『如水』
薄明かりに
水の香りが 息をなぞる
指先ひとつ 触れただけで
輪郭が かすかに揺らぐ
数多の 線を追い
こぼれた余韻を すくいとる
声になる前の 震えごと
紙の白さに 沈めていく
理(ことわり)と 異(ことわざ)の あわいで
水面に触れた 雫が
輪郭を ほどき
声だけを 浮かべて
音もなく 写し出す
誰のものでもない 息を
一行だけ 縫いとめる
名もつかない 揺れだけが
まなざしを やどしている
乾ききらない 墨の香りが
水底まで 染みてくる
すくいきれない 囁きが
深く 耳に残る
理(ことわり)と 異(ことわざ)の あわいで
水面に触れた 雫が
輪郭を ほどき
声だけを 残して
静かに 写し取る
誰のものでもない 声を
一行だけ 縫いとめる
記録のひとつに 埋もれても
並び立ち 息づいている
理玄異聞録(りげんいぶんろく)
舞台は近代幻想。
蒸気機関や解剖学といった「理(ことわり)」が芽吹きながら、
なお「異(ことわざ)」の囁きが影に潜む時代。
標本医・志岐理一郎――
因習を背負う家に生まれ、
役目を課されながらも、
冷静なまなざしで未知を“形”として測ろうとする者。
書記官・久遠異紀――
幼き日より“器”として制度に囚われ、
身をすり減らしてきた過去を持ちながら、
それでも自らの意思で「声を記す」道を選んだ者。
一方が形を測り、
一方が声を写すとき、
記録は初めて完成する。
第五話では、
弾くと女の声で鳴る二胡が、観記掛へ持ち込まれる。
その観測のなかで、
記されるものの外側にある気配が、静かに揺れはじめる。
記されなければ、すべては“なかったこと”。
その境界に、二人は淡々と、
ときに緊迫のうちに立ち向かっていく。
幕末余燼録が「火」の物語だとすれば、
理玄異聞録は「水」の物語。
形と声が重なり合うとき、
まだ言葉にならぬ真実が、
静かに浮かび上がる。