『朧紋』
夢と現の 狭間で
名もないゆらぎが まじりあう
偽りと真の 境をたどり
記憶と忘却の 綾に滲む
刹那と永遠の 糸を
そっと なぞるように
並び立っていた ふたつのまなざし
いまは 同じ深みへ還り
理(ことわり)と 異(ことわざ)の あわいから
ただひとつ 息づいている
[挿話]
楼閣の上階は、灯籠の朱で薄く染まっていた。
黒檀の床は磨かれているのに、匂いだけが古い。香と酒と、どこかで焦げた紙の甘さ。
階下から、ときどき牌の乾いた音が遅れて響く。笑い声は途中で切れ、残らない。
香炉の煙が、細くまっすぐ立っている。
炉の脇には、欠けのない小さな陶片が一つ、伏せたまま置かれていた。
志岐理一郎は椅子に深く沈んだまま、机に手を出さない。
酒器は机上に置かれ、光を拾っている。
視線は煙の高さに留まり、誰の顔にも行かない。
それでも、声が落ちる。
戸口の向こうで、足がいったん止まる。
布が擦れ、息がひとつ、部屋の縁を撫でた。
簾の影に、この館の護りが二人。腰のあたりで玉の札がかすかに鳴る。
久遠異紀が入ってくる。
長居する客の顔で、客の足取りではない。袖口が揺れ、足音は残らない。
香が一筋、ふっと冷える。
「……まだ、座っちゅうがやね」
返事はない。
煙の先で、瞼がわずかに降りる。
異紀の口元が、朱に触れた。
笑いは形だけで、温度は出さない。
背後へ回り、椅子の背に両腕を預ける。
肩越しに覗き込む高さ。距離は、息が触れないところ。
けれど、髪の先だけが理一郎の首筋をかすめた。
階下の牌が、ひとつ倒れる音。
「今夜、用のある顔やないね。……用のあるのは、向こうの人らか」
理一郎の視線が、煙から外れないまま、ほんの小さく横に滑る。
簾の影を、一度だけかすめる。
異紀はそれを拾い、瞳だけを細める。まぶたの影が一拍遅れて落ちた。
「ほいたら、わしは“置いとく”だけにしとこか」
懐から薄い封が一つ。
紋も印もなく、封蝋もない。
上等な紙でもない。
端にだけ、茶の染みがある。
机へ放らず、角へ寄せて置く。
香炉の煙の影が、紙の端を撫でた。異紀の指は、紙に触れないまま宙で止まる。
「……これ、開けるがはあんたやきね」
声だけが落ちる。
簾の向こうで、誰かが唾をのむ。
理一郎は封へ目をやらない。
右手の指が机の縁を一度なぞり、そこで止まる。
どこかで、息が揃う。
灯籠の火が小さく揺れ、また静まった。
異紀は背に預けた腕から、力を少し抜いた。
袖の皺がほどける。肩の線がわずかに落ちる。
「わし、どこの人間でもないがよ」
「知っている」
語尾が床へ落ちた。
異紀の目が細くなる。
笑いの形はあるのに、最後まで閉じない。瞳の奥だけが、乾いたまま残る。
「どこにも属してないき、どこへでも行ける。……それを嫌う人は多いねぇ」
「……この座では要らん」
灯籠の朱が、異紀の瞳の縁に滲む。
異紀は瞬きの途中で止め、戻す。
「理一郎、怖いこと言うね」
「事実だ」
異紀の指先が封の上へ寄り、空で止まる。
そのまま、揺れない。爪の先だけが灯りを拾う。
「……今夜、これ開けたら。誰か一人、消えるかもしれん」
軽い声のまま、床に落ちない。
部屋の隅で、誰かの喉が鳴った。
理一郎は煙を見ている。
煙は曲がらない。
「……名が出るだけだ」
異紀が、ふ、と息をこぼした。
笑いとも、ため息ともつかない。息が香に混じって薄く散る。
「——わしは“知らせた”ことになるね」
「ああ」
「責任は?」
「持たん」
異紀は身を寄せる。
耳元には届かない。
ふっと落ちた息が、理一郎の襟元で散っていく。
「今夜、手ぇ空いちゅう?」
言い切らないまま、軽さだけを残す。
瞳だけが先に答えを待ち、口元は遅れて笑う。
理一郎は黙って、酒器を机の端へ少し寄せた。
器の底が、木に小さく触れる。
異紀の腕が背へ戻り、また同じ距離に収まる。
甘さは乗らず、熱も立てない。けれど、置いた場所だけは逃げ場を減らす。
「……あんた、ほんまに黙って決めるね」
「必要なことだけだ」
異紀の視線が部屋の隅を掠めた。
控えていた者たちの喉が一斉に鳴る。誰も動かない。
「ほいたら、用のある人らは、勝手に動くろう」
「その程度の人間だ」
「冷たいねぇ」
「……優しいと思われる必要はない」
異紀は少し首を傾ける。
椅子の背に預けた腕が、ゆっくり組み替わる。指が重ならず、最後だけ触れる。
「理一郎」
呼んで、言葉が途中で止まる。
口元が少し動き、そこで終わる。声にならない音だけが、喉の奥で潰れた。
理一郎は煙を見ている。
封は開かれない。
灯籠の朱が、紙の端にだけ滲んでいる。
煙は、まっすぐ立ったまま。
本編で少し軽めの内容の回用に、コメディ回の後、EDをシティポップで遊んだら、チャイナノワール風が似合いすぎて、小話までできました(笑)
※本編とは完全に別軸です。