理玄異聞録 第1話「封じられた標本」|第1章 特例事象観記掛 ――出会い

木箱の向こうから、すぅと漏れた息が、ひとつだけ、形を帯びた。
――……ぃき。
理一郎の喉が、先に動いた。
「……シキ、か」
その瞬間、箱が、内側から押されたように、鳴った。
背後で、布の擦れる音がした。
「……ほんまは、呼ばれたんはわしやき」
理一郎は、思わず振り返った。
「今の『呼びかけ』、放っといたら、あとあとどこぞで尾を引く」
異紀はそう前置きしてから、ゆっくり息を吸った。
「応じたもんは、受けるか、退けるか。
 黙って目ぇそらすのが、いちばんたちが悪い」
理一郎は、掌の中の聴診器を見つめた。
「――開ける」

◇

 京洛博物館――本館。
 応接室は、無駄がないほど整っていた。
 磨かれた机。湯気が細くほどける茶。
 白い壁。沈黙の中で、時計の針が進む音だけが、部屋の角に薄く残っている。
 案内された椅子に腰を下ろす。背をほどかず、手は膝の上に置いたまま。
 江都で身についた癖が、まだ背骨のあたりに残っている。
 羽織の端が、膝の上でわずかに鳴った。

 向かいの席に、すでに一人、座っていた。

 男は動かず、待っている。
 背筋がまっすぐで、呼吸だけが、ほんのわずかに肩を上下させる。
 呼吸のたびに鎖骨のあたりの影が淡く動く。
 その一瞬だけ、均衡に生が混じる。

 髪が光を受けて、ほとんど音もなく揺れた。
 雨に濡れた薄茶――角度によって、金にも灰にも見える。
 皮膚は薄い。血の巡りが、まだ言葉になる前の熱として透けている。
 瞼が、重くも軽くもなく伏さっている。
 口元は結ばれているのに、どこかほどける余韻が残る。
 整った横顔のせいで、その淡さが余計に目についた。
 その色が、応接室の白さをやわらかく弾いていた。

 世間では、こうした均を「美」と呼ぶらしい。
 名を与えなければ崩れてしまうものを、人は言葉で縫いとめる。

 だが、それも――外から見える範囲に過ぎない。
 この下には、骨があり、肉があり、臓腑がある。
 見慣れたものと、構造は変わらない。

 理一郎は視線を外した。
 ……外しきれず、ほんの一拍だけ遅れた。
 目が勝手に――そこに留まっていた。
(……皮一枚、の話やろうに)
 喉の奥で、息が一つつかえた。

 理一郎は、淡々と名を置いた。
「……志岐 理一郎《しき りいちろう》。江都医理院より出向を命ぜられた」
 男が瞬きをひとつして、礼をする。角度が正確で、無駄がない。
「久遠 異紀《くおん いき》と申します。書記官として任を預かっております」
 声は柔らかく、余韻が残る。
 丁寧な言葉が、角を立てずにほどけていった。言い終えたあと、息の置き方が静かだった。

 短い間が落ちる。時計が、ひとつ鳴った。
 音だけで、部屋の空気が「式」に戻る。

 ほどなくして、職員が戻ってきた。手帳を確かめもせずに言う。
「お待たせいたしました。――それでは、分室へご案内申し上げます」

 二人は同時に立ち上がった。
 肩が並んだ瞬間、視線の高さがわずかにずれる。
 理一郎の羽織の背に、束ねた髪がひとすじ滑った。

◇

 廊下に出ると、応接室の整った匂いが背中へ離れていく。
 歩く音だけが、先に廊下を進んでいく。
 草履の裏が板をかすめるたび、空気が一枚ずつ替わっていった。

 館内を抜け、外気に触れる。
 敷地の奥にある別棟は、分館と呼ばれていた。
 十分ほど歩いたところで、職員が立ち止まり、鍵を回した。
 鉄が小さく冷えて鳴る。

 立札には控えめに、ただ一行。
 ――京洛博物館 異類資料研究分室。

 扉が開く。
 掃除の跡はある。けれど、整いきってはいない。

 通された部屋は、畳敷きだった。机は二つあるのに、位置が決まりきっていない。
 棚の札は途中で止まり、紙の匂いに古い木の湿り気が混じっている。
 「人が過ごせるように」はしてあるが、「使い込まれた形」にはなっていなかった。

 職員が実務の声で言った。
「こちらが分室でございます。以後のご報告は、こちらでおまとめください。必要な物品は、本館の会計を通して申請をお願いいたします。よろしゅうお願いいたします」
 説明は短い。丁寧だが、熱はない。
 一礼して去っていく背中も、同じ温度だった。

 扉が閉まった。
 音が止んだ瞬間、空気の輪郭が変わる。
 ここには、見せるための体裁がない。
 あるのは、仕事のための余白だけ。

 理一郎は、壁際に積まれた木箱へ目をやった。
 蓋の端に、薄い紙片が貼られている。番号。担当印。
 そして小さく、「観記掛」の文字。

 番号と印――その形式だけなら、大学の標本室で見慣れたはずのものだった。
 札の字だけが、その形式から少し外れている。
 ここでは同じ形が、別の意味を帯びる。

 ――研究の延長。
 そう言い聞かせるには、札の字が少しだけ硬い。

 理一郎は部屋をひと回り見て、低く息を吐いた。
 古い木が、その空気を吸い込んでいく。
「……まず、どこから手を付ける」
 声のあとに、短い間が残った。
 異紀は、すぐには動かない。
 棚、机、床の隅に寄せられた木箱。
 順に目をやってから、息を置く。
「……どこからでも。私は、先生に合わせます」
「――志岐でいい」

 理一郎は、そこで口を閉じた。
 異紀は頷き、窓の方へ目をやった。
「……それなら、志岐さん。窓、少し開けましょうか。空気が古い」
 理一郎は何も言わずに頷いた。
 その一つで、異紀はもう聞き返さなかった。
 異紀は窓際へ向かった。
 障子を半ばまで引くと、その奥に、細い桟で区切られた硝子窓が現れた。

 木枠に指をかける。
 固くなった溝が、きし、と鳴った。

 異紀は力を込めて、下の窓を押し上げた。
 硝子の下に細い隙間が開く。

 外の澄んだ空気が、部屋に一筋すべり込んできた。
 紙と古い木の湿り気に混じって、木の芽の匂いが入ってくる。
 部屋の奥に溜まっていたものが、ゆっくり形を失っていく。

 異紀は開けすぎないところで止めた。
 風は走らない。ただ、息はできる。
 障子の桟が、小さく鳴った。
 理一郎は部屋を見回した。
 机が二つ。どちらも畳の目に逆らって、落ち着きどころがない。
 理一郎は、片方の机の脚を、畳の目に沿わせた。ぎ、と小さく鳴る。
 その短い音が、まだ誰のものでもない部屋に、「持ち主」の印をつけた。

 異紀は棚の前に立ったまま、札の途切れた段を眺めている。
 目線だけが動き、息が一つ落ちた。
 その吐息が、紙と木の匂いにまぎれていく。

 理一郎は、もう一つの机を少し寄せた。
 向かい合うほどでもなく、離れすぎもしないところで止める。
 視線を上げれば届く。手を伸ばせば届かない。その加減を、指先で測る。

 異紀が、ようやく机に近づいた。
 木箱から探し出した紙の束を、自席となった机の上に置いて、端を揃えた。
 その指が、冷えの残る部屋の空気を撫でた。
 そして、手元に残ったもう一束を、理一郎の机へ置いた。
 境目を越えない置き方だった。
 紙の角が、机の木目に沿ってすっと止まる。

 異紀が筆を取る。墨の匂いが、かすかに立った。
 理一郎も同じように、手元に書き物を置いた。
 袖口を整え、指先の湿りを拭ってから。音を立てない置き方が、そこに残った。

 理一郎は木箱の札へ視線を投げる。
 番号。印。――「観記掛」。
 息を吐く。奥歯が一度だけ噛み合った。顎の筋が、ほんのわずかに張る。

 異紀の筆が、紙を走る。
 理一郎の指も、遅れて動く。
 墨のすれる音が、ふたつ分、重なった。

 理一郎は机の端に指を置いた。
 木の冷たさが、爪の際に触れた。

 ――江都医理院、辞令。
 肝心なところだけが、抜けていた。
 白い紙に、黒い字。
『文部省博物局京洛分局特例事象観記掛 異類資料研究分室へ出向を命ず』

 文言は整っていた。
 ただ、それ以上のことは、紙の外に置かれたままだった。
『詳細は現地で』
 役所らしい角のない字が添えられていた。
 角がないほど、逃げ道がない。
 そういう文言だけが、いつまでも頭の隅に残る。

 特例事象観記掛。
 博物局地方分局の中でも、表へ出ない小さな掛。
 「特例事象」――つまり、学会の分類にも、警吏の扱いにも、寺社の箱にも綺麗に収まらないもの。それを寄せて、数を付けて、記録する。
 特例とだけ書いて、何が特例なのかは、最後まで輪郭を与えない。
(――便利な言葉や)
 そういう「整理」のための掛だと、書類は言う。
 ただ、その整理の対象が――手に余る。

 怪異。
 説明の代わりを済ませてきた札。
 その札が付いた瞬間、測る手が鈍る。
 隔てられ、隠され、最後には「最初からそうだった」顔をする。

(……分からんまま、分かった顔をするな)
 理一郎は息を吐いた。
 胸の奥の重さは、それで消えるものではない。
 怪異という札が、理一郎の内側を硬くする。
 ――観記掛は、その札ごと回収する場所に見えた。

 視線を動かす。
 向かいの机で、異紀は筆を走らせていた。
 淡い墨の匂い。端を揃える指。
 姿勢が崩れない。音も立てない。
 久遠異紀。
 履歴は、もう読んだ。

 依代、触媒。
 理一郎の胸の奥で、古い単語が転がった。
 器、と言い換えれば早い。
 けれど器と言った瞬間、人が抜ける。制度の都合だけが残る。

 依代の勤めについては、言うまでもない。
 選ばれ、隔てられ、幼いころから暮らしの外へ置かれ、声を聴くもの。
 勤めを終えたあとも「終わり」にはならない。
 別の名札が貼られる。
 表向きは栄誉、裏では忌避――畏れと怖れ、そして、穢れの目。
 役目を終えた者は、自分から人目を避けて静かに暮らすようになる。
 支給は出る。暮らすだけなら困らない。そういう終い方が、多いと聞く。
(……そんなもんを、務め上げた人間やぞ)
 喉の奥で、その言葉を噛んだ。

 そして、現在は、「書記官」。
 自ら望んでの職と、記録にはある。
 ここでは、「書く」ことそのものが仕事の芯になる。
 書き写すことが、「災厄」とならないように。
 声を声のまま置かず、記録として安全な形に落とす。
 そう身につけた者だけが、筆を持つ。

 異紀の所作には、無駄がない。
 綺麗に見えるのは、飾りではない。
 崩さないための、技だ。

 ――それでも、視線が戻る。
 筆を持つ指先。
 息を整える肩の動き。

 理一郎は目を伏せた。
 視線を外すのに、一拍かかる。
(……神官あがりの相手なんぞ、やりきれん)
 内側で吐いて、飲み込む。
 それを、そのまま目の前の男へぶつけるのは――筋が通らない。

 異紀は、紙を一枚だけこちらへ滑らせた。
 触れない距離。けれど、届く距離。
「……志岐さん。受領の帳を、先に用意しておきます」
 声は淡く、落ち着いている。
 やるべきことを、やるだけの音。
 理一郎は頷いた。
 ひと呼吸ぶん遅れたのが自分でもわかった。
 指先が一度開き、机の端へ戻る。

 観記掛という仕組みが、まだ馴染まない。
 拭えないものが、胸の奥に沈んだまま残る。
 それでも。

(……測ればえい)
 ここへ来た以上、理一郎のやることは変わらない。
 呼び名が何であれ、持ち込まれたものは、まず「もの」として測る。
 その上で、紙の上に残る範囲だけを残す。
 ――それだけや。


この作品について

『理玄異聞録』は、怪異を祓わず、観測して記録する役所を舞台にした、一話完結の近代幻想連作です。

舞台は、啓治27年、京洛。
科学が言葉を持ち、
怪異がまだ“声”を残していた時代――。

標本医・志岐理一郎と、書記官・久遠異紀。
“理”が形を測り、“異”が声を写す。

第一話「封じられた標本」は、
封じられた標本の“声”を前に、
二人の記録が初めて重なり始める話です。

理は形を測る。
異は声を写す。
ここに、並び立ちて記す。


▼オープニングテーマ「如水」

▼エンディングテーマ「朧紋」