鼓動

閉庁の鐘は、もう遠かった。
観記室の障子は半分だけ閉まっている。
廊下には足音もない。机の上には、閉じた帳面と、乾きかけた墨の匂いが残っていた。
異紀は最後の紙束を棚へ戻そうとして、立ち上がった。
背後で衣擦れが寄る。
振り向く前に、腕が回った。
理一郎の手が腹の前で組まれ、異紀の身体を後ろから抱き込む。
「……なんなが」
声は出た。
押し返す手は、動かなかった。
理一郎は答えない。
額を、異紀の肩口へ預けてくる。
高く結んでいたはずの黒髪が少しほどけ、異紀の頬に触れた。
灯を吸った毛先が、布の上に沈む。
「理一郎」
名前を落とすと、腹の前の腕が締まった。
強くはない。逃げようと思えば抜けられる。
異紀は棚へ向けていた手を下ろした。
理一郎の息が、首の後ろをかすめる。
「……行かんでくれ」
紙束の端が、異紀の指から少し浮いた。
「棚へ戻すだけや」
返事の代わりに、理一郎は異紀を抱き直した。
袖越しに、肋のあたりへ手が重なる。
「あとでえい」
その声は、仕事のものではなかった。
喉の奥が、低く緩んでいた。
異紀は笑おうとした。
口元が遅れた。
「……ずいぶん、甘えたになっちゅう」
布越しに、唇が肩先を辿った。
異紀の指が棚板を掴む。
紙束の角が、木に当たって小さく鳴った。
「……肩まで来るがやね」
理一郎は動かない。
ただ頬を寄せ、異紀の髪の近くで息を吐く。
「ここに、おった」
異紀は口をつぐんだ。
腕がゆるみ、身体が横へ回される。
異紀が机の方へ一歩退くより早く、理一郎の指が顎にかかった。
少し上を向かされる。
いつもの理一郎なら、そこで止まる。
目を見る。
許しを確かめる。
触れる前に、自分の手の位置を一度測る。
今夜は、その手順が抜けていた。
唇が重なった。
浅い。
一度では、終わらなかった。
離れたところへ、すぐにまた降りてくる。
口の端。頬。目尻のそば。
異紀は片手で理一郎の胸を押さえた。
「……多い」
理一郎のまつげが伏せる。
止まるかと思った。
止まらなかった。
異紀の手を取り、自分の胸へ当てさせる。
布の下で、鼓動が静かに打っていた。
「ここが、先ほどから落ち着かん」
「医者なら自分で診い」
理一郎は異紀の手を離さない。
掌の上から、さらに自分の指を重ねた。
「お前が近い方が、ましになる」
異紀は息を吐いた。
顔が、近すぎた。
指の下で、理一郎の胸がひとつ打つ。
規則正しいはずの拍が、指の腹へ直接届いてくる。
次のひとつだけ、わずかに遅れた。
「……それは、反則やろ」
理一郎は応じない。
ただ、異紀の手を胸に置いたまま、顔を近づけた。
額が触れる。呼吸が混じる。
机の上で帳面がかすかに軋んだ。
「執務室やで」
理一郎はその言葉へ乗らなかった。
「ここにおれ」
「机に置物みたいにする気か」
理一郎の目は、ただ、異紀に向いている。
目の奥が、灯に濡れていた。
「……おまん、そんな顔もするがやね」
理一郎の指が、異紀の頬を撫でた。
確かめる手ではない。
知っているものへ、もう一度触れにいく手だった。
「お前の前やき」
異紀の喉が、小さく鳴る。
理一郎はそれを聞いた。
唇を傾けた。
「さっきの声、好きや」
「……言わんでえいことまで出ちゅう」
「しまい方が分からん」
異紀の視線が、理一郎の肩越しに落ちた。
火鉢の炭が、灰の底で赤く残っている。
「いつもは、どこへ置いちゅうが」
理一郎はすぐには動かなかった。
それから、異紀の首筋に顔を埋めた。
「……もう、入らん」
異紀の指が、机の縁を掴んだ。
異紀は理一郎の肩へ手を回した。
撫でるつもりだった指が、乱れた髪の根元に触れた。
理一郎の息が止まった。
異紀は、その反応だけを拾った。
からかいは出てこない。
髪。
理一郎が、いつも低く結び、手入れし、誰にも不用意に触らせない場所。
異紀の指が、髪から離れかけた。
理一郎の手が、追ってきた。
離れる指を、強くはない力で捕まえる。
そのまま、自分の髪の奥へ戻させた。
黒い束の根元に、異紀の指が沈む。
「……そこは」
異紀の声が、少し低くなった。
理一郎が口を開くまでに、間があった。
喉が一度だけ動く。
「……お前なら、えい」
異紀の指が止まった。
指先が、髪の中でゆっくり開く。
梳くのではない。整えるのでもない。ただ、そこに触れている。
理一郎の肩から、力が抜けた。
異紀は、その重みを受け取った。
「……ほいたら、ここはわしが預かる」
理一郎の目が、わずかに動いた。
「……離すな」
「このままにしちょく」
異紀の指が、髪の奥でそのまま留まった。
「ほどけんようにしちょくだけや」
理一郎は黙った。
それから、再び額を異紀の肩へ預ける。
胸に置かれていた異紀の手は、まだ理一郎の鼓動を拾っている。
もう片方の手は、黒髪の奥にあった。
異紀は、どちらも離さなかった。
火鉢の炭が、ぱちりと爆ぜる。
机の上の紙が、一枚、端を反らせた。
「……もう記録できん」
理一郎の手が、異紀の背をゆっくり撫でた。
「するな」
「観記掛やぞ」
返事までに、短い間があった。
理一郎は額を預けたまま、低く落とす。
「今夜は、閉めた」
異紀は返さなかった。
ただ、胸に置いた手に、少し力を込めた。
その下で、理一郎の鼓動がまたひとつ打つ。
黒髪の根に置いた指は、ほどけないように、そこを押さえていた。
紙の端が、机の上で静かに浮いていた。