《灯の下》|夜館篇

「俺は、おまえに忠義を立てた覚えはない」

本編とは完全に別軸の一篇です。
灯の下と、灯の届かない通りの話。


夜気は、厚いカーテンの隙間を抜け、応接室へ入り込んでいた。
天井のシャンデリアは灯を絞られ、卓とその周囲だけが明るい。

古い木壁には調度の影が重なり、部屋の奥はほとんど暗がりに沈んでいる。
異紀は卓の前に立っていた。

上等なスーツの肩に、金色の光がかかる。
卓上には数枚のカードが並び、そのうち一枚へ異紀が指を置いた。

灯の輪の外で、靴音がした。
理一郎が歩み出る。

黒いスーツの布目が光を返し、長い髪は低い位置で束ねられていた。
異紀が顔を上げる。

「……来ちょったか」

「指示を、確認しておきたい」

異紀は指の下の一枚を、卓の上で理一郎の方へ滑らせた。

「東の細い路地、乱れちゅう。昨日から、見慣れん包みが回り始めた」

理一郎の目がカードへ向く。

「出所は」

「まだ分からん。けんど、放っといたら広がるき」

理一郎はしばらくカードを見ていた。

「俺でいいのか」

「行ってくれたら助かるがよ」

「……片づけてくる」

理一郎は扉へ向かった。
取手へ手をかけたところで、足を止める。

「——ひとつだけ、言っておく」

異紀の指が浮いた。

「なんや?」

「俺は、おまえに忠義を立てた覚えはない」

その声音は固くない。
ただ、言っておくべきことを置いただけだった。

異紀は灯を頬に受けたまま、口端を上げる。

「知っちゅうよ。けんど——戻ってきてくれるやろ?」

理一郎は返事をしなかった。
扉が閉まる。

異紀は卓上のカードへ手を戻した。

夜の通りは、街灯の届かない場所が多かった。
舗装石は昼の熱を失い、湿りを帯びた風が建物の間を抜けていく。

東へ折れ、さらに細い裏通りへ入る。
異紀の言っていたものは、すぐに見つかった。

軒下に男が二人いる。

片方が、手の中に隠れるほどの紙包みを渡したところだった。
受け取った男が上着の内へ入れようとする。

「それを置け」

二人が振り向いた。

包みを持った方が、一歩退く。
もう一人は理一郎を見たまま動かなかった。

「何だ、おまえ」

「ここでその品を回すな」

男の眉が上がる。

「誰の許しがいるって言うんだ」

「少なくとも、勝手にやっていい場所ではない」

男の口元から笑いが消えた。
上着の内側へ手が入る。

金属が街灯を拾った。
刃先がこちらを向くより早く、理一郎は間を詰めた。

男の手首を外へ流す。
肩が壁へ当たり、短刀が舗装石へ転がった。

男はなお身体を返そうとした。
理一郎は腕を離さず、その勢いを崩して膝をつかせる。

「離せ!」

肩が跳ねる。
理一郎は背へ回した腕をもう一段上げた。

男の声が途切れた。

ここから先は——
処理の領分だった。

起き上がろうとするたびに押し戻す。
二度目には手首の角度を変え、三度目には男の頬が石へついた。

それでも脚が動く。
理一郎は肩口へ膝を置いた。

「まだやるか」

返事はなかった。
男の呼吸が荒い。

理一郎は空いた腕も背へ回させ、その姿勢を崩さないまま襟元のネクタイを引き抜いた。
両手首をまとめて縛り、そこで初めて身体を起こす。

もう一人の男は、微動だにしていなかった。
顔色が変わっている。

理一郎が目を向けると、男は上着の内側へ差し入れていた手を止めた。

「出せ」

男は紙包みを路面へ置いた。

理一郎は短刀を靴先で遠ざけてから、包みを取り上げた。
薄い紙を二重に折り、口を黒い封蝋で留めてある。

封蝋の隅に、欠けた印が残っていた。
理一郎の指が止まる。

「……北河岸か」

地面に伏せた男の息が、一度詰まった。
理一郎はそちらを見る。

「今夜、どこまで回した」

答えはない。

理一郎は男のそばへ戻り、背で縛った両手首を取った。
数寸、持ち上げる。

男の顔が歪んだ。

「どこまで、と訊いている」

「……二ヶ所」

理一郎は手を緩める。

「場所は」

「西門の酒場と……南の倉庫」

「数は」

「五つ。向こうへ五つ回した」

「受け取る相手は」

「知らん。向こうから来る。俺は本当に知らん」

理一郎は手首を離した。
男の肩が舗装石へ落ちる。

その向こうで、もう一人が後ずさった。
靴底が石を擦る。

理一郎が顔を向けると、その足が止まった。

男の目が、地面の短刀へ向く。
次に、両手を縛られた仲間へ。

最後に理一郎を見る。

「——退け」

男は何も言わなかった。

一歩下がる。
もう一歩。

理一郎が追わないと分かると、踵を返した。
走り出した足音が、路地の角を曲がって消える。

理一郎は伏せた男へ視線を戻した。

「二度と戻ってくるな」

男が息を吐く。

「……何処のものだ」

理一郎は拾った紙包みを見た。

「なるほどな」

もう一つの包みも上着の内へ収めた。
何も知らされずに、ここへ寄越されたのだろう。

「知っていたらここで商いはしない」

ネクタイの結び目へ手を伸ばし、きつく締め直した。

「次は、加減はしない」

男は口を開かなかった。

理一郎は路地を出た。
背後から追ってくる足音はなかった。

街灯が並ぶ通りを戻るうち、夜気の冷たさが身体へまとわりついた。

館の扉を押す。
暖かな灯りが迎えた。

異紀は椅子に腰掛け、カードを弄びながら視線だけ寄越す。
理一郎は卓の端へ、持ち帰った二つの包みを置いた。

「戻ったか」

「二つだけ止めた。あと五つ、出ている」

異紀の指がカードから離れた。

「封に北河岸の印があった」

「……ほうか」

異紀は手元の一枚を伏せた。
並んだ真鍮札から別の一枚を抜き、卓の中央へ置く。

「済んだ、とは言わん」

異紀は深く頷くでもなく、ただ、日常のひと呼吸のように言う。

「今夜はそれでえい」

それだけで、この場の空気は落ち着いた。

あの裏通りと、この灯りの差があまりに大きくて。
理一郎は一瞬、胸の奥で息を深くした。

それでも戻ってくる理由ははっきりしていた。

灯の下に、この気配がある。
ただ、それだけのこと。


制作環境:ChatGPT
校正協力:Claude