形式、一式。

名のつかないものを観て、記録に残す。
観記掛は、そういう分室だった。

その秋、書記官に縁談が来た。形式上の話だという。
書記官は形式を完璧に務め、観測官はその横で一日焼かれた。

朝、執務室の戸を開けたところで、理一郎は足を止めた。

窓際の机に異紀がいる。
いるにはいる。
ただし、普段の久遠異紀ではなかった。

淡い鼠がかった紺の羽織に、細かな地紋の入った着物。袴の折り目までまっすぐに通っている。耳から首筋へ落ちる淡茶の髪も、今日は一筋の乱れもなく整えられていた。

顔立ちそのものはいつもと同じはずなのに、襟を正し、背を伸ばして座っているだけで、ずいぶん違って見える。

理一郎は戸を閉めた。

「……何や、その格好」

異紀が顔を上げる。

「見合いやき」

「それは知っている」

「ほいたら何なが」

理一郎は答えず、自分の机へ向かった。

異紀は手元の紙包みを開く。中から小さな櫛を出し、耳の横を一度だけ整えた。

「形式いうからには、先方がおることやしねえ。失礼のないようにはせんと」

理一郎の手が椅子の背で止まる。

「……誰が、形式だと言った」

「本館の人。『ほんの形式ですから、一度お顔を合わせていただくだけで』って」

「…………」

「何」

「いや」

理一郎は座った。
嫌な予感がした。

依代として、こういう席は何年も務めてきた男だ。衣も、所作も、半端にはしない。
だから厄介なのだ。

「異紀」

「ん?」

「今日、余計なことは言うなよ」

「なんで」

「……いや。もうえい」

廊下を急ぐ足音がした。
間もなく戸が叩かれ、本館の若い吏員が顔を出した。

「志岐殿、久遠殿。朝から申し訳ございません」

理一郎が立つ。
吏員は額の汗を拭った。

「本日、久遠殿にご同席する予定でありました野々村主事ですが、本館で急な来客がございまして、どうしても席を外せぬことになりまして」

理一郎の眉が寄った。

「それで?」

「その……代わりに、志岐殿にお願いできないかと」

「私が?」

「久遠殿はご親族が遠方ですし、今回は本館からお話をお繋ぎした縁談でございます。職場側から一人、付き添いがいた方が先方にも――」

「私は、久遠の上司ではありません」

「ですが、観記掛では志岐殿が観測官で――」

「職能が違うだけで、上下はありません」

吏員が詰まった。

異紀が横から言った。

「えいやん」

理一郎が振り向く。

「おまえは黙っちょれ」

「なんで。おまえやったら知らん人より楽やし」

理一郎はしばらく異紀を見た。
朝からきっちり仕上がった顔で、本人は何の含みもなくこちらを見ている。

「……分かりました」

吏員が露骨に安堵した。

「ありがとうございます!」

「ただし、私はただの付き添いです。話を進める判断はしません」

「もちろんでございます」

もちろん、の意味も怪しい。
理一郎は深く息を吐いた。

会場は、京洛でも古い料理屋だった。
通された座敷には、相手方の父母と娘がすでに待っていた。

娘は異紀よりいくらか年下に見えた。薄藤色の着物をきちんと着て、初めは緊張したように背を固くしている。

異紀は座へ入る前に一礼した。

「本日は、このような席を設けていただき、ありがとうございます。久遠異紀と申します」

声が違う、と理一郎は思った。
普段より高いわけでも、固いわけでもない。
ただ、よく通る。
相手へ届く位置へ、きちんと言葉を置いている。

父親が顔をほころばせた。

「いやいや、こちらこそ。お噂は以前から伺っておりました」

「どんな噂か、少し怖いですねえ」

異紀が笑う。
座の緊張が一つほどけた。

理一郎は黙って席についた。

――うまい。

いや、知っていた。
異紀はこういう場を知らない男ではない。

人前でどう座るか。誰へ先に礼を向けるか。相手が言葉を探している時に、どこまで待つか。
依代の頃には、自分より遥かに身分の高い者たちの前へ出ていた。

それでも。
普段、窓際で本を積み上げている男と、同じ人間には見えない。

「久遠さまは、書記のお仕事をなさっているとか」

娘が尋ねた。

「はい。博物局で、少し変わったものの記録を」

「変わったもの?」

「説明すると長うなりますき、今日はやめちょきましょうか」

娘が笑った。

「では、また今度お聞きしても?」

異紀も笑う。

「機会があれば」

理一郎は茶を口へ運んだ。
社交辞令だろう。そう思うことにした。

「泰西の本もお読みになると伺いました」

「読むだけなら。話せ言われたら困りますけど」

「私も、外国のお話を読むのが好きで」

「何を読まれるがです?」

そこから、しばらく本の話になった。

娘の声から緊張が抜けていく。
異紀は自分の話ばかりしない。相手が何を好きか聞き、返ってきた答えをちゃんと受けて、また一つ尋ねる。

普段からやっていることだった。
書記官としても。
理一郎と話す時にも。
それを今日は、知らない女に向けている。

理一郎は湯呑みを置いた。
底が卓で鳴った。

異紀がこちらを見やる。
何も言わず、また娘へ向き直った。

しばらくして、父親が話題を変えた。

「久遠殿は、ご婚姻の後もお仕事を続けたいとお考えで?」

「できれば」

「もちろん、こちらとしても、その点は尊重するつもりでおります」

「ありがとうございます」

「婿入りとなるか、こちらから娘を出す形となるかは、この先のお話でしょうが。住まいについても、久遠殿のお仕事に差し障りのないようにと考えております」

理一郎は異紀を見た。
異紀は普通に頷いている。

「ありがたいことです」

――おまえ。
そこで頷くな。

話が進む。
横で見ている間にも、異紀の将来へ知らない家の名前がついていく。

住まい。家。仕事。娘。
そのどれにも異紀は、礼を失さないよう答えている。

父親が理一郎へ向いた。

「志岐殿」

「はい」

「日頃、久遠殿とはご一緒にお仕事をされているとのこと。どのようなお方でしょう」

来た。

理一郎は一度、異紀を見る。
異紀もこちらを見た。
その顔だけ、普段に近い。

「書記官としては、非常に優秀です」

「ほう」

「聞き取りと記録は精確です。判断も早い。書記官として任せて、不安に思うことはありません」

相手の母親が微笑んだ。

「お人柄はいかがですの?」

理一郎は口を閉じた。
異紀の眉が、ほんの少し上がる。

「……人の話は、よく聞きます」

自分でも、何を言っているのかと思った。

「自分のことは後へ回しがちですが、人が困っていることにはよく気づく。仕事で無理を通すような人間でもありません」

「まあ」

娘の顔が明るくなる。
理一郎はそこで言葉を切った。
言えば言うほど、何かを売り渡している気分になる。

父親が満足そうに頷いた。

「志岐殿からご覧になっても、このご縁は――」

「決めるのは久遠です」

思ったより早く、言葉が出た。
座が止まる。

理一郎は姿勢を変えなかった。

「仕事上のことなら、俺から申し上げられます。ですが、婚姻は久遠本人が決めることです」

父親は少し驚いた後、笑った。

「これはごもっとも」

隣で異紀が、何も言わず理一郎を見ていた。

料理屋を出た頃には、昼を少し回っていた。
二人は並んで分館へ戻った。

しばらく、異紀は機嫌よく歩いていた。

「見合いいうても、普通に話すだけながやね」

「……そうだな」

「相手の人も、感じよかったし」

「ああ」

「本も読む人やった」

「聞いてた」

「話、合いそうやったねえ」

理一郎の歩幅が少し伸びた。
異紀が遅れてついてくる。

「理一郎」

「何や」

「機嫌悪い?」

「別に」

「やっぱり」

「急に付き添わされて疲れただけだ」

「そう」

少し歩く。
異紀がまた言った。

「先方がえい言うなら、もう一遍くらい会うても――」

「行くのか」

声が思ったより低く出た。
異紀が理一郎を見る。

「何」

「……いや」

「会うだけやろ」

理一郎は前を向いた。

「好きにしたらえい」

「うん。ほいたら――」

「……」

違う。
そういう意味ではない。
しかし今さら止める言葉も見つからない。

異紀はまた歩き始めた。
理一郎は黙って歩いた。

分館へ戻るなり、異紀は羽織を脱いだ。
きれいに畳んで自席へ置き、襟元へ指を入れる。

「はあ」

朝から通っていた背筋が、椅子の背へ沈んだ。

「疲れた」

理一郎は無言で湯を沸かす。
異紀は袴の紐を少し緩め、椅子へ座った。

「腹減った」

料理屋とは名ばかりで、あの席は茶しか出なかった。
理一郎の手が止まる。

「……おまえ」

「何」

数刻前まで縁談相手の家族を前に端然と座っていた男が、今は理一郎の机を見ている。

「なんかない?」

「……握り飯ならある」

「食う」

「勝手にしろ」

包みを渡す。
異紀は開けて、一口食べた。

「うまい」

「そうか」

二口目。

「卵ある?」

「ある」

「もらう」

理一郎は弁当箱を開いた。
異紀は当然のように箸を伸ばす。

「今日、ありがとね」

「何が」

「おまえがおって助かった」

理一郎が顔を上げる。
異紀は卵焼きを食べている。

「知らん人ばっかりやったら、わしも少し困ったかもしれん。おまえがおったき、楽やった」

「…………」

だったら。
だったら俺のところにおれ。

喉まで上がったものを、理一郎は茶と一緒に飲み込んだ。
異紀は何も気づかない。

「これで形式は済んだろ」

理一郎は湯呑みを置いた。

「済んでない」

「え?」

「何で済んだと思っちゅう」

「一遍顔合わせしたらえいいう話やったろ」

「それは、本館が話を受けさせるために柔らかく言っただけだ」

異紀の箸が止まった。

「……形式上や言うたけど」

「その《形式》そのものが建前だと言っている」

異紀の眉が寄った。

「形式が、建前?」

「そうだ」

「形式やないが?」

「やない」

異紀の眉は戻らない。
理一郎には見覚えがあった。規定と現物が噛み合わない時の顔だ。

依代の前では、形式とは文字通り「形式」だった。定められた手順があり、務めれば終わる。建前として使う語ではなかった。

「……ややこしいねえ」

「今そこに腹立てても仕方ない」

理一郎は椅子を引いて、異紀の向かいへ座った。

「おまえ、今日何のために行ったと思ってた」

「先方に顔見せて、礼をして、話をして。終わり」

「向こうは始まりだと思ってる」

異紀の眉が寄る。

「今日、おまえが悪くなかったら、次にまた会う。それで互いに異存がなければ、家同士で話を進める」

「それは知っちゅう」

「……知ってる?」

「婚姻の手順は知っちゅうよ」

理一郎は黙った。

「じゃあ、何でこんなに気軽なんや」

「何でいうても」

「婿に入るか、嫁を取るかいう話になるんだぞ」

「うん」

「家族になる」

「知っちゅう」

「同じ家で暮らす」

「知っちゅう」

「家の存続を望まれたら、子をなすことも求められる」

「まあ、そうやろうねえ」

理一郎は眉間へ手をやった。

「……それをやるのは、おまえだぞ」

「知っちゅうよ」

理一郎は息を吐いた。

「じゃあ聞くが。仕事が終わったら、どこへ帰る」

異紀の目が、少しずつ動く。

「……どこって?」

「結婚したら、相手のいる家や」

異紀は握り飯を持ったまま首を傾げた。

「……毎日?」

「何が」

「その人のおる家へ帰るが」

「普通はそうやろ」

「分館から帰ったあと?」

「そうや」

「おまえは?」

「俺は自分の家へ帰る」

異紀がまた止まった。

「……おまえんとこには?」

「なんで結婚したおまえが俺のところへ帰ってくるんだ」

「…………」

ようやく。
本当にようやく。
異紀の頭の中で何かが繋がったらしい。

「……それは困るねえ」

理一郎の眉が上がった。

「何が」

「おまえと飯食えんなる」

「そこからか」

「本も分けないかん」

「何の話だ」

「三福も」

「三福は分館の猫や」

「そうやけど」

異紀は握り飯へ目を落とした。
さっきまでとは違う顔をしている。

理一郎は腕を組んだ。

「それにな」

「まだあるが」

「婚姻したら、その人はおまえの妻になる」

「うん」

「夫婦として触れることもある」

異紀が顔を上げた。

「……あ」

理一郎は目を閉じた。

「今か」

「いや、知っちょったよ?」

「知識の話をしゆうがやない!」

異紀は握り飯を持ったまま考え込んだ。

「どのくらい」

「俺に聞くな」

「いや、理一郎の方が知識あるろ」

「おまえの方こそあれだけの本を読んで何を言う」

異紀は目を瞬かせた。

「……それは」

「何だ」

「ちょっと違うねえ」

「何が」

異紀は答えなかった。
代わりに、理一郎を見る。

今日の見合いの席では一度も見せなかった顔だった。
仕事でも儀礼でもない、いつもの異紀の顔。

「わし、もう一遍行かんでもえいかもしれん」

理一郎はしばらく何も言わなかった。

「……初めからそうしてくれ」

「形式やと思うちょったき」

「おまえの形式は精度が高すぎる」

「何それ」

「相手が本気になる」

異紀が少し笑った。

「そうなが?」

「そうなが、やない」

「理一郎、今日ずっと機嫌悪かったもんねえ」

理一郎の顔が固まる。
異紀の手が止まった。

一拍。

「……あ」

今度の「あ」は、さっきとは音が違った。

理一郎は嫌な予感がして目を逸らした。

「何や」

「おまえ」

「何も言うな」

「わしが見合い――」

「言うな」

異紀の口元が上がる。

「妬いて――」

「異紀」

低い声が落ちた。
異紀はとうとう笑った。

理一郎は椅子から立ち上がる。

「もう帰れ」

「わし、まだ握り飯残っちゅう」

「食うてから帰れ」

「卵もう一個ある?」

「ある!」

理一郎は立ったまま弁当箱の蓋へ卵焼きを追加した。
異紀は笑いを堪えながら箸を伸ばす。

「ありがとう」

「……早う食え」

異紀は卵焼きを口へ入れた。
食べ終えてから、言った。

「次は断る」

理一郎の手が止まる。
異紀はもう理一郎を見ていなかった。

「形式でも」

理一郎は返事をしなかった。
代わりに、空になった湯呑みへ茶を足した。

異紀はその湯呑みを、自分の方へ引き寄せた。