「俺は、おまえに忠義を立てた覚えはない」
本編とは完全に別軸の一篇です。
灯の下と、灯の届かない通りの話。
夜気は、厚いカーテンの隙間を抜け、応接室へ入り込んでいた。
天井のシャンデリアは灯を絞られ、卓とその周囲だけが明るい。
古い木壁には調度の影が重なり、部屋の奥はほとんど暗がりに沈んでいる。
異紀は卓の前に立っていた。
上等なスーツの肩に、金色の光がかかる。
卓上には数枚のカードが並び、そのうち一枚へ異紀が指を置いた。
灯の輪の外で、靴音がした。
理一郎が歩み出る。
黒いスーツの布目が光を返し、長い髪は低い位置で束ねられていた。
異紀が顔を上げる。
「……来ちょったか」
「指示を、確認しておきたい」
異紀は指の下の一枚を、卓の上で理一郎の方へ滑らせた。
「東の細い路地、乱れちゅう。昨日から、見慣れん包みが回り始めた」
理一郎の目がカードへ向く。
「出所は」
「まだ分からん。けんど、放っといたら広がるき」
理一郎はしばらくカードを見ていた。
「俺でいいのか」
「行ってくれたら助かるがよ」
「……片づけてくる」
理一郎は扉へ向かった。
取手へ手をかけたところで、足を止める。
「——ひとつだけ、言っておく」
異紀の指が浮いた。
「なんや?」
「俺は、おまえに忠義を立てた覚えはない」
その声音は固くない。
ただ、言っておくべきことを置いただけだった。
異紀は灯を頬に受けたまま、口端を上げる。
「知っちゅうよ。けんど——戻ってきてくれるやろ?」
理一郎は返事をしなかった。
扉が閉まる。
異紀は卓上のカードへ手を戻した。
◇
夜の通りは、街灯の届かない場所が多かった。
舗装石は昼の熱を失い、湿りを帯びた風が建物の間を抜けていく。
東へ折れ、さらに細い裏通りへ入る。
異紀の言っていたものは、すぐに見つかった。
軒下に男が二人いる。
片方が、手の中に隠れるほどの紙包みを渡したところだった。
受け取った男が上着の内へ入れようとする。
「それを置け」
二人が振り向いた。
包みを持った方が、一歩退く。
もう一人は理一郎を見たまま動かなかった。
「何だ、おまえ」
「ここでその品を回すな」
男の眉が上がる。
「誰の許しがいるって言うんだ」
「少なくとも、勝手にやっていい場所ではない」
男の口元から笑いが消えた。
上着の内側へ手が入る。
金属が街灯を拾った。
刃先がこちらを向くより早く、理一郎は間を詰めた。
男の手首を外へ流す。
肩が壁へ当たり、短刀が舗装石へ転がった。
男はなお身体を返そうとした。
理一郎は腕を離さず、その勢いを崩して膝をつかせる。
「離せ!」
肩が跳ねる。
理一郎は背へ回した腕をもう一段上げた。
男の声が途切れた。
ここから先は——
処理の領分だった。
起き上がろうとするたびに押し戻す。
二度目には手首の角度を変え、三度目には男の頬が石へついた。
それでも脚が動く。
理一郎は肩口へ膝を置いた。
「まだやるか」
返事はなかった。
男の呼吸が荒い。
理一郎は空いた腕も背へ回させ、その姿勢を崩さないまま襟元のネクタイを引き抜いた。
両手首をまとめて縛り、そこで初めて身体を起こす。
もう一人の男は、微動だにしていなかった。
顔色が変わっている。
理一郎が目を向けると、男は上着の内側へ差し入れていた手を止めた。
「出せ」
男は紙包みを路面へ置いた。
理一郎は短刀を靴先で遠ざけてから、包みを取り上げた。
薄い紙を二重に折り、口を黒い封蝋で留めてある。
封蝋の隅に、欠けた印が残っていた。
理一郎の指が止まる。
「……北河岸か」
地面に伏せた男の息が、一度詰まった。
理一郎はそちらを見る。
「今夜、どこまで回した」
答えはない。
理一郎は男のそばへ戻り、背で縛った両手首を取った。
数寸、持ち上げる。
男の顔が歪んだ。
「どこまで、と訊いている」
「……二ヶ所」
理一郎は手を緩める。
「場所は」
「西門の酒場と……南の倉庫」
「数は」
「五つ。向こうへ五つ回した」
「受け取る相手は」
「知らん。向こうから来る。俺は本当に知らん」
理一郎は手首を離した。
男の肩が舗装石へ落ちる。
その向こうで、もう一人が後ずさった。
靴底が石を擦る。
理一郎が顔を向けると、その足が止まった。
男の目が、地面の短刀へ向く。
次に、両手を縛られた仲間へ。
最後に理一郎を見る。
「——退け」
男は何も言わなかった。
一歩下がる。
もう一歩。
理一郎が追わないと分かると、踵を返した。
走り出した足音が、路地の角を曲がって消える。
理一郎は伏せた男へ視線を戻した。
「二度と戻ってくるな」
男が息を吐く。
「……何処のものだ」
理一郎は拾った紙包みを見た。
「なるほどな」
もう一つの包みも上着の内へ収めた。
何も知らされずに、ここへ寄越されたのだろう。
「知っていたらここで商いはしない」
ネクタイの結び目へ手を伸ばし、きつく締め直した。
「次は、加減はしない」
男は口を開かなかった。
理一郎は路地を出た。
背後から追ってくる足音はなかった。
◇
街灯が並ぶ通りを戻るうち、夜気の冷たさが身体へまとわりついた。
館の扉を押す。
暖かな灯りが迎えた。
異紀は椅子に腰掛け、カードを弄びながら視線だけ寄越す。
理一郎は卓の端へ、持ち帰った二つの包みを置いた。
「戻ったか」
「二つだけ止めた。あと五つ、出ている」
異紀の指がカードから離れた。
「封に北河岸の印があった」
「……ほうか」
異紀は手元の一枚を伏せた。
並んだ真鍮札から別の一枚を抜き、卓の中央へ置く。
「済んだ、とは言わん」
異紀は深く頷くでもなく、ただ、日常のひと呼吸のように言う。
「今夜はそれでえい」
それだけで、この場の空気は落ち着いた。
あの裏通りと、この灯りの差があまりに大きくて。
理一郎は一瞬、胸の奥で息を深くした。
それでも戻ってくる理由ははっきりしていた。
灯の下に、この気配がある。
ただ、それだけのこと。
制作環境:ChatGPT
校正協力:Claude