数日後。
店の前では、治助がすでに待っていた。
二人の姿を見ると、暖簾の脇から出て頭を下げる。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
店の間には、朝から人が出入りしていた。畳んだ反物を抱えた若い者が横を抜け、帳場では低く声が続いている。
治助の後をついて、店の脇から奥へ入った。通り庭は、家の奥まで細く延びていた。片側に部屋が続き、途中で光が落ちる。
理一郎は、その明るみに目を細めた。
庭があった。
家の南に開けた庭が、建物の間から見えている。植木の向こうに、白い蔵の壁がのぞいた。
理一郎は歩調を落としかけた。
隣を見ると、異紀も庭を見ていた。
一度だけ目が合う。
二人は黙って、治助の後を追った。
奥座敷には、女が一人、控えていた。
先日の話に出た女中頭だろう。年は五十を少し越えたほどに見える。髪も襟元もきちんと整っていたが、目の下には薄く影が残っている。膝の上に重ねた手にも、力が入っていた。
二人が入ると、女は畳に手をついた。
「このたびは、えらいご面倒をおかけいたしまして」
「お気になさらず」
理一郎が座ると、異紀もその隣へ膝を折った。
治助が女へ目を向ける。
「こちらが、先日お話ししました女中頭でございます」
女はもう一度頭を下げた。
「佐和と申します。どうぞ、よろしゅうお願いいたします」
伏せがちだった瞼が上がる。一度、理一郎へ戻った目が、再び異紀へ向いた。
異紀はいつもと変わらず、軽く頭を下げた。
佐和は背筋を伸ばし、膝の上で手を揃え直した。
「……失礼いたしました」
異紀は気に留めた様子もなく、帳面を開いた。矢立から筆を抜き、墨壺へ筆先を入れる。
理一郎は佐和を見た。口元には硬さが残っている。
「言いにくいこともあると思います。順は気にしなくて構いません。先日のことを、お話しいただけますか」
「はい」
佐和は膝へ目を落とした。
「何から申し上げたらよろしいのやら……」
異紀が口を開いた。
「お嬢さんは、お生まれになった頃からお世話しよったがですか」
佐和が顔を上げた。
「ええ。お生まれになった時から、ずっと」
佐和は、そこで息を継いだ。
「小さい頃から、よう見てまいりました。何を好かはるか、どんな時に機嫌よう笑わはるか。長うおそばにおりますと、そういうことは分かります」
佐和は一度、言葉を切った。
「せやから、気ぃついたんやと思います。あの方がお見えになると、お嬢さん、ほんま分かりやすうて」
先日の席で、佐和が口にしてしまった相手のことだろう。
異紀が声を落とした。
「えいお顔、しよったがですね」
佐和の口元が、そこで初めて緩んだ。
「ご本人は、隠してはるおつもりやったんでしょうけど。……うちへ長う出入りしてはる商いの家の次男さんで。お嬢さんとは、小さい頃から顔見知りです」
目が、座敷の向こうへ向いた。二人の方へ顔を戻す。
「何かあったいうわけやございません。わたしが口を挟むことやないとも思うてました」
笑みが引き、唇が結ばれた。
「あのお席でも、言うつもりはございませんでした。それが、口へ出てしもうて。自分でも、なんでこんなこと言うたんやろうて」
理一郎が訊いた。
「その時のことは、覚えておられますか」
「はい。お嬢さんがおられて、先様もおられて……。話していたことも、よう分かっておりました」
佐和は、かぶりを振った。
「ただ――。黙っとこう、いうところだけが……利かなんだような」
異紀の筆が紙を進んだ。
これまで取った結果と、食い違わない。
言葉になる、その手前が抜ける。
理一郎は口を開いた。
「今年、木鷽を出したのはどなたですか」
治助が佐和を見た。
佐和が理一郎へ向き直る。
「わたしでございます」
「以前にも、なさったことはありますか」
「いえ。木鷽をお出ししたのは、この七月が初めてでございます」
「それまでは?」
「前は、決まった者がしておりました。その者が暇を取りましてからは、決まった者を置かず、その都度、手の空いた者がしております」
異紀がそこまでを書き留める。
理一郎は話を移した。
「普段、木鷽を納めている場所も見せていただけますか」
「はい。もちろんでございます」
治助が立ち上がった。佐和もそれに続いた。
奥座敷の隣に、小さな部屋があった。
次の間というより、物を納めるための部屋に近い。壁際には箱が重ねられ、畳んだ座布団や、紙を掛けた調度が寄せてある。
造りそのものは奥座敷と続いているが、今は人を通すことも少ないらしい。
部屋の隅に地袋があった。小襖が二枚。
その上には、厚みのある一枚板が渡されている。
前縁は切り揃えず、木の形を残してあった。入口に近い側は手前へ張り出し、部屋の奥へ行くほど壁側へ引っ込んでいた。
「普段はこちらへ納めております」
佐和が地袋の前へ膝をついた。小襖を開ける。
中には、いくつか箱が収まっていた。
「出します時は、この上へ」
理一郎は天板を見た。
「先月は、どのように置かれましたか」
「ええ。たしか――」
佐和は地袋の中から、小ぶりの箱を一つ取り出した。
「これは違うものですけど、こんな具合に」
天板の中央へ置き、両手で位置を整える。
箱は、部屋に対して真っ直ぐ置かれている。
異紀が、箱と天板の端を見比べた。
「ああ、そう置くが」
佐和が顔を上げた。
理一郎も異紀を見る。
「わしやったら、こっちに沿わせるけど」
箱に手を添え、天板の端に沿うように向きを変えた。
「……なんでだ」
「なんで言われても。板がこうなっちゅうやん」
佐和が、首を少し傾けた。
「それやと、ちょっと曲がって見えますやろ」
「そう?」
佐和の目尻に、皺が寄った。
「床の間やあらしまへんけど、真っ直ぐ置かんと、なんや落ち着きまへん」
異紀は板を見たまま、
「わしには、こっちの方が収まりがえいけどねえ」
と言った。
理一郎の目が、天板の手前の縁で止まった。
箱が地袋へ収まると、佐和は一礼し、奥へ下がった。
一同も戸口へ向かう。
襖が引かれ、天板が向こうへ隠れた。
次の間を出て、座敷沿いの廊下へ戻った。
外から鳥の声がした。
異紀が顔を上げる。
来しなに覗いた時より、ここからの方が庭の奥まで見えた。
異紀は、しばらくそちらを見ていた。
理一郎も視線を追う。
「……何ぞ、ございますか」
治助が訊いた。
理一郎は答えかけ、口を閉じた。
まだ、何を見ているのか自分でも定まっていない。
その横で、異紀が言った。
「えい庭ですね」
「ありがとうございます。古い庭でして」
「よう行き届いちょりますね」
「庭師に、折々手を入れてもろうております」
異紀はまだ庭を見ていた。
治助が、異紀の向いている方へ顔を向けた。
「もしよろしければ、ご覧になりますか」
「入っても?」
「どうぞ。こちらから出られます」
治助の後について、庭へ出た。
飛び石が縁側から庭の中へ延びている。植木の向こうには、先ほど見えた蔵の壁があった。
治助がそちらを示す。
「こちらが、今使うております蔵です」
理一郎は頷いた。
蔵の白壁を目で追い、庭の奥へ視線を移す。一度通り過ぎたところへ、また戻った。
母屋側の草の間に、石がいくつか見えていた。石の間は、どれも二尺ほどだった。飛び石に見える。
だが、先へ行くほど土に沈み、草に縁を隠されている。
石の先へ顔を上げた。並びは、庭の奥へ向かっていた。
理一郎がそちらへ足を向けると、すぐ脇で、草を踏む音がした。異紀だった。
並んで、石を辿って庭の奥へ進む。
二つ。三つ。
近づくと、草の中にもまだ石が残っていた。その先で、並びは途切れている。
そこからは、植え込みと土があるだけだった。
理一郎は足を止めた。
植え込みの手前だけ、地面の具合が違う。土が固く締まり、草もまばらだった。その脇に、平らな石が一つ残っている。
しゃがんで、土の際を確かめる。
石は半ば埋まり、動かした形跡もない。飛び石とも違う。
「ここ、前に何かありましたか」
治助が足元を見た。
「離れがあったそうです。火事で焼けたと聞いております」
理一郎は、固く締まった地面へ目を戻した。
「いつ頃のことですか」
「それが、ずいぶん昔のことだそうでして。七十年ほど前と聞いております。わたしがこちらへ上がりました頃には、もうございませんでした」
治助は庭の奥へ顔を向けた。
「当時は、ご療養の方がお使いやったそうです。……火事の折に、その方も亡くなられたと」
風が植え込みを通り、草の先が揺れた。
理一郎は、離れの跡から石の並びを逆に辿った。
草に隠れながら、石は母屋の方まで戻っている。
奥座敷。その隣に、先ほどの次の間がある。
手前の端が斜めに走る一枚板。
佐和は、その上へ箱を置いた。
中央へ寄せ、両手で位置を整えた。
「――先ほどの部屋、もう一度見せてもらえますか」
治助が頷いた。
「はい」
理一郎は母屋へ歩き出した。
次の間へ戻ると、理一郎は真っ直ぐ地袋へ向かった。
天板の手前側は、部屋に対して斜めに走っている。
『わしやったら、こっちに沿わせるけど』
異紀が箱を動かした向きを思い返す。
理一郎は次の間を出て、廊下から庭の奥を確かめた。
振り返った壁の向こうには、地袋がある。あの天板に沿わせて置けば、箱の正面は離れ跡の方を向く。
次の間へ引き返し、地袋の前で、もう一度向きを取る。
庭で見た離れ跡の位置と、食い違わない。
「以前、木鷽を出していた方は、いつ頃までこちらにおられたんですか」
「五年ほど前までです」
「置く向きについて、何か決まりはありましたか」
治助が首を傾けた。
「いえ。そこまでは聞いておりません。箱から出して、こちらへ置く。それだけです」
以前は、決まった者が扱っていた。
ここ数年は、その時々で人が変わる。
「……今年より前にも、似たことがあったと言ってましたね」
治助が頷く。
「はい。もっとも、毎年というわけではございません」
離れ跡の固い土が頭に浮かんだ。
真っ直ぐ揃った部屋の中で、あの板の端だけが斜めに走っていた。