「吸血鬼って、知っちゅう?」
夏の夕方、執務室。
書記官が妙な話を始めた。
単発で読めます。
◇
夕方になっても、暑さは引かなかった。
開けた窓から入る風は弱く、机の上に重ねた紙の角が、ときおり持ち上がる程度だった。
庭の木では、鳴き疲れた蝉がまだ一匹残っている。
理一郎は返却分の記録を紐で括った。
結び目を二度確かめ、棚の端へ置く。
向かいでは、異紀が本を読んでいた。
朝から同じ冊子だった。
頁の進みは遅い。
それ自体は珍しくない。異紀は一行に時間をかけることがあるし、途中で別の本へ移ることもある。
理一郎が次の紙へ手を伸ばしたところで、異紀が言った。
「吸血鬼って、知っちゅう?」
筆が止まった。
「……何や、急に」
異紀は本から顔を上げない。
「知っちゅうか訊いたがよ」
「名前くらいは」
西洋の怪談だったはずだ。
死者が夜ごと墓から出て、生きた人間の血を啜る。そうした話を、翻訳物の端で読んだ記憶がある。
理一郎は筆先を硯へ戻した。
「死人が蘇るとか、夜しか動けんとか。人の生き血を飲む化け物やろ」
「ほう」
異紀が頁を一枚繰った。
「日の光に当たると焼ける、とも言うねえ。鏡に映らん。十字架を嫌う。心臓へ杭を打たれると死ぬ」
「詳しいな」
「ほかにもあるで。招かれんと家へ入れんとか、流れる水を渡れんとか。大蒜が嫌いやとか」
「最後のはずいぶん生活臭があるな」
異紀の口元が動いた。
外で蝉が途切れた。
代わりに、どこかの家から桶を置く音がした。
理一郎は紐の余りを切り、鋏を机へ戻した。
「それがどうした」
「いや」
異紀は本を閉じた。
薄い冊子だった。表紙には何も書かれていない。
「こんなん、全部作り話や」
「そらそうやろ」
理一郎は硯の蓋へ手を伸ばした。
死人が墓から起き、人の血を啜る。
そういう怪談なのだと思って聞いていた。
「ほんまなんはね、長う生きること」
蓋を持った手が浮いたままになった。
「……何が」
「吸血鬼」
異紀は冊子を机へ置いた。
「人より、ずっと」
理一郎は硯へ蓋を落とした。
「歳も取りにくい。あるところまで育ったら、その先はゆっくりになる」
「……なんでそんなに言い切れる」
「そういうもんやき」
「そういうもん、て」
異紀は気にした様子もなく続けた。
「日の光でも焼けん。鏡にも映る。十字架も関係ない。川も渡れるし、大蒜も食える」
「ずいぶん便利になったな」
「元からや」
異紀が答えた。
理一郎は次の帳面を開いた。
「血も飲む」
理一郎の目が、紙から異紀の顔へ戻った。
「そこは残るのか」
「飲める、が近いねえ。なくても生きられる」
「……は?」
「普通に飯食うて暮らせるで。魚も肉も米も食う」
異紀は卓上の冊子を押した。
「人の血ぃは、別に要らん」
「なら、なぜ飲む」
「うまいき」
あまりにも平らに言われ、理一郎は黙った。
異紀は続けた。
「酒みたいなもんやね。飲まんでも死なん。けんど、好きなやつは好きや」
「酒と違って、飲まれる方は血を失うだろ」
「せやき、加減のできん悪食者がやるがよ」
窓の外で、葉が一度鳴った。
「うまいから、もう一口。まだいけるから、もう一口。そうやって飲みすぎる。相手が人なら、そら死ぬこともある」
異紀はそこで湯呑みを持ち上げた。
空なのを忘れていたのか、口元まで運び、また戻す。
陶器の底が机へ当たった。
「それで、人は吸血鬼に襲われたと言う」
理一郎はしばらく異紀を見た。
話しぶりに迷いがない。
初めは、どこかで読んだ異国の怪談を披露しているものと思っていた。
そのくせ、細部だけ妙に暮らしへ近い。
「……まるで見てきたように言うな」
「そらねえ」
異紀がこちらを向いた。
西日はもう窓枠の下まで落ちていた。
白い額から頬へ影が入り、瞳の色がいつもより暗く見える。
「わしがそうやもん」
理一郎の手が、硯の縁へ触れたまま留まった。
異紀は笑わない。
冗談を言った者の顔でもなかった。
だからといって、本気だと示すものもない。
牙が見えるわけでもない。
皮膚が透けるでもない。
影は畳へ普通に落ちている。
理一郎は異紀の顔を見た。
初めて会ったときにも、長く見た。
整いすぎている、と思ったことを覚えている。
骨の配置を追って、皮膚の下へ意識を逃がした。
今も形は変わらない。
細い鼻梁。薄い瞼。光を受けても色の深い瞳。
口元には、普段と同じ線がある。
ただ、いつからこの顔なのかと考えたところで、理一郎が知っているのは数年にも満たない。
判断する材料にはならなかった。
「……おまえな」
異紀は肩を揺らした。
「信じる?」
「証拠を出せ」
「嫌や」
「なぜ」
「面倒やき」
理一郎は息を吐いた。
そこだけは、ひどく異紀らしい。
机へ向き直ろうとした。
「でも」
異紀の声が続いた。
理一郎の手が紙の上へ落ちる。
「理一郎の血ぃは、うまそうやねえ」
今度は、すぐに顔を上げた。
異紀は座ったままこちらを見ていた。
目が合う。
冗談なら、ここで笑うだろうと思った。
異紀の口元は動かない。
理一郎は自分の襟へ手をやった。
夏のあいだは低く結っている髪を、肩の後ろからひとまとめに掴む。
黒い束を右へ払った。
襟元へ指を入れる。
布を下げると、首筋へ夕方の空気が触れた。
異紀の眉が動いた。
「……何しゆう」
理一郎は自分の首へ指を当てた。
「飲むなら、ここにしろ」
異紀が口を閉じた。
今度は向こうの返事が遅れた。
「おまえ」
「この下に総頸動脈がある。外側には内頸静脈。深く傷つけたら洒落にならん」
指をずらす。
「噛むなら、ここを外せ。浅くやれ」
「……おまん、わしが吸血鬼やて信じちゅうが?」
「知らん」
「知らんのに首出す?」
「おまえが俺の血をうまそうだと言っただろ」
異紀は何も言わなかった。
理一郎は髪を押さえたまま異紀を見る。
「飲まないなら戻すぞ」
椅子が床を擦った。
異紀が立ち上がる。
机を回ってくる足音は、いつもと変わらない。
理一郎の前で止まった。
近くで見る顔にも、変わったところはなかった。
異紀の手が黒髪の端へ伸びる。
理一郎が押さえていた束を受け取り、肩の向こうへ避けた。
「……ほんまに?」
「何を今さら訊く」
「後悔するかもしれんで」
「おまえが吸血鬼ならな」
異紀の目が細くなる。
「まだ信じてないが?」
「証拠がない」
「ほいたら、確かめる?」
返事をする前に、異紀が身を屈めた。
首元へ息が当たる。
理一郎は動かなかった。
牙が来るなら、どこへ入る。
そんなことを考えた。
頸動脈はもっと内側だ。ここなら深くさえ傷つけなければ――
唇だった。
温かい。
一度触れ、そのまま離れない。
ちり、とした痛みが走った。
異紀が身を起こす。
理一郎は首筋へ手をやった。
爪の先で確かめる。
血はつかなかった。
もう一度、異紀を見る。
何をした。
口に出す前に、異紀が言った。
「うまそうやき、今はやめちょく」
そのまま、言葉を継ぐ。
「しかるべき時に、改めていただく」
理一郎の眉が寄る。
異紀は笑った。
目が、さっきの場所へ落ちる。
「忘れんように。目印」
理一郎は首を押さえたまま、異紀を見た。
「……勝手に保存食にするな」
異紀は答えなかった。
理一郎の髪を避けていた手が下りる。
黒い束が肩を滑り、まだ首筋にある腕へ落ちた。
窓の外で、暮れ六つの鐘が鳴り始めた。