然るべき時に。

「吸血鬼って、知っちゅう?」

夏の夕方、執務室。
書記官が妙な話を始めた。
単発で読めます。

夕方になっても、暑さは引かなかった。

開けた窓から入る風は弱く、机の上に重ねた紙の角が、ときおり持ち上がる程度だった。
庭の木では、鳴き疲れた蝉がまだ一匹残っている。

理一郎は返却分の記録を紐で括った。
結び目を二度確かめ、棚の端へ置く。

向かいでは、異紀が本を読んでいた。

朝から同じ冊子だった。
頁の進みは遅い。

それ自体は珍しくない。異紀は一行に時間をかけることがあるし、途中で別の本へ移ることもある。

理一郎が次の紙へ手を伸ばしたところで、異紀が言った。

「吸血鬼って、知っちゅう?」

筆が止まった。

「……何や、急に」

異紀は本から顔を上げない。

「知っちゅうか訊いたがよ」

「名前くらいは」

西洋の怪談だったはずだ。

死者が夜ごと墓から出て、生きた人間の血を啜る。そうした話を、翻訳物の端で読んだ記憶がある。

理一郎は筆先を硯へ戻した。

「死人が蘇るとか、夜しか動けんとか。人の生き血を飲む化け物やろ」

「ほう」

異紀が頁を一枚繰った。

「日の光に当たると焼ける、とも言うねえ。鏡に映らん。十字架を嫌う。心臓へ杭を打たれると死ぬ」

「詳しいな」

「ほかにもあるで。招かれんと家へ入れんとか、流れる水を渡れんとか。大蒜が嫌いやとか」

「最後のはずいぶん生活臭があるな」

異紀の口元が動いた。

外で蝉が途切れた。
代わりに、どこかの家から桶を置く音がした。

理一郎は紐の余りを切り、鋏を机へ戻した。

「それがどうした」

「いや」

異紀は本を閉じた。

薄い冊子だった。表紙には何も書かれていない。

「こんなん、全部作り話や」

「そらそうやろ」

理一郎は硯の蓋へ手を伸ばした。

死人が墓から起き、人の血を啜る。
そういう怪談なのだと思って聞いていた。

「ほんまなんはね、長う生きること」

蓋を持った手が浮いたままになった。

「……何が」

「吸血鬼」

異紀は冊子を机へ置いた。

「人より、ずっと」

理一郎は硯へ蓋を落とした。

「歳も取りにくい。あるところまで育ったら、その先はゆっくりになる」

「……なんでそんなに言い切れる」

「そういうもんやき」

「そういうもん、て」

異紀は気にした様子もなく続けた。

「日の光でも焼けん。鏡にも映る。十字架も関係ない。川も渡れるし、大蒜も食える」

「ずいぶん便利になったな」

「元からや」

異紀が答えた。

理一郎は次の帳面を開いた。

「血も飲む」

理一郎の目が、紙から異紀の顔へ戻った。

「そこは残るのか」

「飲める、が近いねえ。なくても生きられる」

「……は?」

「普通に飯食うて暮らせるで。魚も肉も米も食う」

異紀は卓上の冊子を押した。

「人の血ぃは、別に要らん」

「なら、なぜ飲む」

「うまいき」

あまりにも平らに言われ、理一郎は黙った。

異紀は続けた。

「酒みたいなもんやね。飲まんでも死なん。けんど、好きなやつは好きや」

「酒と違って、飲まれる方は血を失うだろ」

「せやき、加減のできん悪食者がやるがよ」

窓の外で、葉が一度鳴った。

「うまいから、もう一口。まだいけるから、もう一口。そうやって飲みすぎる。相手が人なら、そら死ぬこともある」

異紀はそこで湯呑みを持ち上げた。
空なのを忘れていたのか、口元まで運び、また戻す。

陶器の底が机へ当たった。

「それで、人は吸血鬼に襲われたと言う」

理一郎はしばらく異紀を見た。

話しぶりに迷いがない。

初めは、どこかで読んだ異国の怪談を披露しているものと思っていた。
そのくせ、細部だけ妙に暮らしへ近い。

「……まるで見てきたように言うな」

「そらねえ」

異紀がこちらを向いた。

西日はもう窓枠の下まで落ちていた。

白い額から頬へ影が入り、瞳の色がいつもより暗く見える。

「わしがそうやもん」

理一郎の手が、硯の縁へ触れたまま留まった。

異紀は笑わない。

冗談を言った者の顔でもなかった。

だからといって、本気だと示すものもない。

牙が見えるわけでもない。
皮膚が透けるでもない。
影は畳へ普通に落ちている。

理一郎は異紀の顔を見た。

初めて会ったときにも、長く見た。

整いすぎている、と思ったことを覚えている。
骨の配置を追って、皮膚の下へ意識を逃がした。

今も形は変わらない。

細い鼻梁。薄い瞼。光を受けても色の深い瞳。
口元には、普段と同じ線がある。

ただ、いつからこの顔なのかと考えたところで、理一郎が知っているのは数年にも満たない。

判断する材料にはならなかった。

「……おまえな」

異紀は肩を揺らした。

「信じる?」

「証拠を出せ」

「嫌や」

「なぜ」

「面倒やき」

理一郎は息を吐いた。

そこだけは、ひどく異紀らしい。

机へ向き直ろうとした。

「でも」

異紀の声が続いた。

理一郎の手が紙の上へ落ちる。

「理一郎の血ぃは、うまそうやねえ」

今度は、すぐに顔を上げた。

異紀は座ったままこちらを見ていた。

目が合う。

冗談なら、ここで笑うだろうと思った。

異紀の口元は動かない。

理一郎は自分の襟へ手をやった。

夏のあいだは低く結っている髪を、肩の後ろからひとまとめに掴む。
黒い束を右へ払った。

襟元へ指を入れる。

布を下げると、首筋へ夕方の空気が触れた。

異紀の眉が動いた。

「……何しゆう」

理一郎は自分の首へ指を当てた。

「飲むなら、ここにしろ」

異紀が口を閉じた。

今度は向こうの返事が遅れた。

「おまえ」

「この下に総頸動脈がある。外側には内頸静脈。深く傷つけたら洒落にならん」

指をずらす。

「噛むなら、ここを外せ。浅くやれ」

「……おまん、わしが吸血鬼やて信じちゅうが?」

「知らん」

「知らんのに首出す?」

「おまえが俺の血をうまそうだと言っただろ」

異紀は何も言わなかった。

理一郎は髪を押さえたまま異紀を見る。

「飲まないなら戻すぞ」

椅子が床を擦った。

異紀が立ち上がる。

机を回ってくる足音は、いつもと変わらない。

理一郎の前で止まった。

近くで見る顔にも、変わったところはなかった。

異紀の手が黒髪の端へ伸びる。
理一郎が押さえていた束を受け取り、肩の向こうへ避けた。

「……ほんまに?」

「何を今さら訊く」

「後悔するかもしれんで」

「おまえが吸血鬼ならな」

異紀の目が細くなる。

「まだ信じてないが?」

「証拠がない」

「ほいたら、確かめる?」

返事をする前に、異紀が身を屈めた。

首元へ息が当たる。

理一郎は動かなかった。

牙が来るなら、どこへ入る。

そんなことを考えた。

頸動脈はもっと内側だ。ここなら深くさえ傷つけなければ――

唇だった。

温かい。

一度触れ、そのまま離れない。

ちり、とした痛みが走った。

異紀が身を起こす。

理一郎は首筋へ手をやった。
爪の先で確かめる。

血はつかなかった。

もう一度、異紀を見る。

何をした。

口に出す前に、異紀が言った。

「うまそうやき、今はやめちょく」

そのまま、言葉を継ぐ。

「しかるべき時に、改めていただく」

理一郎の眉が寄る。

異紀は笑った。
目が、さっきの場所へ落ちる。

「忘れんように。目印」

理一郎は首を押さえたまま、異紀を見た。

「……勝手に保存食にするな」

異紀は答えなかった。

理一郎の髪を避けていた手が下りる。

黒い束が肩を滑り、まだ首筋にある腕へ落ちた。

窓の外で、暮れ六つの鐘が鳴り始めた。