方は軽く、弓を離そうとする気配はない。
理一郎はそれ以上、休めとは言わなかった。
次からは、前の段より条件を細かく切る。
長く保たせるもの。短く切るもの。
返りを含めるもの。
そこからまた、ごく小さく動かすもの。
異紀は素直に合わせていく。
ただ、その中でどこへ寄るかは、まだ手の方が先に決めているようだった。
理一郎はその寄り方を見る。
いま見えているのが、楽器の癖なのか、異紀の手が戻ってきたせいなのか、まだ切り分けきれない。
紙の上には、短い札が順に増えた。
『単音・長・返りあり』
『女声、成立。』
『単音・短・返りなし』
『変化立たず。』
『微動上げ戻し・中・返りあり』
『別層前寄り。』
『短二音・短・返りあり』
『女声、未成立。別層残る。』
女声は、午前のうちに三度立った。
別層が出ないまま弦の音へ戻るものもある。
長く保てば必ず出るわけでもない。
けれど、後半にかけ、そこへ届くまでの距離は短くなっていた。
正午に差し掛かるころには、紙は、時刻と記号で埋まり始めていた。
異紀の声が、次第に減った。弓を置き直す手が半拍遅れる。
理一郎はそれを見て、懐中時計の蓋を閉じた。
「……今日はここまででえい」
異紀は弓を持ったまま、しばらく動かなかった。
それからようやく、小さく肩を抜く。
「なら、そうしよか」
言って、二胡を膝から下ろす。
手を放したあとの息が、弾き始めた時よりも少し深い。
理一郎は控えの紙を見た。
『女声、成立三。未成立四。』
『単音長保・返りありにて成立しやすし。』
『微動上げ戻しにて変化前寄り。』
その下に、まだ白い余白がある。
午前で取れた分としては足りている。
だが、これで掴み切れたわけではない。
理一郎は硬筆を置いた。
異紀は二胡を箱へ戻す前に、棹のあたりを撫でた。
宥めるような手つきだったが、すぐに手は離れる。
「昼のあと、帳面やね」
「ああ」
「じゃあ、先に行っちょく」
異紀は箱の蓋を閉めると、振り返らずに、部屋を出ていく。
理一郎はその後ろ姿を見送ってから、紙の端へ午前終了の時刻を書き添えた。
『十一時四十八分。』
『観測一巡目、午前分了。』
その下へ、少し迷ってから一文を足す。
『初日につき、奏者手慣らしを含む。』
『女声発生条件、なお粗し。後半にかけ、変化の立ち上がり早し。』
***
昼をはさんだあと、異紀の手元では墨の線が静かに伸びていた。
午前の頭はすでに収まっている。
理一郎の走り書きは、異紀の筆をくぐるたび、帳面の上で、ひとつずつ形になっていく。
『微動上げ戻し・中・返りあり。』
その下へ、
『このとき、別層は消え際を離れ、鳴りの中途へ差す。』
細い黒が、帳面の上へ続いた。
理一郎は机に向いたまま、その手元の止まり方を拾っていた。
異紀が筆を持つたび、右肩が沈む。
紙より先に、その動きが目についた。
「ここ」
異紀が筆を止める。
十一時二十一分の少し上を、筆の軸で軽く示した。
「“女声、成立”の前、どこまで入れる?」
長保。返りあり。微動上げ戻し。
午前の並びが、そのまま理一郎の中に浮く。
「長く保ったことと、返りは要る」
「抑揚は?」
「残す」
異紀は頷いた。筆先がまた紙へ降りる。
『十一時二十一分、女声成立。』
そこへ一拍あって、
『前段として、長保・返りありのとき変化は前寄りに現れ、微動を加えるとその傾向さらに明らか。』
理一郎は息を浅く吐いた。
午前に耳へ残ったものが、紙に留められていく。
「……『女声“様”発声、成立』でもえいけどね」
異紀が声を落とす。
理一郎は少し考えてから、首を振った。
「今日は、女声でいい。そこは見えた」
異紀はすぐには返さない。
筆が浮く。それから、また紙へ戻る。
「……それで通す」
走り書きの角が、ひとつずつ行の内へ収まった。
異紀が筆を持ち替えた。指が一拍止まる。
理一郎は何も言わず、水差しを異紀の手の届くところへ寄せた。
異紀の目が、水差しへ一度流れる。
一行を書き切ってから、手を茶碗へ伸ばす。
水を飲む音は小さい。
戻した茶碗の底が机へ触れたとき、その音が妙にはっきりした。
***
三時に差し掛かる頃、異紀が筆を止めた。
「午前ぶんは、ここまでやね」
筆を置く音が、机の上で小さく収まる。
「……見せてくれ」
異紀が帳面を差し出す。
理一郎は受け取り、最後の行まで黙って目を走らせた。
弱めても、飾ってもいない。
条件は条件として残り、余分な生々しさは、墨の奥へ沈められている。
『女声成立』
その四文字の前後に、長保、返り、微動の筋が置かれている。
「……えい」
返された帳面を異紀は脇へ置く。
それから、机の上に残していた控えへ筆を戻す。
余白へ筆先が沈む。
墨は、一息ぶんで止まった。
その照りが消えきる前に印盒が開く。
朱肉へ印を当て、その脇へ静かに落とす。
理一郎はその手元を見ていた。
「……それは、要るのか」
異紀は紙から目を上げない。
「通しちょく」
小さな朱が、走り書きの控えを掛の紙へ留めていた。
異紀は帳面の頁をそろえ、細筆を拭う。
印盒、筆置き、控えの紙が、手早く机の端に収められていく。
「明日、またやね」
「ああ」
椅子が畳の上で短く鳴る。
まっすぐ戸口へ向かう背に、理一郎の視線が少し遅れて追いついた。
喉の奥まで上がった息が、声になる前に止まる。
言うべきことは、もう紙の上にあった。
異紀の机には、帳面と、朱の置かれた控えが残っている。
長保。返り。抑揚。
女声の立つところまでは見えた。
そこへ至るまでに何が集まり、声のあとに何が残るのか。
それはまだ、紙の外にある。