名のつかないものを観て、記録に残す。
観記掛は、そういう分室だった。
その秋、書記官に縁談が来た。形式上の話だという。
書記官は形式を完璧に務め、観測官はその横で一日焼かれた。
◇
朝、執務室の戸を開けたところで、理一郎は足を止めた。
窓際の机に異紀がいる。
いるにはいる。
ただし、普段の久遠異紀ではなかった。
淡い鼠がかった紺の羽織に、細かな地紋の入った着物。袴の折り目までまっすぐに通っている。耳から首筋へ落ちる淡茶の髪も、今日は一筋の乱れもなく整えられていた。
顔立ちそのものはいつもと同じはずなのに、襟を正し、背を伸ばして座っているだけで、ずいぶん違って見える。
理一郎は戸を閉めた。
「……何や、その格好」
異紀が顔を上げる。
「見合いやき」
「それは知っている」
「ほいたら何なが」
理一郎は答えず、自分の机へ向かった。
異紀は手元の紙包みを開く。中から小さな櫛を出し、耳の横を一度だけ整えた。
「形式いうからには、先方がおることやしねえ。失礼のないようにはせんと」
理一郎の手が椅子の背で止まる。
「……誰が、形式だと言った」
「本館の人。『ほんの形式ですから、一度お顔を合わせていただくだけで』って」
「…………」
「何」
「いや」
理一郎は座った。
嫌な予感がした。
依代として、こういう席は何年も務めてきた男だ。衣も、所作も、半端にはしない。
だから厄介なのだ。
「異紀」
「ん?」
「今日、余計なことは言うなよ」
「なんで」
「……いや。もうえい」
廊下を急ぐ足音がした。
間もなく戸が叩かれ、本館の若い吏員が顔を出した。
「志岐殿、久遠殿。朝から申し訳ございません」
理一郎が立つ。
吏員は額の汗を拭った。
「本日、久遠殿にご同席する予定でありました野々村主事ですが、本館で急な来客がございまして、どうしても席を外せぬことになりまして」
理一郎の眉が寄った。
「それで?」
「その……代わりに、志岐殿にお願いできないかと」
「私が?」
「久遠殿はご親族が遠方ですし、今回は本館からお話をお繋ぎした縁談でございます。職場側から一人、付き添いがいた方が先方にも――」
「私は、久遠の上司ではありません」
「ですが、観記掛では志岐殿が観測官で――」
「職能が違うだけで、上下はありません」
吏員が詰まった。
異紀が横から言った。
「えいやん」
理一郎が振り向く。
「おまえは黙っちょれ」
「なんで。おまえやったら知らん人より楽やし」
理一郎はしばらく異紀を見た。
朝からきっちり仕上がった顔で、本人は何の含みもなくこちらを見ている。
「……分かりました」
吏員が露骨に安堵した。
「ありがとうございます!」
「ただし、私はただの付き添いです。話を進める判断はしません」
「もちろんでございます」
もちろん、の意味も怪しい。
理一郎は深く息を吐いた。
◇
会場は、京洛でも古い料理屋だった。
通された座敷には、相手方の父母と娘がすでに待っていた。
娘は異紀よりいくらか年下に見えた。薄藤色の着物をきちんと着て、初めは緊張したように背を固くしている。
異紀は座へ入る前に一礼した。
「本日は、このような席を設けていただき、ありがとうございます。久遠異紀と申します」
声が違う、と理一郎は思った。
普段より高いわけでも、固いわけでもない。
ただ、よく通る。
相手へ届く位置へ、きちんと言葉を置いている。
父親が顔をほころばせた。
「いやいや、こちらこそ。お噂は以前から伺っておりました」
「どんな噂か、少し怖いですねえ」
異紀が笑う。
座の緊張が一つほどけた。
理一郎は黙って席についた。
――うまい。
いや、知っていた。
異紀はこういう場を知らない男ではない。
人前でどう座るか。誰へ先に礼を向けるか。相手が言葉を探している時に、どこまで待つか。
依代の頃には、自分より遥かに身分の高い者たちの前へ出ていた。
それでも。
普段、窓際で本を積み上げている男と、同じ人間には見えない。
「久遠さまは、書記のお仕事をなさっているとか」
娘が尋ねた。
「はい。博物局で、少し変わったものの記録を」
「変わったもの?」
「説明すると長うなりますき、今日はやめちょきましょうか」
娘が笑った。
「では、また今度お聞きしても?」
異紀も笑う。
「機会があれば」
理一郎は茶を口へ運んだ。
社交辞令だろう。そう思うことにした。
「泰西の本もお読みになると伺いました」
「読むだけなら。話せ言われたら困りますけど」
「私も、外国のお話を読むのが好きで」
「何を読まれるがです?」
そこから、しばらく本の話になった。
娘の声から緊張が抜けていく。
異紀は自分の話ばかりしない。相手が何を好きか聞き、返ってきた答えをちゃんと受けて、また一つ尋ねる。
普段からやっていることだった。
書記官としても。
理一郎と話す時にも。
それを今日は、知らない女に向けている。
理一郎は湯呑みを置いた。
底が卓で鳴った。
異紀がこちらを見やる。
何も言わず、また娘へ向き直った。
しばらくして、父親が話題を変えた。
「久遠殿は、ご婚姻の後もお仕事を続けたいとお考えで?」
「できれば」
「もちろん、こちらとしても、その点は尊重するつもりでおります」
「ありがとうございます」
「婿入りとなるか、こちらから娘を出す形となるかは、この先のお話でしょうが。住まいについても、久遠殿のお仕事に差し障りのないようにと考えております」
理一郎は異紀を見た。
異紀は普通に頷いている。
「ありがたいことです」
――おまえ。
そこで頷くな。
話が進む。
横で見ている間にも、異紀の将来へ知らない家の名前がついていく。
住まい。家。仕事。娘。
そのどれにも異紀は、礼を失さないよう答えている。
父親が理一郎へ向いた。
「志岐殿」
「はい」
「日頃、久遠殿とはご一緒にお仕事をされているとのこと。どのようなお方でしょう」
来た。
理一郎は一度、異紀を見る。
異紀もこちらを見た。
その顔だけ、普段に近い。
「書記官としては、非常に優秀です」
「ほう」
「聞き取りと記録は精確です。判断も早い。書記官として任せて、不安に思うことはありません」
相手の母親が微笑んだ。
「お人柄はいかがですの?」
理一郎は口を閉じた。
異紀の眉が、ほんの少し上がる。
「……人の話は、よく聞きます」
自分でも、何を言っているのかと思った。
「自分のことは後へ回しがちですが、人が困っていることにはよく気づく。仕事で無理を通すような人間でもありません」
「まあ」
娘の顔が明るくなる。
理一郎はそこで言葉を切った。
言えば言うほど、何かを売り渡している気分になる。
父親が満足そうに頷いた。
「志岐殿からご覧になっても、このご縁は――」
「決めるのは久遠です」
思ったより早く、言葉が出た。
座が止まる。
理一郎は姿勢を変えなかった。
「仕事上のことなら、俺から申し上げられます。ですが、婚姻は久遠本人が決めることです」
父親は少し驚いた後、笑った。
「これはごもっとも」
隣で異紀が、何も言わず理一郎を見ていた。
◇
料理屋を出た頃には、昼を少し回っていた。
二人は並んで分館へ戻った。
しばらく、異紀は機嫌よく歩いていた。
「見合いいうても、普通に話すだけながやね」
「……そうだな」
「相手の人も、感じよかったし」
「ああ」
「本も読む人やった」
「聞いてた」
「話、合いそうやったねえ」
理一郎の歩幅が少し伸びた。
異紀が遅れてついてくる。
「理一郎」
「何や」
「機嫌悪い?」
「別に」
「やっぱり」
「急に付き添わされて疲れただけだ」
「そう」
少し歩く。
異紀がまた言った。
「先方がえい言うなら、もう一遍くらい会うても――」
「行くのか」
声が思ったより低く出た。
異紀が理一郎を見る。
「何」
「……いや」
「会うだけやろ」
理一郎は前を向いた。
「好きにしたらえい」
「うん。ほいたら――」
「……」
違う。
そういう意味ではない。
しかし今さら止める言葉も見つからない。
異紀はまた歩き始めた。
理一郎は黙って歩いた。
◇
分館へ戻るなり、異紀は羽織を脱いだ。
きれいに畳んで自席へ置き、襟元へ指を入れる。
「はあ」
朝から通っていた背筋が、椅子の背へ沈んだ。
「疲れた」
理一郎は無言で湯を沸かす。
異紀は袴の紐を少し緩め、椅子へ座った。
「腹減った」
料理屋とは名ばかりで、あの席は茶しか出なかった。
理一郎の手が止まる。
「……おまえ」
「何」
数刻前まで縁談相手の家族を前に端然と座っていた男が、今は理一郎の机を見ている。
「なんかない?」
「……握り飯ならある」
「食う」
「勝手にしろ」
包みを渡す。
異紀は開けて、一口食べた。
「うまい」
「そうか」
二口目。
「卵ある?」
「ある」
「もらう」
理一郎は弁当箱を開いた。
異紀は当然のように箸を伸ばす。
「今日、ありがとね」
「何が」
「おまえがおって助かった」
理一郎が顔を上げる。
異紀は卵焼きを食べている。
「知らん人ばっかりやったら、わしも少し困ったかもしれん。おまえがおったき、楽やった」
「…………」
だったら。
だったら俺のところにおれ。
喉まで上がったものを、理一郎は茶と一緒に飲み込んだ。
異紀は何も気づかない。
「これで形式は済んだろ」
理一郎は湯呑みを置いた。
「済んでない」
「え?」
「何で済んだと思っちゅう」
「一遍顔合わせしたらえいいう話やったろ」
「それは、本館が話を受けさせるために柔らかく言っただけだ」
異紀の箸が止まった。
「……形式上や言うたけど」
「その《形式》そのものが建前だと言っている」
異紀の眉が寄った。
「形式が、建前?」
「そうだ」
「形式やないが?」
「やない」
異紀の眉は戻らない。
理一郎には見覚えがあった。規定と現物が噛み合わない時の顔だ。
依代の前では、形式とは文字通り「形式」だった。定められた手順があり、務めれば終わる。建前として使う語ではなかった。
「……ややこしいねえ」
「今そこに腹立てても仕方ない」
理一郎は椅子を引いて、異紀の向かいへ座った。
「おまえ、今日何のために行ったと思ってた」
「先方に顔見せて、礼をして、話をして。終わり」
「向こうは始まりだと思ってる」
異紀の眉が寄る。
「今日、おまえが悪くなかったら、次にまた会う。それで互いに異存がなければ、家同士で話を進める」
「それは知っちゅう」
「……知ってる?」
「婚姻の手順は知っちゅうよ」
理一郎は黙った。
「じゃあ、何でこんなに気軽なんや」
「何でいうても」
「婿に入るか、嫁を取るかいう話になるんだぞ」
「うん」
「家族になる」
「知っちゅう」
「同じ家で暮らす」
「知っちゅう」
「家の存続を望まれたら、子をなすことも求められる」
「まあ、そうやろうねえ」
理一郎は眉間へ手をやった。
「……それをやるのは、おまえだぞ」
「知っちゅうよ」
理一郎は息を吐いた。
「じゃあ聞くが。仕事が終わったら、どこへ帰る」
異紀の目が、少しずつ動く。
「……どこって?」
「結婚したら、相手のいる家や」
異紀は握り飯を持ったまま首を傾げた。
「……毎日?」
「何が」
「その人のおる家へ帰るが」
「普通はそうやろ」
「分館から帰ったあと?」
「そうや」
「おまえは?」
「俺は自分の家へ帰る」
異紀がまた止まった。
「……おまえんとこには?」
「なんで結婚したおまえが俺のところへ帰ってくるんだ」
「…………」
ようやく。
本当にようやく。
異紀の頭の中で何かが繋がったらしい。
「……それは困るねえ」
理一郎の眉が上がった。
「何が」
「おまえと飯食えんなる」
「そこからか」
「本も分けないかん」
「何の話だ」
「三福も」
「三福は分館の猫や」
「そうやけど」
異紀は握り飯へ目を落とした。
さっきまでとは違う顔をしている。
理一郎は腕を組んだ。
「それにな」
「まだあるが」
「婚姻したら、その人はおまえの妻になる」
「うん」
「夫婦として触れることもある」
異紀が顔を上げた。
「……あ」
理一郎は目を閉じた。
「今か」
「いや、知っちょったよ?」
「知識の話をしゆうがやない!」
異紀は握り飯を持ったまま考え込んだ。
「どのくらい」
「俺に聞くな」
「いや、理一郎の方が知識あるろ」
「おまえの方こそあれだけの本を読んで何を言う」
異紀は目を瞬かせた。
「……それは」
「何だ」
「ちょっと違うねえ」
「何が」
異紀は答えなかった。
代わりに、理一郎を見る。
今日の見合いの席では一度も見せなかった顔だった。
仕事でも儀礼でもない、いつもの異紀の顔。
「わし、もう一遍行かんでもえいかもしれん」
理一郎はしばらく何も言わなかった。
「……初めからそうしてくれ」
「形式やと思うちょったき」
「おまえの形式は精度が高すぎる」
「何それ」
「相手が本気になる」
異紀が少し笑った。
「そうなが?」
「そうなが、やない」
「理一郎、今日ずっと機嫌悪かったもんねえ」
理一郎の顔が固まる。
異紀の手が止まった。
一拍。
「……あ」
今度の「あ」は、さっきとは音が違った。
理一郎は嫌な予感がして目を逸らした。
「何や」
「おまえ」
「何も言うな」
「わしが見合い――」
「言うな」
異紀の口元が上がる。
「妬いて――」
「異紀」
低い声が落ちた。
異紀はとうとう笑った。
理一郎は椅子から立ち上がる。
「もう帰れ」
「わし、まだ握り飯残っちゅう」
「食うてから帰れ」
「卵もう一個ある?」
「ある!」
理一郎は立ったまま弁当箱の蓋へ卵焼きを追加した。
異紀は笑いを堪えながら箸を伸ばす。
「ありがとう」
「……早う食え」
異紀は卵焼きを口へ入れた。
食べ終えてから、言った。
「次は断る」
理一郎の手が止まる。
異紀はもう理一郎を見ていなかった。
「形式でも」
理一郎は返事をしなかった。
代わりに、空になった湯呑みへ茶を足した。
異紀はその湯呑みを、自分の方へ引き寄せた。