報告書には書けない

本編を真面目に積んでいる横で、作者が自由に遊んだ結果です。


観測室の机に、薄い包みが置かれていた。
紐はすでにほどかれている。
中から現れたのは、掌に収まるほどの小さな硝子片だった。
角度を変えると、光の奥で桃色にも灰にも見える。

理一郎は硬筆を持ったまま、硝子片の縁を見ていた。
「触れた者に、一定の接触衝動が出る、と」

机の上には、調査課から回ってきた書付が伏せてある。
字は荒い。急いで書いた跡があった。
異紀は窓際の席で、その控えを取っていた。
筆先が紙を擦る音が、しばらく続く。

「接触いうても、幅があるねぇ」

理一郎は硝子片から目を離さなかった。
「肩を叩くのは接触やろ」
「分類上は」
「手を握るのも」
「……そうやな」
「口づけも」

理一郎の筆先が止まった。
異紀は顔を上げない。
ただ、筆の先で紙の端を整えた。

「……そこまで書付にはない」
「ほいたら、まだ分からんね」

理一郎は答えず、硝子片へ視線を戻した。
その一拍のあいだに、異紀の指が、包みの端へ触れた。

「異紀」

呼ぶより先に、異紀が立っていた。
机を回り込む足取りに乱れはない。
ただ、一歩の間隔が詰まっていた。

理一郎が顔を上げる。
袖を引かれた。
次の息で、口づけられた。

紙の匂いと、墨の冷えた匂い。
その間に、異紀の近さだけが、あまりにも自然に差し込まれた。

理一郎の手が一拍遅れて動く。
異紀の肩を押さえ、引き離す。
強くはない。けれど、逃がさない力だった。

「待て。場所をわきまえろ」

声は低い。

異紀は瞬きをひとつした。
瞳が、きらめいている。
曇りがない。
悪戯の気配もない。
ただ、まっすぐ理一郎を見ている。

「好き合うちゅう者同士が口づけして、何が悪いが?」

理一郎が止まった。

勤務中。
分館。
戸が閉まっていない。
怪異の影響下。
観測中。

どれも正しい。
けれど、口は動かなかった。

その隙に、異紀がまた近づいた。

「異紀、」

短く呼ぶより先に、唇が触れた。
今度はほんの一瞬だった。
それで、足りた。

理一郎の指が、異紀の肩に残ったまま固まる。

「……おまえ」
「ん?」
「今の問いに、俺が答える前に来るな」

異紀は少し考える顔をした。
「答え、要る?」

理一郎の指が、布越しに少し沈んだ。
「悪うないろ」
「そういう話ではない」
「ほいたら、どういう話?」

理一郎は黙った。
異紀の肩を押さえた手に、まだ力が残っている。
離せばまた来る。
そう分かっていて、離せない。
異紀が、その手元を見た。

「止めたいが?」

理一郎は、答える代わりに指の力を少し緩めた。
「ほんまに?」

理一郎は、ほんの少し目を伏せた。
「……場所を変えろ」

異紀の目が、すっと細くなる。
「それ、許可やね」
「そう取るな」

異紀は聞こえてない顔をした。

「久遠」
「はいはい。場所をわきまえる」

異紀は半歩下がった。
けれど、その顔には少しも反省がない。
理一郎は額に手を当てる。

「これは、怪異の影響や」
「そうやね」
「おまえの通常判断ではない」
「そうかもしれんね」
「なら、」
「でも好きながは、怪異の前からやろ」

また止まる。
理一郎の口が、薄く開いて、閉じた。
窓の外で足音が遠ざかる。
異紀はにこりともせず、ただ少しだけ首を傾げる。

「そこは、観測せんでも分かるろ」

理一郎はしばらく黙っていた。
それから、帳面を閉じた。
ぱたん、と乾いた音がした。

「……観測を中断する」
「うん」
「条件を変えるだけや」
「うん」
「調子に乗るな」

異紀は理一郎の袖を軽くつまんだ。
「今は怪異が先に行きゆうき」
「都合よく使うな」

理一郎はそう言った。
言ったが、立った。

観測室の空気が、少しだけ揺れた。
机の上には、書付と、閉じられた帳面が残された。

廊下へ出る前に、異紀がふと足を止める。
「そういえば」
「なんだ」
「玄関、閉めちゅう」

理一郎の足が止まった。
「……いつ」
「さっき」
「なぜ」
「来られたら困るろ」

理一郎は、しばらく何も言わなかった。
廊下の向こうで、火鉢の灰が小さく沈む音がした。

「……手際が良すぎる」
「気が利くろ?」
「そこを誇るな」
「惜しいねぇ」

言葉とは裏腹に、異紀は楽し気な顔をしている。

別室には、猫脚のソファが置かれている。
足の曲線が妙に優雅だった。
理一郎は以前から、あれは執務室に置くには落ち着かない、と言っていた。
ただ、その横を通るたびに、少しだけ目で追っていた。

今、その猫脚ソファの前で、理一郎は完全に足を止めた。

「これはまずい」
「何が?」
「ここは職場や」
「場所はわきまえちゅう」
「人が来たらどうする」
「玄関、閉めちゅう」
「それは先ほど聞いた」
「ほいたら大丈夫やね」

異紀は首を傾げた。
その目はまだ澄んでいる。
怪異の熱が奥にあるのに、まっすぐな分、いつもよりもずっと逃げ場をなくしていた。

「理一郎」
「……なんだ」
「愛しちゅう?」

理一郎の息が止まった。

異紀は待っている。
からかっていない。
試してもいない。
ただ、知りたい顔をしている。

「……今、それを聞くな」
「今聞きたい」
「異紀」
「愛しちゅう?」

二度目。

理一郎は視線を外した。
逃げ場を探すように、窓の格子へ、ソファの背へ、扉の金具へと目をやる。
どこにもなかった。
異紀は待っている。

理一郎は、息を吐いた。
「……愛しちゅう」

低く、短く。

その瞬間、異紀の目の奥から、ふっと熱が引いた。
押し出すような衝動が抜ける。
肩の力がわずかに落ちる。
いつもの異紀が、そこへ戻ってくる。
その目が、今の距離と、今の言葉を一度に見た。

沈黙。
理一郎も分かる。
解除された。
ふたりして黙った。

異紀が、かすれた声で言う。
「……今ので?」

理一郎は目を閉じた。
「……おそらく」
「解除?」

理一郎は返事の代わりに、短く息を吐いた。
「報告書、どうするが」
「書けるか」

また、沈黙が落ちた。
火鉢の灰が、別室の隅で細く鳴った。

異紀はしばらく俯いていた。
それから、ゆっくり顔を上げる。
もう目は戻っている。
にもかかわらず、何かを思いついた顔をしていた。
理一郎は嫌な予感を覚えた。

「……異紀」
「今の、言葉が鍵やったがか、感情が鍵やったがか、切り分けんといかんね」
「必要ない」
「あるろう」
「ない」
「愛しちゅう、やないといかんかったのか、同じ意味ならえいのか」
「必要ないと言っている」

異紀の視線が、卓の端へ滑った。
布に包まれた硝子片が、そこにある。
理一郎が気づいたときには、もう遅かった。

異紀の指先が、布の端を押していた。
瞳の奥に、またあの曇りのない光が戻る。

「好き、では?」

理一郎の手が止まる。
異紀は一歩近づいた。
「好き?」
「……異紀」
「これは検証やき」
「違う」
「好き?」

理一郎はしばらく黙った。
言えば、また同じところへ戻る気がした。
言わなければ、異紀はたぶん次を探す。
その沈黙を、異紀は見逃さない。

「ほいたら、違う言い方でえいよ」
「何を言っている」
「同じ意味なら、語が違うてもえいがやろ」

理一郎は目を細めた。
「それ以上、検証の範囲を広げるな」
「わしは?」
「……何が」
「理一郎にとって、わしは何?」

恋人。
相棒。
書記官。
大事な相手。

どれも間違いではない。
けれど、異紀の目は、それでは通さない。

異紀が、もう半歩だけ近づく。
「ねえ」
「異紀」
「わしは、誰なが?」

理一郎の指が、異紀の肩を押さえる。
止めるための手だった。
けれど、力は抜けきらなかった。

「……お前だけや」

落ちた。
低い声で、短く。

「……俺が、記録にも理屈にも逃げられんのは」

異紀の目の奥から、もう一度、ふっと光がほどける。
理一郎は目を閉じた。
異紀は袖をつまんだまま固まる。

「……今ので?」
「おそらく」
「好き、やないのに?」
「……おそらく」
「お前だけや、で?」
「復唱するな」

異紀はそこで、顔を伏せた。
言わせたのは自分だ。
検証すると言ったのも自分だ。
それでも、実際に言われると、効くものは効いた。

少しのあいだ、二人とも黙っていた。
その静けさの中で、異紀がまた顔を上げる。

「……まだあるのか」
「違う語でもえいなら」
「もういい」
「言葉やなくても、えいがやない?」

異紀の指がまた動いた。
理一郎は、手を伸ばした。
けれど、袖が触れるより先に、異紀の爪先が布を引いた。

かすかな硝子の音。
異紀の目が、すうっと澄む。
理一郎は沈黙した。
異紀の手が、理一郎の袖を引く。

「伝わればえいがやろ」
「異紀」
「ほいたら、確かめんと」
「だめだ」
「なんで」
「今のおまえの判断は信用できん」

ここだけは、理一郎の声がまっすぐだった。

異紀は瞬きをした。
怪異の名残がある。
けれど、その奥に、いつもの異紀がいる。

「怪異がなくても、わしはおまんに触れたいで」

理一郎が黙る。
「それも信用できん?」

別室の灯が、ほんの少し揺れた。

理一郎は答えなかった。
机に置かれていた帳面を伏せた。
硬筆をその上に置く。
書けるものと、書けないものを分けるような手つきだった。

その先のことを、報告書に残せる者はいなかった。

ただ、猫脚ソファの足が、床に短く鳴った。
火鉢の朱が、灰の奥で細く残った。
閉められた玄関の向こうで、夜の空気が静かに冷えていった。

***

翌朝。

異紀は、非常にすっきりした顔をしていた。
肌の色つやまで違うように見える。
髪は少し乱れているが、本人はまったく気にしていない。
むしろ、いつもより機嫌がよかった。

理一郎は、執務室の机に座っていた。
髪は結い直してある。
羽織も整っている。
けれど、机に向かう背が、どこか沈んでいた。

白い紙が一枚、前に置かれている。

異紀が茶を持って近づき、横から覗いた。
「……非言語的接触」

理一郎の筆が止まった。
「読むな」
「便利な言葉やねぇ」
「読むなと言っている」

紙には、こう書かれていた。

『対象者間における既存感情の明示により、接触衝動の急速な沈静を確認。
また、非言語的接触においても同様の沈静傾向が見られた。
詳細な発話内容および私的接触過程については、私的領域に属するため記載を控える。』

異紀はしばらく読んでいた。
それから、にこにこと言った。
「言葉でなくてもよかったねぇ」

理一郎は筆を置いた。
「その話は終わりだ」
「解除したろ」
「蒸し返すな」
「すっきりした」
「異紀」
「理一郎も?」
「黙れ」

異紀は笑った。
声はほとんど出ない。
ただ肩が、少しだけ揺れる。

理一郎は額に手を当てた。
「この報告書をどう出す」
「載せられるところまでにしたらえい」
「肝心な部分が抜ける」
「観記掛やのに?」
「だから困っている」

異紀は茶碗を机の端に置いた。
湯気が細く立つ。

「ほいたら、題は?」
「題?」
「『別室観測記』」
「却下」
「『場所をわきまえた記録』」
「却下」
「『既存感情の明示』」

理一郎は、ゆっくり異紀を見た。
異紀は涼しい顔をしている。

「……それが一番悪い」
「それらしい題やろ」
「そこが悪い」
「ほいたら、『報告書には書けない』」

理一郎は黙った。
異紀も黙る。
紙の上で、墨がゆっくり乾いていく。

しばらくして、理一郎はその題を書かなかった。
代わりに、紙の上段へ、ごく事務的な文字で記した。

『接触衝動を伴う言動変容事象について』

異紀が覗き込む。
「硬いねぇ」
「これ以上崩せん」
「別題、書いちょく?」
「筆を持つな」
「控えに」
「残すな」

異紀は返事をしなかった。
理一郎は嫌な予感がして、異紀の手元を見る。
すでに控えの端に、小さく書かれている。

『別題、報告書には書けない。』

理一郎は無言で墨を取った。
異紀がその手を押さえる。

「大事な結果やろ」
「その紙には置けん」
「後世のために」
「記録の棚に上げるな」
「ほいたら、わしらのために」

理一郎は動きを止めた。

異紀は笑っていない。
ただ、机の端に置かれた茶碗の湯気を見ている。
朝の光が、執務室の白い壁に落ちていた。
紙と墨の匂いが、いつも通り冷えている。

理一郎は、しばらく黙っていた。
それから、墨を置いた。

「……控えから外へ出すな」
「うん」
「他人に見せるな」
「うん」
「題として採用するな」
「それは考えちょく」
「久遠」

異紀は茶をすすった。
「冗談やき」

理一郎は疑わし気に目を細めた。
けれど、墨を持った手は、動かなかった。

報告書の本紙には、硬い題。
控えの端には、別題が残った。

報告書には書けない。
けれど、二人の間には、確かに残った。

観記室の机の上で、湯気が細くほどけていく。
異紀はにこにことしている。
理一郎は沈んでいる。

今日も、観記掛は平常通りである。
少なくとも、報告書の上では。